叡智の芽吹き
それは、たとえば、雷の直撃を受けて大木が真っ二つに割れてしまうほどの衝撃で、その誰か知らない人の胸にある日不意に叡智の種が撒かれたのではないか。
<感情>の芽吹きは、最初、誰とも共有することなどありえない不可思議な情念の疼きだったのだろう。
その感情を知った日から、その人は魂の彷徨を強いられたに違いない。何処から来て何処へ譲り渡せば誰も知らない、その焼け滾る叡智は彼の魂を、肉体を、そして心をも焼き尽くしたのに違いない。
誰に胸のうちを語りようもなく、我々の最初の心の先祖は、倒れ伏したのだろう。
一体、いつ、その得体の知れない生の情を分かち合う日がやってきたのだろうか。一体、いつ、その情が、熱いか醒めているか、深いか浅いかは別にして仲間の多くと分かち合える日が、この世において見られたことだろう。
その情がやがて、仲間の死に際し、花輪を捧げたり、石を組んだり、何か儀式めいた形に実現したのには(仲間たちの目に見える形に顕在化したのには)、最初の叡智の人からでさえも、何十万年という月日を要したろうことは、想像に難くない(余談ついでだが、そうした儀礼というのは、葬送をせずにはいられないという感情と同時に、誰か知恵のある人の、仲間への教育手段だったのではなかったろうか)。
心は、本能の疼き(食欲・性欲・睡眠欲・攻撃欲)から魂の疼き(共感・同情)まで巾が広がり深まるのに、何万年も要したのに違いない。原始的な宗教感情から(孤立した、言葉に表現しようのない閃きに近い感情から)、もっと深く共感を持たれる高度な心情に至るのに、長い歳月を要したと考えるよりないのではないか。
心は生まれるものなのだろう、天から降ってくるようにある日、生まれるものなのだろう。
しかし、決して最初から成熟して生まれてくるものではなく、この世の艱難と辛苦との果てに揉まれ練られ重荷を背負わされ、少しずつ成熟していくものなのだ。
何処かに抽象的にポンと浮いている、一生形も深みも熱さも変幻しない、不可触の何かではなく、この世であってこそ生まれ育ち苦しみ、時には疲弊するもの、すぐ隣りの誰彼の胸のうちに存在し形成され、切磋琢磨の中、今も鍛えられている最中のものなのである。
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