蝋燭の焔に浮かぶもの
蝋燭の焔は真っ暗闇の中で何を浮かび上がらせるのだろうか。
そもそも闇の中でポツンと立つ蝋燭が何かを照らし出したとして、それが何か意味を持つのだろうか。誰もいない森の中で朽ち果てた木の倒れる音というイメージと同じく、誰も見ていない闇夜の地蔵堂に立てられた蝋燭の焔の影も、ある種、夢幻な世界を映し出していると、ほとんど意味もないレトリックを弄して糊塗し去るしかないのか。
真夜中の病室。隣り合う人たちも、ようやく眠りに就いている。
看護の人も先ほど見て回って行ったばかりである。そんな中にあって、夜の深みに直面して、何を思うだろうか。過ぎ越した遠い昔のこと、それともあるかないか分からない行末のこと、もしかしたら信じている振りを装ってきた来世のこと。消え行く魂の象徴としての、吹きもしない風に揺れる小さな焔なのかもしれない。
焔とは魂の象徴。だとして、それは一体、誰の魂なのか。
自分の魂! と叫んでみたいような気がする。
不安に慄き、眩暈のするような孤独に打ちのめされ、誰一人をも抱きえず、誰にも抱かれない幼児(おさなご)の自分の魂なのだ! と誰彼なく叫びまわりたい気がする。許されるなら、体の自由が利くのなら、今すぐにもベッドから飛び出して、非常灯からの緑色や橙色の薄明かりに沈む長い長い廊下を駆けて行きたいと思ったりもする。
できはしないのに。そんなことができるくらいだったら、とっくの昔にやっていることなのだ。胸の内の情熱の焔(ほむら)は誰にも負けないほどに燃え盛っている。なのに、誰に気遣い彼に気兼ねし、気がついたら焔は燻ったままに、肉体の闇からあの世の闇へと流されていく。水子のように。
一体、何のための人生かと思い惑う。ヘーゲルが言うように、「ミネルヴァの梟は、黄昏がやってきてはじめて飛び立つ」なのか。賢人でさえ、かのように言うのだ。凡愚の徒なら、末期の闇を見詰めるこの期に及んでやっと哲学する重さを感じるのも無理はないのだろう。
何があるのか。何がないのか。何かがあるとかないとかなどという問い掛けそのものが病的なのか。
闇の中、懸命に蝋燭の焔を思い浮かべる。そう、魂に命を帯びさせるように。それとも、誰のものでもない、命のそこはかとない揺らめきを、せめて自分だけは見詰めてやりたい、看取ってやりたいという切なる願いだけが確かな思いなのだろうか。
きっと、魂を見詰め、見守る意志にこそ己の存在の自覚がありえるのかもしれない。風に揺れ、吹きかける息に身を捩り、心の闇の世界の数えるほどの光の微粒子を掻き集める。けれど、手にしたはずの光の粒は、握る手の平から零れ落ち、銀河宇宙の五線譜の水晶のオタマジャクシになって、輝いてくれる。星の煌きは溢れる涙の海に浮かぶ熱い切望の念。
蝋燭の焔もいつしか燃え尽きる。漆黒の闇に還る。僅かなばかりの名残の微熱も、闇の宇宙に拡散していく。それでも、きっと尽き果てた命の焔の余波は、望むと望まざるとに関わらず、姿を変えてでも生き続けるのだろう。一度、この世に生まれたものは決して消え去ることがない。あったものは、燃え尽きても、掻き消されても、踏み躙られても、押し潰されても、粉微塵に引き千切られても、輪廻し続ける。
輪廻とは、光の粒子自身には時間がないように、この世自身にも実は時間のないことの何よりの証明なのではなかろうか。だからこそ、来世では誰も彼もが再会すると信じられてきたのだろう。
「蝋燭の焔に浮かぶもの(後篇)」より
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コメント
焔。
命に例えるのは妥当な線かと思います。
また、希望の象徴という気もします。
まだ電気もガスもなかった時代、暗闇を照らし出す魔法のようなものだったでしょうから。
太古の記憶がDNAに刻み込まれているのかもしれません。
なぜ、バースデーケーキには蝋燭をともすのでしょう。
やはり、命というイメージですね。
投稿: 砂希 | 2011/02/14 07:35
砂希さん コメント ありがとうございます。
このエッセイ、蝋燭の焔をめぐっての随想なので、火のついている蝋燭の画像、できれば絵画(高島野十郎は高望みとしても)作品を挿画に使いたかった。
後日、望みが叶ったらなって思っています。
蝋燭は、今は誕生日とか仏事などに使うだけですが、昔は蛍雪の光以上の賜物だったのでしょうね。
夜は早く寝るのが当たり前のこと。
それでも、武士や町人は燭の光を頼りにしていただろうし、農民だって、囲炉裏の火の明るみを囲んでいたことでしょう。
万が一、夜道を歩くなら、月光が望めないなら、行灯や松明を欠かすことはできなかったことでしょう。
もっと遡ると、人間は、火を支配…使いこなすことで、他の動物から際立つ存在になった(調理や脅し、暖房)といっても過言ではないでしょう。
火、明るみは人間には希望の象徴。
なければ、洞穴など、暗闇や狭い場所で小さくなっているばかりだったでしょう。
バースデーケーキには蝋燭という習慣がいつからのものなのか分かりませんが(日本古来のものじゃなく、欧米からの輸入文化という気がしますが)、とても素敵な習慣ですね。
ただ、不思議なのは、年の数だけ蝋燭を立てるのはいいとして、誕生日の歌をみんなで歌ったあと、火を吹き消すこと。
消さないと食べれないから…なのでしょうか。
消さないで…命の数なんだし…、なんて思うのは小生だけなのかな?
といっても、ケーキに蝋燭という誕生日、小生は経験がないですが。
投稿: やいっち | 2011/02/14 21:15