夢、それとも記…憶の世界
今朝、長い夢を見た。
うんざりするほど長い、長い夢だった。
が、目覚めた瞬間、全ては潰え去った。
胸騒ぎだけが夢を証していた。
夢は曖昧模糊たるものなのだろうか。
違うのではないか。
思い出し掴もうとするから、指の透き間から零れ去る、でなければ雲か霞と化す、あるいは地上に落下した豆腐のようになってしまうのだろう。
夢の中では、全てが確然としている。
何かが確かにそこにある。
現実の中では叶わない、断言の世界がそこにある。
不意に世界が真っ赤になった。それとも純白に輝いた。裕太の瞳を焼き焦がした。弱々しい産道の蠢きが、ついに止まった。天が引き裂かれたのだった。あまりに不意な天の箴言の閃きだった。産道は、一気にだらしないほどに広やかになった。道端に股を開いて、行過ぎる誰にも体を開く女だった。誰でもどうぞ、と言わんばかりだった。裕太は産道との接触を失った。息苦しいほどの母胎との密着管が無理矢理に奪われた。子宮からも膣からも女の肉体からも断ち切られた。肉が引き剥がされたようだった。絆を失った。世界は空っぽになった。
羊水の宇宙から引き摺り上げられて、産声を上げる必要などなかった。産声の時は、永遠に来なかった。肺を満たしていた羊水は、水洗便所から水が排水されていくように、ただ、流れ出ていった。御蔭で息は楽に出来るようになった。肺は、ポカンと開けられた口から好き放題に息することができるのだ。
俺は浮いている。世界から浮いている。世界と触れ合うことが出来ない。息さえもポッカリと開いた口から俺に関係なく行き来するだけだ。俺は、世界のあらゆる物から等距離にある。誰も俺とは無縁だ。唯一、俺の渇きを満たすものは女の肉体だけだ。叶わなかった蠕動する産道との至福の交合は、女の肉体だけが叶える。俺には憶の時がなかったのだ!
動物だけが神の関心の対象であるはずがない。この地上の全ての存在が神には平等に眼差しの注ぐべき、愛すべき存在者たちではないか。だとすると、動物どころか、植物だって神の目からは慈愛の対象でなくていいわけがない。植物は生きていないのか。生きている。健気に、あるいはしたたかに生きている。
神は地上のありとあらゆる命の泉に熱い眼差しを降り注いでいる、そうに違いないのだ。
人が死ねば土に還る。土と風と少々の埃に成り果てる。植物だってそうだ。腐って土に還ることもあろうし、動物に喰われて消化され動物の血肉になったり、あるいは排泄され土に戻る。一旦は血肉になった植物の構成要素も、当座の役割を果たしたなら、遅かれ早かれ廃棄されるか、あるいは動物の連鎖の何処かの網に引っ掛かるだけのこと。
神の目から見たら今、たまたま生きている生物だけが特別な存在である理由など、全くないのだ。あるとしたら人間の勝手な思い込みで、自分たちが特権を享受している、神の特別な関心が魂の底まで達しているに違いないのだと決め付けているに過ぎない。
この私である彼は、空中を浮遊する塵や埃と同一の価値をもつ。価値とは神からの恵みだ。その恵みは地上だろうが、あるいは宇宙空間だろうが、全く等距離の彼方にある。それとも、全く、等距離のすぐそこにある。
宇宙の永遠の沈黙。それはつまりは、神の慈愛に満ちた無関心の裏返しなのである。神の目からは、この私も彼も、この身体を構成する数十兆の細胞群も、あるいはバッサリと断ち切られた髪も爪も、拭い去られたフケや脂も、排泄され流された汚泥の中の死にきれない細胞たちも、卵子に辿り着けなかった精子も、精子を待ちきれずに無為に流された卵子も、すべてが熱く、あるいは冷たい眼差しの先に厳然とあるに違いないのだ。
この私とは塵や埃と同然の存在。それは卑下すべきことなのか。 そうではない。むしろ、この地上の一切、それどころか宇宙にあるところの全て、あるいは想像の雲の上を漂う想念の丸ごとが、神の恵みなのであり、無であると同時に全であることを意味している。
私は風に吹き消された蝋燭の焔。生きる重圧に押し潰された心のゆがみ。この世に芽吹くことの叶わなかった命。ひずんでしまった心。蹂躙されて土に顔を埋めて血の涙を流す命の欠片。そう、そうした一切さえもが神の眼差しの向こうに鮮烈に蠢いている。
蛆や虱の犇く肥溜めの中に漂う悲しみと醜さ。その悲しみも醜ささえも、分け隔ての無い神には美しい。
私は融け去っていく。内側から崩壊していく。崩れ去って原形を忘れ、この宇宙の肺に浸潤していく。私は偏在するのだ。遠い時の彼方の孔子やキリストの吸い、吐いた息の分子を、今、生きて空気を吸うごとに必ず幾許かを吸い込むように、私はどこにも存在するようになる。
私の孤独は、宇宙に満遍なく分かち与えられる。宇宙の素粒子の一つ一つに悲しみの傷が刻まれる。
そう、私は死ぬことはないのだ。仮に死んでも、それは宇宙に偏在するための相転移というささやかなエピソードに過ぎないのだ。
そんなことに思い至った時、私を包んで今にも窒息させようとした頑固な殻が、カサブタの剥がれ落ちるように罅割れ、バラバラと落ち、新鮮な空気が私の肺に吸入されるのを感じた。
そして私は眠りから目覚めた。
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