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2011/04/10

祈りの果てにあるものは

 祈る心がある。
 あると思う…。

 が、闇の世界に踏み惑った人間には、祈りを捧げる場がない。
 あるいは、方向感を失った人間には、祈りを闇の何処へ向けて捧げればいいのか分からないのである。

Candle

→ 色付きガラスの中の蝋燭。(画像は、「ろうそく - Wikipedia」より)

 祈りは祈りであり、この世の外に届くことはないのだろう。
 そうだ。私は祈りが届くから、届くことを期待して祈っているわけではなかったのだった。祈るしかないから祈っているのだ。それが悲鳴に他ならないとしても、他にどうすることが私にできようか。

 祈りの果てにあるものは…、きっと、闇。

 祈りは、ただ、祈りであればいい。ただ、闇に向かって祈りの思いを発すればいい。それは、業に溺れきった人間の救いを求める唯の叫びあるかもしれない。声なき声に過ぎないかもしれない。
 溺れるものが藁をも掴む思いで「助けて!」と叫ぶのであっても、それはきっと祈りなのだと思う。それでいいはずなのだ。

が、何をも信じていないものには、祈りは祈りとはならず、嗚咽それとも悲鳴にも似た体の震えがあるばかり。
 闇の果て、闇の奥には、沈黙よりも遥かに凄まじい空白があるだけ。

 神も仏も、その存在を否定しない。また、多くの人が神か仏かの存在を信じていることも知らないわけではない。
 けれど、人によっては、神も仏も決して見えないし感じられないことがあることを思うのみである。

 肉眼に見えるほどのものなら、それは仏でも神でもない、それは何かの幻像、何かの狂気、心の空漠の底知れぬ深さに怯えるが故の、めくらまし…。

 ある人は、仏像を全く認めない。そんなものは、どんなに美しいとしても、仏への心からの希求の念を眩しさと神々しさで、心の目を逸らしているに過ぎないとしか感じられない。
 神も仏も人間からは遥かに遠い存在なのだ。

 過日、何処かの町を歩いていたら、都会では珍しく蟻たちの蜿蜒(えんえん)と続く群れを見た。
 蟻たちは何処から来て、何処へ向かっていくのだろう。無論、蟻の巣穴から、何処かで見つけた餌の山へ向けて、往復の列を為している。

 黙々と、淡々と、あるいは忙しく、ひたすら餌を求め歩くその様は、束の間、この世に現出した蟻たちをその先の知れない遠い世界へ、ともかくも歩くことを選ぶしかない空しさのようなものを覚えさせる。

 ここに誰かいる。
 孤立しているとはいえ、ともかく、この世のここにいる。
 その人は何かを欲している。
 それは救いなのか、愉しみなのか、悲しみなのか、悦びなのか、自分でも分からない。が、そのどれもが結局は、当座の踊り場の数々に過ぎないことを嫌というほど、知っている。

 その人は何処とも知れない暗い洞穴の中からここに至りついているように、やがてまもなく、何処とも知れない闇の彼方へ歩き去ってしまう。

 人からすると蟻は、ただの虫けらに過ぎない。健気で働き者の昆虫と思うか、それとも、ただのちっぽけな虫けらと思うかは人それぞれだとしても。

 人と虫けらとの間には、きっと無限に近い隔絶がある。
 その両者の間に会話の成り立つ余地などない。時に勝手に人間様が蟻たちに語りかけることがあっても、それは人間の独善、人間の幻想、自慰めいた自己満足の世界があるだけなのだ。

 けれど、さて、その人間と蟻たちとの隔絶も、神や仏から見たら、無きにも等しいのだろう。

 神や仏が何ものか、誰にも分からない。
 ただ、神仏は遥か高みに、あるいは遥か地の底深くにあり、その目から見たら、蟻と人との区別など空しいものに過ぎないに違いない。

 人間が仮に蟻を見て、この虫けらどもめと、尊大ぶってみても、そうした人間を神や仏が見たら、目くそ鼻くそを笑うの喩えより、もっと滑稽に映っているに違いない。

 きっと、神や仏は、この世の外にいるに違いない。それとも、さりげなく、この世の中にいるのだろうか。

 一方、人間は逆立ちしてもこの世にあるしかない。その人間の叫び、祈りは、それがどれほど真率なもの、心の底から発せられたものだとしても、それはこの世の声でしかない。
 沈黙の声は空漠たる闇の中で、木霊さえしない。

 私にしても何ものかに触れえるかもしれない。木々の幹に、家の壁に、柱に、誰彼の衣服の裾に、あるいは肌に。
 そう、風にさえ吹かれてみることができる。やむことのない風という名の、目に見えない神仏の息に。

 私は水の滴る音が好きだ。その光景も好きだ。一滴の水に、私は大袈裟ではなく、無限を感じることがある。
 そう、私は清冽なる水という秘蹟に触れることさえ、できる。

09070814

← 雨の中のアガパンサス (画像は、「梅雨空もアガパンサスの花の色」より)

 そうした現象の一切は、この世のものである。だけれど、同時に至上の深みを含み持っている。
 そうした現象の数々を、その相貌の数々を味わい楽しむことができるだけでも、それは、きっと凄いことなのではなかろうか。

 だから、祈りの果てにあるものは、ひたすらに祈り…。

                            (01/09/14 原作

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