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2010/10/15

沈丁花

 あれはいつのことだったろう。オレがまだ大学生になりたての頃だったと思う。
 いや、嘘だ。オレははっきりと、いつのことだったかを覚えている。ただ、曖昧にしてしまいたいだけなのだ。
07031416
 オレは、高校時代に付き合っていた彼女のことが忘れられなかった。遠い田舎の町で別れたままの彼女。卒業式の翌日だったか、オレの家の近くのお寺で待ち合わせ、一緒に田舎の町を歩き回った。彼女とは、ただバカみたいに歩き回るしか能のないオレたちだった。
 というか、そうさせていたのは、オレなんだけど。
 オレも彼女も、迫る別れを意識していた。

 オレなどは、意識しすぎて、何も喋れなくなっていた。彼女は、オレを促すように、時折、切ない目でオレを見る。 が、その時に限ってオレは、目を逸らし、芽吹く草や花の香りの漂う春の空を眺めやったり、何処かのビルの看板を意味もなく仰ぐのだった。
 いつしか駅前の噴水の傍にオレたちはいた。ベンチに二人腰掛けて、やっぱり無言のまま、間歇的に噴き上げる噴水の水を呆然と見ていた。すると、突然、彼女が話し出した。
「ねえ、手紙、書いてもいいでしょ。住所、教えて。」
 オレは、不意を喰らったような気分だった。付き合っていると言っても、オレがただ彼女を引っ張りまわしているだけで、彼女の気持ちを確かめたことは一度もなかったのである。オレは彼女が好き。でも、彼女は…、オレを…思っている …とは、思えないのだった。
 オレは嬉しかった。なんだか飛び上がりたい思いだった。ベンチの上から噴水を巡るオレの下半身ほどの深さの池に飛び込んでもいいくらいだった。
 なのに、オレときたら、相変わらず無表情なままだったのだ。どうして嬉しいなら嬉しいと言えないのだろう。いえないとしても、せめて住所くらい教えてやってもいいはずじゃなかったか。
 そう、オレは彼女に何も教えなかったのだ。何故? オレにも分からない。

 オレは、同じ大学に行く友人と一緒に列車に乗り、陸奥(みちのく)へと旅立った。列車の中で友人と他愛もないお喋りをしながらも、心は虚ろだった。悔恨の念で一杯だった。
 オレはあの時、どうして彼女を拒否した? しかも、オレの住む町に遊びに行ってもいい? とまで彼女は聞いていたじゃないか!
 列車は北へ北へと走った。心も闇の奥の奥へと沈み込んでいくようだった。
 そして、そう、入学して一年近く経った、春の足音も聞こえそうな或る日の夜、オレは、下宿を抜け出した。
 悶々とする鬱屈した熱気に我慢がならなかったのだ。杜の都の街は、春も終わりの頃とはいえ、夜ともなると冷たい風が吹いたりする。その夜も、そうだった。
 どこをどう歩いたのだったろうか。無闇に歩き回ったから、自分でもどこを歩いているのか分からなかった。
 不意に何かの花の香りがオレの華を擽(くすぐ)った。
 臭いの元を辿ってみた。苦労することなく見つかった。そこには、何だかやたらと地味な花があった。生垣を覆わんばかりの枝や葉っぱ。月夜にもかかわらず、緑の濃さが際立っていた。その緑の海にともすれば埋もれそうに、あるいは健気に浮き上がるようにして、薬玉のような小花の塊たちが咲き誇っているのだった。
 オレには何の花だか分からなかった。オレなどに分かるはずもない。
 が、何処か懐かしい臭いに包まれているうちに、ふと、沈丁花という花の名が脳裏に浮かんだ。もしかしたら、これが沈丁花なのかも。
 そして、オレの胸をかき乱すように、彼女の話が鮮烈に思い出されてきた。そうだ、まだ別れには日にちがあったあの時、オレたちは沈丁花の前にいたんだった。
「わたし、沈丁花って、好き」
 そう言って、オレの元を離れて、花の香のするほうへと駆けていった。彼女の後ろ姿。
 しばらく彼女は、花を眺めて佇んでいた。オレは彼女の傍に寄り添いたくて、近付いて行った。オレの気配を感じたのだろうか、彼女は独り言のような口ぶりで続けた。
「沈丁花って、地味な花でしょう。ね、こんな傍で見ても、咲き誇っているような、でも、何処か恥らっているような、不思議な表情なのよね。」
「あのね、沈丁花って、香りが強烈なの。もう、知らない人が見たら、紫陽花のなりそこないみたいな花なのに、臭いだけは、もう、凄いの。まるで花の地味さを自覚しているから、それを匂いで補っているみたいね。わたしね、お茶、してるでしょ。沈丁花はお茶の席じゃ、禁物なのよ。そうよね、これだけ、香りが強烈だと、いくら気品があるっていっても、お茶の香ばしい香りを楽しむわけにはいかないわよね。」
「そうそう、昔ね、そんなこと知らないから、沈丁花の花の傍に近づいて、思いっきり、臭いを嗅いだことがあるの。そしたら胸が詰まったというか、鳩尾(みぞおち)の辺りが痛くなったというか、ひどい目に遭ったわよ。」
 オレは、彼女のエピソードを聞いて、彼女に一層、親しみを感じていた。花の香に目を回す彼女! こんな秘話を知っているのは、オレだけのはずだ。そして彼女はオレだけの彼女なのだ…。

 オレは、あの時の彼女に近づきたいと思った。訳の分からない別れをしてしまった彼女を取り戻したいと思った。彼女が無理なら、せめて、沈丁花に触れたい。馥郁たる花の香に埋もれたいと思った。
 近づいた瞬間、彼女の話の続きを思い出した。そうだ、沈丁花の花の話をした時、彼女はとても気落ちしていたのだった。あれは、そう、彼女のおじいちゃんのことと関係があった…。
「…そしたらね、その年は沈丁花が急に衰えだしたの。おじいちゃんの話だと、花にも寿命があるんだって。でね、おじいちゃん、あれこれ面倒を見てやったんだけど、でも、花はどんどん萎れていくばかりだった。そう、その年だった。おじいちゃんが死んじゃった。ガンだったのよね。おじいちゃんが丹精込めて世話した沈丁花も、うちの庭じゃ咲かなくなっちゃった。そう、ただね、葬式の日も、花は咲いてなかったけど、でも、沈丁花の花の香が庭に満ちてたな…。わたし、おじいちゃん子だったの。もう、悲しかった…。」
 そうだ、その時も、オレはただ、木偶の坊になって突っ立っているだけだった。彼女の肩を抱いてやるとか、そんな芸当など、思いつくはずもなかった。

 オレってどうしてこんななんだろう。オレは、沈丁花の小花の束に顔を埋めてみた。彼女が噎せたようにオレも花の強烈な芳香に息を詰まらせたいと思った。なんなら沈丁花の花であれ蕾であれ、オレの喉にも鼻にも突っ込んで、息絶えてしまえばいいと思った。
 が、オレは、ただ、そう思うだけだった。
 ただ、沈丁花の咲き誇る垣根の前を行き過ぎるだけだったのだ。

                           (03/09/30 作

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