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2010/12/14

月影や雲の波間に溺れしか

 何故、「月」というと秋とされてきたのか。恐らくは(以下は、小生の単純な憶測に過ぎないが)、まず、夏とは違う日の短さ、つまりは夜の長さが挙げられるだろう。

Sdsc01092

 秋であっても、日中は明るい。が、釣瓶落としではないが、秋の日は一気に暮れていく。すると、雲の少ない空だと、暮れなずむ空に星影や月影が冴え渡ってくる。丁度、昨日の小生の感じた、不意打ちの感を覚えたりするわけである。

 この月影の冴え、というのには、更に他の条件も背景にある。

 そう、なんと言っても、空気の違いである。夏場は、暑苦しいし、蒸し暑い。それは、湿気のせいが大きい。この湿気が、空を幾分か以上に曖昧なものにしてしまう。それは、湿気で視界が若干だろうが、遮られるということと、下界の生命界、植物や昆虫などの動物の蠢きが身近にある。鳥の囀りなど、生き物の生命力を愛でる機会が多いということ以上に、蚊や虫などにうんざりさせられたりする。
 空の若干の不透明さと下界の賑やかさなどが相俟って、空を眺める気分を鬱陶しいものにさせているのかもしれない。

 それが、秋となり、その秋も深まっていくと、虫の鳴き声も聞かれなくなり、かのクマ騒動も新聞紙を賑わすこともなくなって(つまり、動物たちの活動や植物達のムンムンする草の匂いも和らぎ)、夜などは、今とは比較にならない暗さに町中でも恵まれていた(畏怖の念を抱かされていた)だろうし、空に明るい月や星は、時に凄みを持って天において地にある我々を睥睨しているように感じられたりしたのだろう。

 星月夜にあって、人は、天界と対峙するというより、月の船に乗り、星の煌く海、雲の峰々を漕ぎ渡っていったりしたのではなかろうか。そう、背中を吹き抜ける風は、とっくのうちに爽やかさではなく、寒気を覚えさせるものになっている。人肌も恋しくなる。

 それにしても、掲げた写真は、朝、六時である。ちょっと暗すぎるような。写真のほぼ中央に写る丸く淡い光は、勿論、太陽ではない。といって、月影でもない。有明の月だったりしたら、嬉しかったが、住宅街に、それとも、吹き払われることのなかった雲に遮られて、月の姿を見出すことができなかった。

 そう、電信柱にぶら下がる街灯である。その街灯が、やたらと眩しく光っている。空は雲も切れていて、もう少し晴れ渡った感じを写真に撮れるかと期待していただけに、ちょっと意外なほどの暗さが際立つ。
 時代の雰囲気なのだろうか。夜明けという言葉でネット検索したのだけど、本当の夜明けには、まだ相当に時間が掛かるという暗示なのか。
 それでも、夜は明ける。人は動き出す。とにかく、今日の一日を生きるのである。

[本文・画像ともに、「冬 曙 (ふゆあけぼの)」(2004/11/17)より]

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