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2010/10/18

私が<それ>になる夜

 いつもの夜が始まる。
 私の夜。
 真っ赤な海に溺れる夜。
 全身が鉛に成り代わる夜。
 赤い闇と黒い闇とが綯い交ぜとなる夜。
 神が鉛の体に全身麻酔を施す夜。
 
 私は意識が薄れていった。眠りはまるで崖を転がるような責め苦だった。
 私は石となり、石はやがて<それ>と区別が付かくなっていった。
 それは、一個の生まれ損なった幼虫。否、空中を飛散する塵か花粉か埃の一粒。この世に偏在する浮遊塵なのだ。
 何かが融けている。訳の分からない何かが、それこそ白蟻に柱が内側から貪られるように、その肉体が蝕まれ崩れ去っていく。

 かろうじて、一人の変凡な人間であることを保ってはいる。
 が、それは、ただの見せかけ。蓑の中の虫に成りきれなかった粘液。あるいは伽藍堂の骨組み。
 だからこそ、懸命に表面の殻を固めようとする。その不毛な力みが尚更、それをメルトダウンさせていく。空洞になった骨と皺だらけの皮膚。パサパサの髪。濁って澱んだ目。

 目は一体、何を見ているのだろうか。そもそも何かを見ているのだろうか。 見るがいい、あの怯えきった目。立ち竦んで身動きも侭ならない。
 それは一個の石ころ。誰にもそこにいることを気づかれることはない。それと指差しされなければ、そもそもないのと同然なのである。

<それ>が彼に戻る刹那がなくはなかった。
 溺れかけ息が絶えんとした瞬間、波間に顔を覗かせ、必死な形相で喘ぐ…その不毛な試みが彼なのだ。

 遠い日に彼は神なるものについて想を巡らしたことがある。神があるかどうかではなく、とにかく存在を仮定してみた。
 神がいて、果たして神は彼の存在に気づいてくれるだろうか。
 気づいてくれるかもしれない。けれど、気づいてはくれないで、見過ごしてしまっているのかもしれない。
 そもそも神が彼の存在に気がついたとして、それが何だというのか。神が存在するなら、きっとこの地上の全てに対して平等であるはずである。どこそこの誰彼を贔屓にする神など人間的に過ぎる。
 だとすれば、神はこの<それ>であるところの彼と、どこそこの彼や彼女とどう区別するのだろうか。否、区別くらいは神なのだから、可能なのだとして、しかし、どこそこの彼や彼女とこの私であるところの彼とを分け隔てするなんてことがありえるのだろうか。
 それどころか、神の視点に立つならば、地上の生き物の中の特異な存在らしい(少なくとも彼ら自身はそう思っていたいらしい)、人間と他の動物を区別したり、差別したりするだろうか。
 彼は、半ば自棄になり、もっと極端にまで走った。

 動物だけが神の関心の対象であるはずがない。この地上の全ての存在が神には平等に眼差しの注ぐべき、愛すべき存在者たちではないか。だとすると、動物どころか、植物だって神の目からは慈愛の対象でなくていいわけがない。植物は生きていないのか。生きている。健気に、あるいはしたたかに生きている。
 神は地上のありとあらゆる命の泉に熱い眼差しを降り注いでいる、きっとそうに違いない。
 自暴自棄となっている彼は無闇に羽ばたく想像の翼を休めることは出来ないでいた。

 人が死ねば土に還る。土と風と少々の埃に成り果てる。植物だってそうだ。腐って土に還ることもあろうし、動物に喰われて消化され動物の血肉になったり、あるいは排泄され土に戻る。一旦は血肉になった植物の構成要素も、当座の役割を果たしたなら、遅かれ早かれ廃棄されるか、あるいは動物の連鎖の何処かの網に引っ掛かるだけのこと。
 食物連鎖の最終の網である人間に、途中の段階で他の成分に成り代わらない限り、植物も動物も至りつく。
 そうだとしても、同じことだ。やっぱり火にくべられて、煙と夢と風に化す。そうでなければ、灰となって土中の微生物の恰好の餌になるだけのことだ。

 ということは、神の慈愛に満ちた眼差しはとりあえず今、生きている存在者たちに注がれるだけでなく、土や埃や壁や海の水や青い空に浮かぶ雲や、浜辺の砂やコンクリートやアスファルトやプラスチックやタール等々に、均しく注がれているはずなのである。
 神の目から見たら今、たまたま生きている生物だけが特別な存在である理由など、全くないのだ。あるとしたら人間の勝手な思い込みで、自分たちが特権を享受している、神の特別な関心が魂の底まで達しているに違いないのだと決め付けているに過ぎないのだ。

 石ころである彼は、空中を浮遊する塵や埃と同一の価値をもつ。価値とは神からの恵みだ。その恵みは地上だろうが、あるいは宇宙空間だろうが、全く等距離の彼方にある。それとも、全く、等距離のすぐそこにある。
 宇宙の永遠の沈黙。
 それはつまりは、神の慈愛に満ちた無関心の裏返しなのである。
 神の目からは、これもそれも彼も、この身体を構成する数十兆の細胞群も、あるいはバッサリと断ち切られた髪も爪も、吹き飛ばされたフケや搾り出された脂も、排泄され流された汚泥の中の死にきれない大腸菌たちも、卵子に辿り着けなかった精子も、精子を待ちきれずに無為に流された卵子も、すべてが熱い、あるいは冷たい眼差しの先に雑然とあるに違いない。

<それ>である彼は、塵や埃と同然の存在。
 それは卑下すべきことなのか。
 そうではないのだろう。
 むしろ、この地上の一切、それどころか宇宙にあるところの全て、あるいは想像の雲の上を漂う想念の丸ごとが、神の恵みなのであり、無であると同時に全であることを意味しているのだ。
 石の心を持つ彼は風に吹き消された蝋燭の焔。生きる重圧に押し潰された心の躯。この世に芽吹くことの叶わなかった命。ひずんでしまった心。蹂躙されて土に顔を埋めて血の涙を流す命の欠片。
 そうした一切さえもが神の無情なる眼差しの向こうで、路傍に投げ捨てられた板切れの下で、ただ犇き蠢いている。
 蛆や虱の犇く肥溜めの中に漂う悲しみと醜さ。その悲しみも醜ささえも、分け隔ての無い神には美しいのだろう。

<それ>は融け去っていく。内側から崩壊していく。崩れ去って原形を忘れ、粉塵となり、闇に吸い込まれ、この宇宙の肺に浸潤していく。
<それ>は偏在するのだ。遠い時の彼方の孔子やキリストの吸い、吐いた息の分子を、今、生きて空気を吸うごとに必ずその幾許かを吸い込むように、<それ>はどこにも存在するようになる。孤独は、宇宙に浮遊するガラス粉どもに満遍なく分かち与えられる。宇宙の素粒子の一つ一つに悲しみの傷が刻まれる。
<それ>は死ぬことは叶わない。仮に死んでも、それは宇宙に偏在するための相転移というささやかなエピソードに過ぎない。

 そんなことに思い至った時、彼の全身を覆い尽くして、皮膚を死滅させようとした頑固な殻が、カサブタの剥がれ落ちるように罅割れ、バラバラと落ちた。喉に詰まっていた血反吐も吐き出された。
 つるんとした私が生まれ出でた。
 私は新鮮な空気が肺胞に吸入されるのを感じた。
 そして私は居眠りから目覚めた。

                           (03/02/09 原作

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