雨音はショパンの
あの人の面影が今もボクを苦しめる。会えなかった、会わなかったあの人のはずなのに、なぜ、いつまでもボクを苛むのだろう。
いや、会ったといえば、会っていたのだ。ただ…。
あの人のことを知ったのは、いつだったろうか。いや、その前に知ったと言えるのだろうか。ボクはあの人の気配を感じていただけじゃなかったのか。 それとも気配さえも感じていなかったのか。
初めて彼女の存在に、それともあの人の不在の重みに気付いたのは夏の終わりの、とある午後だった。ボクは夏の初めから、友人に誘われてピアノ教室に通っていた。
それは友人のアパートの近くにあった。
高校時代からの友人である彼はクラシックのファンで、彼の家を訪れるたびに彼はクラシックのレコードをいろいろと聞かせてくれた。音楽というとテレビで聴くことのできる歌謡曲、それとも音楽の授業くらいしか縁のなかったボクには、チンプンカンプンの世界だったけれど、さんざん聞かされるうちに、さすがにクラシック音楽に聴き入る楽しみを覚えるようになった。
ボクにクラシック音楽の薫陶を与えるような彼なので、そうか奴も聴いているだけでは我慢がならず、ピアノを自分で弾いてみたいと思ったのだろうと推測していた。一緒の大学に通っているだけに暇を持て余している、クラシック好きの彼なら、考えそうなことだと思った。
が、一緒に自宅の一室を教室にしている家を訪れると、鈍感なボクにもそれだけの事情ではないのだと気づいたのだった。
出迎えてくれたのは、その家の優しげで物静かな主夫妻だけではなく、ピアノの教師でもある若い女性だった。後で知ったのだが、短大の学生で、ピアノ学科に籍を置いているのだった。学費を稼ぐためにピアノを教えているのか、それともピアノの代金を自分で稼ぐように努めているのか、そこまでは分からなかった。
ボクは、彼女を見て、その可憐さに軽い衝撃を受けた。
(なんて可愛い人なんだ。そうか、奴は彼女にホの字なんだな、でも、一人では来れなくて、ボクを誘ったのか)
そう、悟った。
でも、別に気を悪くしたわけではなかった。ボクにしても彼女にピアノを教わることができるのだ。彼の意中の人だって構わないじゃないか。
バイエルの教科書を片手に男二人が、毎週末、せっせと通った。ピアノ教室に夏休みなどなかった。彼も熱心だったが、ボクも次第に熱中していった。
ピアノを弾くことが好きになったのか、それとも、素敵な彼女に会いたいのか分からなかった。別に音楽会に出ようとか、生涯の趣味にしようとか、そんな目標など何もなかったのだが、始めた以上は、せめてバイエルの教科書の最後の頁までは遣り通したかった。
最後の頁にはショパンの「ノクターン」が課題曲として載っていた。
(「ノクターン」を弾くんだ。とにかくそこまでは遣り遂げるんだ!)
