沈黙の音に聞き入る
音楽を音を楽しむと敷衍して考えていいのなら(あるいはそれならもう音楽ではないよというのなら、別に音楽に拘るつもりもないのだが)、音の不可思議を思わずにはいられない。小生などメカ音痴なので、携帯電話どころかラジオでさえ驚異の存在である。理屈は一応は分かっても不思議なのは不思議なのである。
ラジオを通じて周波数さえ合えば一定の音(番組)が聴こえる。
だとしたら、人の耳に自然や宇宙や、海の底や地の底、遠い遥かな森の中の木の枝を伝い落ちる雫の気配、冬眠する熊の寝息、際限もなく存在しているのだろう微生物の生命活動する蠢きとざわめきの反響を聴くような、そういった未知の周波数に合うような聴覚があってもいいような気がする。
聴覚がそういった始原の域まで遡られるのなら、もう聴覚とも視覚とも嗅覚とも明確には分かつことのできない原始の感覚領域が脳みそにあると想うしかないのだろう。
沈黙という時に耳に痛いほどの無音の叫び。
音楽が好き。それは小生には音が好き、音を楽しむということを意味する。もっと言うと、音というのは、在るという不可思議からの賜物であるに違いない。停止する光子の塊としての物質、沈黙せる音の凝縮としての物質というのは、実は等価なものなのではないかと想ったりする。
喋ることが困難であり聴くことも叶わず、動くことも許されないとして、そうして寝たきりになって一切の外界の刺激にも反応しなくなっても、むしろそうした状態の時にこそ、一層、宇宙や自然や生命の豊穣さをつくづくと感じているのではないか。
モノを言えない人の想像力は、きっと、感じる想いが際限もなく膨らんで、宇宙大に伸び広がっているに違いないのだ。だからこそ、人は時に無口になるしかないのだ。
今日も音を楽しむ。音を楽しむのに機械など要らない。機械にはそもそも馴染まない音の宇宙がそこにある。
言葉とは、沈黙の音をまっさらな時空上で奏でるために人に与えられた武器なのではなかろうか。
[「聴初には何がいいだろう」(2006/01/05)より]
参考:
「音という奇跡」
「沈黙の宇宙で音の欠片を掻き削る」
「弦の音共鳴するは宇宙かも」
「世界は音に満ちている…沈黙という恐怖」
「沈黙の宇宙に響く音」
「沈黙の宇宙に鳴る音楽」
「雨の音 沈黙の音 夜明けの音」
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