バタイユという名の祝祭
エロティシズムへの欲望は、死をも渇望するほどに、それとも絶望をこそ焦がれるほどに人間の度量を圧倒する凄まじさを持つ。快楽を追っているはずなのに、また、快楽の園は目の前にある、それどころか己は既に悦楽の園にドップリと浸っているはずなのに、禁断の木の実ははるかに遠いことを思い知らされる。
← J・M・G・ル・クレジオLe Clezio,Jean Marie Gustave 著『物質的恍惚』(豊崎 光一 (翻訳) 岩波文庫)
快楽を切望し、性に、水に餓えている。すると、目の前の太平洋より巨大な悦楽の園という海の水が打ち寄せている。手を伸ばせば届く、足を一歩、踏み出せば波打ち際くらいには辿り着ける。
が、いざ、その寄せ来る波の傍に来ると、波は砂に吸い込まれていく。
波は引いていく。あるいは、たまさかの僥倖に恵まれて、ほんの僅かの波飛沫を浴び、そうして、しめた! とばかりに思いっきり、舌なめずりなどしようものなら、それが実は海水であり、永劫の喉の渇きという業罰が待っているのである。
どこまでも後退する悦楽の波。どこまでも押し寄せる地獄。地獄と極楽とは背中合わせであり、しかも、ちっぽけな自分が感得しえるのは、気のせいに過ぎないかと思われる悦楽の飛沫だけ。しかも、舐めたなら、渇きが促進されてしまい、悶え苦しむだけ。
何かの陥穽なのか。何物かがこの自分を気まぐれな悪戯で嘲笑っているのか。そうなのかもしれないし、そうでないのかもしれない。しかし、一旦、悦楽の園の門を潜り抜けたなら、後戻りは利かない。どこまでも、ひたすらに極楽という名の地獄の、際限のない堂々巡りを死に至る絶望として味わいつづける。
明けることのない夜。目覚めることのない夢。睡魔は己を見捨て、隣りの部屋の赤い寝巻きの女の吐息ばかりが、襖越しに聞え、女の影が障子に悩ましく蠢く。かすかに見える白い足。二本の足でいいはずなのに、すね毛のある足が間を割っている。オレではないのか! オレではダメなのか。そう思って部屋に飛び込むと、女が白い肌を晒してオレを手招きする。そうして…。
夜は永遠に明けない。人生は蕩尽しなければならない。我が身は消尽しなければならない。そうでなければ、永劫、明けない夜に耐えられない。身体を消費しなければならない。燃やし尽くし、脳味噌を焼き焦がし、同時に世界が崩壊しなければならない。
我が身を徹底して破壊し、消尽し、蕩尽し、消費し尽くして初めて、己は快楽と合体しえる。我が身がモノと化することによって、己は悦楽の園そのものになる。言葉を抹殺し、原初の時が始まり、脳髄の彼方に血よりも赤い光源が煌き始める。宇宙の創始の時。あるいは終焉という名の祝祭。
高校時代の終わりだったか、J・M・G・ル・クレジオの『物質的恍惚』を読んだことがあった。小生には何が書いてあるか、さっぱり分からなかった。
もしかしたら、このタイトルに魅了されていただけなのかもしれない。どんな詩よりも小生を詩的に啓発し瞑想を誘発してくれた。
その本の中に、「すべてはリズムである。美を理解すること、それは自分固有のリズムを自然のリズムと一致させるのに成功することである」という一節がある。小生は、断固、誤読したものだ。美とは死であり、自分固有のリズムを自然のリズムに一致させるには、そも、死しかありえないではないか、と。
← ジョルジュ・バタイユ Georges Bataille(著) 『宗教の理論』(湯浅 博雄訳 ちくま学芸文庫)
不毛と無意味との塊。それが我が人生なのだとしたら、消尽と蕩尽以外にこの世に何があるだろうか。
そんなささやかな空想に一時期でも耽らせてくれたバタイユに感謝なのである。
バタイユの<理論>を理論的に理解するのは、間違っているのではないか。
そう思うのも、バタイユの思考が直感的感性という、焼け切れんばかりに殺気だった閉じた回路を際限もなく経巡っているように思えるからである。
本書『宗教の理論』に描き綴られているのは、論理というより、蕩尽へ向けての誘惑の叫びのように感じられる。だからといって、小生が、『宗教の理論』の世界を味読し切れなかったと言えば、やはり言い訳になるのだろうが。
[「バタイユ著『宗教の理論』」(2005/12/10)より抜粋。upに際し、一部改筆(2010/12/28)]
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