彼との競争になっていた。奴もボクには負けないように頑張っていたけれど、ボクだって彼女の前でいい格好を見せたかった。奴が何かの用事で来れない時も、ボクは休まずに通った。いつも清楚なワンピース姿でにこやかに迎えてくれる彼女に会うのが楽しみでならなかった。音楽で通知表に3さえももらったことのないボクが楽譜を懸命に勉強した。読譜は夏休みが終わらないうちに自在になっていた。
鍵盤の上では、ボクの両手の指と彼女の指が交差していた。そう、奴が来ない時は、二人で合奏だって愉しんだのだ。ボクがミスすると、彼女はボクの指を優しく抓んで正しい弾き場所に導いてくれた。
ボクの指の腹が小さいのか、鍵盤をしっかり叩こうとすると、爪の先が鍵盤に当ってしまう。ピアノ教室に、いや、彼女のところに来る前には、念入りに爪を切ってくる。ほとんど深爪ギリギリまでに切っている。なのに、指の腹だけじゃなく、爪の先が当って、キチンとしたタッチを得ることが出来ない。
そんなボクの指を彼女はいつになく長く持って、じっと眺めていることもあった。ボクは嬉しかった。彼女の表情を盗み見たが、変によそよそしい雰囲気があって、彼女が何を思っているのか、さっぱり分からなかった。ただ、そんな一時が貴重なのだ。夢のような日々だった。
ああ、奴は、もう、来なくっていい、来ないほうがいい、来るなよ、なんて思ったりもする。
それが、まさか実現するとは思いも寄らなかった。奴は本当に来なくなったのだ。彼は何度か休むうちにボクの進度に追いつけなくなったのだ。だから、学校の成績だってトップクラスで、平均点をやっと超えるだけのボクに負けるわけにはいかなかったのだ。プライドが許さないのだ。
ボクは奴が来なくなった理由をそう思っていた。ボクは初めて奴に勝ったと思った。授業がやたらと忙しくてさ、毎日、研究室に残って実験さ。データを採る必要があるから、一人、抜け出すこともできないし…。そんなことを奴が愚痴っぽく語っていたように記憶する。
そう、奴は工学部の化学科に在籍している。ボクはというと、文学部で毎日、キャンパスや街中を散歩しているようなものだった。最初の頃の、暇そうな彼の様子が嘘のような生活になっていたのだ。
しかし、それはボクは、奴の体(てい)のいい言い訳だと思っていた。彼女の前でボクに劣る姿を見られたくないのだと思っていた。これまでどんな学科でも負けたことのないボクに負けるなんて認めたくないのだと思った。よりによってボクに負けるなんて奴は自分を許せないのだと思っていた。
夏休みが終わる頃には、ボクは彼女と二人のレッスンがデートそのもののようになっていた。
そんな或る日の夜、奴のアパートでフルトベングラー指揮のベートーベンを聴いていたら、不意にドアを叩く音が聞こえた。奴は慌てて席を立ち、ドアを開けて外へ出て行った。だから、来客が誰なのか、分からなかった。
けれど、全く分からなかったわけではなかった。一瞬だけれど、ドアを奴が開けた瞬間、女の姿が見えたのだ。姿といっても、実際にはワンピースの裾の辺りが翻るのを見ただけだった。まして顔などまるで見えなかった。
だけど、そう、ボクはその時、確信した。瞬時にして悟った。あのドレスのデザインは彼女のものだ。このボクが見間違えるはずがない!
そうか! 奴がピアノ教室に来なくなったのは、ピアノへの情熱が失せたわけでもなければ、上達の早さでボクに負けたからでもないし、化学の実験の授業が忙しかったわけでもない。
多少はそれらの理由もあるとしても、実は、なんのことはない、二人はとっくに出来ていたのだ。カネを払ってまでピアノ教室で、それもボクなどと一緒に彼女に習う必要など、まるでなくなっていたのだ!
そういえば、最近、奴はボクとの付き合いが稀になっていた。折を見て、奴のところに遊びに行くと、門前払いを喰らうことがしばしばだった。授業で疲れて眠りたいからとか、明日の準備があるからと、ボクを一歩も中に入れないのだった。
そうだったのか!
ボクは、愕然としてしまった。ボクはなんて鈍感なんだろう。まるでピエロじゃないか。奴に勝ったなんて、勝手に有頂天になっていた。そんなボクを尻目に、奴等は夜毎に密会か!
やってくれるじゃないか。
ボクは、とてもじゃないけれど、ピアノ教室に通う気にはなれなかった。おめおめと彼女に顔を見せられるはずもない。奴の女になってしまった彼女の前で、今更、熱心にピアノのお勉強など出来る筈もなかった。
ボクは、それでも意地になっていた。男としてのプライドが傷付けられたような気がしていた。そうだ、バイエルの教科書の最後まで遣り通すのだ。どんなに苦しくても、そこまでは勉強する。
但し、彼女に習うのだけは御免被る。ボクは、彼女の教室を即座に止めて、駅前のY音楽教室に通った。そこには幾つかのブースがあって、一人で練習もできるし、おカネを払えば先生も呼べる。
秋口に入って、10月の声を聞く頃だったろうか。曲がりなりにもボクはバイエルの最後の頁に辿り着いた。そう、ショパンのノクターンを他人の鑑賞に堪えるかどうかは別として、とにかく間違いなく弾き通すことはできるようになったのだ。
その頃には、バイエルの末尾に載るノクターンは幾分、編曲されていて、ピアノの初心者でも弾けるように工夫されていることに気付いていたが、そんなことに頓着する意味を感じていなかった。
やった!
これでいい。男としての意地だけは通した。元々、別にピアノを習う必要も意欲もなかったのだ。そもそもは奴のために付き合ったのだし、もう、これでピアノとは縁を切ろう、そう、思った。
話はこれでは終わらなかった。
翌年の春先だったか、久しぶりに奴のアパートへ向った。キャンパスで奴に出会って、やっと授業も目処が立ったし、久しぶりだから、一緒にレコードでも聴かないかと誘われたのだ。
その日は雨だった。いつものように駅前のジャズ喫茶に立ち寄って時間を潰すことなく、約束の時間より早かったのだけど、奴のアパートへ向った。
すると、見かけたのだ、彼女を! 彼女が奴のアパートから出てくる姿を!
雨のせいだったのだろうか、彼女は俯き加減だった。しばらくトボトボと歩いていたが、やがて降り頻る雨の中を走り去った。咲き誇る桜の花びらも雨にうなだれていた。
by なずな
(なんだ、相変わらず続いてたのか…。早く来すぎて、拙いところを見たかな …。喧嘩? もしかしたら二人は、たった今、別れたとか…。)
ボクはよほど、踵を返そうかと迷った。でも、後戻りするのも悔しい気がした。半分、自棄になったような気分で奴の部屋に向った。
奴はボクを静かに迎えた。愁嘆場を繰り広げた風には見えなかった。何処か悲しげにも見えた。しばらくはインスタントのコーヒーを飲みながら、新しく入手したという何枚かのレコードに聴き入っていた。
会話は弾まなかった。何を喋っても気まずくなるような気がしたし、第一、饒舌な奴が沈黙気味なのだ。書棚には奴が尊敬するという武満徹の『音、沈黙と測りあえるほどに』という表題の本があった。
そのうちに、奴がポロッと一言、発した。それはボクには衝撃的な言葉だった。
「どうして、お前、彼女、振ったんだ?」
ボクは、何の話か、さっぱり分からなかった。
(えっ? 振った、ボクが、でも、一体、誰を?)
ボクは何が何だか分からず、奴の説明を待つばかりだった。
が、奴は、また、ダンマリを決め込むのだった。
ボクは、懸命に考えた。ボクが誰を振ったというんだ。そもそも、ボクは誰かと付き合ってたっけ。女性とは、誰とも付き合いのないことは、当人であるボクが分からないはずがない。それに、頻繁な付き合いが、ここしばらくはなかったとしても、キャンパスなどでの交流は続いていたので、ボクが入学以来、彼女などいないことは奴だって知っているはずだった。
ボクは、懸命に脳裏を探った。ボクの周囲にボクに執心しているような女性がいたか、想像される女性は全て思い浮かべてみた。けれど、悲しいことに、どう自分に贔屓目に見ても、誰一人、思い当たる女性はいないのだった。
すると、奴はまた、ボソッと一言、発した。
「彼女、泣いてただろ」
「彼女??」
奴はその日、初めてボクの目を見た。
「気付いてなかったとは言わせないぞ。ついさっき、下で彼女を見ただろう!」
彼の目は、一瞬、憤怒で燃え立ったようだけど、すぐに哀れみでもなければ、蔑みでもない、悲しいような諦めきったような表情に変わってしまった。
「せっかく、チャンスをやったのに…。」
ボクは、やっと、真相を悟った。
そうか、ピアノの練習の時、彼女がやたらとボクの手を取ったり、指を抓んだりしたのは、そうか、そうだったのか。教室を止めますと宣言した時、口元を歪めてまでの悲しげな顔をしたのは、単に生徒を失う無念さのゆえではなかったんだ。
外からは雨音が胸に痛いほどに響いてきた。その音はもうボクには到底、弾けそうにない、ショパンの雨垂れに聞こえた。
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