我がタクシードライバー時代の事件簿(番外編:夜間飛行)
真夜中の高速道路を一路、都心を目指してタクシーを巡航させる。ほんの一瞬だけれど、ふと、「夜間飛行」という言葉が脳裏を過(よぎ)ることがある。
この言葉、そして感覚が不意に浮上してくるのは、あくまで帰路である。往路では、まずそんな経験はない。
(中略)
往路は、上記したように、行灯が消えているので、タクシーも普通車も区別がない。少なからぬ車が黒っぽい塊と化して下りの道をひた走っているだけである。
それが、夜半過ぎの帰路となると、様子は一変する。
そう、一般の車は数えるほどだし、トラックも少ない。時に、高速道路上を走っているのは岐路を急ぐタクシーだけだったりする。そして、そのタクシーのバラけた群れは、それぞれの車の上の行灯に灯りが灯っている。
夜半を回った高速道路を都心を目指してひた走る。すると、夜の闇の中を朧に光る黒に近い灰色の幅広い帯がまっすぐに走っている。帯には路肩や車線を示す白いラインが描かれている。防音壁がまた夜の川を土手のように闇にどこまでも続いていく。
車は未明も近い時間帯となると、疎ら。
そう、そこには点々と散在する光たちが藍色と灰色との闇の海の帯に沿って走っていく。
夏も近くなれば、尾っぽを光らせる蛍たちの群れが、遠くの餌場を目掛けて、それとも雌の臭いを嗅ぎつけて、無心になって飛び去っていくようでもある。
中には百キロ余りで走っている凡百のタクシーをあっという間もなく抜き去ってく個人タクシーもある。きっと、余人に増して欲望が強いのか、それとも仕事に打ち込んでいるのか。
だから、闇の中の光の群れは、秩序だった光の列ではないのだ。間近に見えた光が、あれよという間に高速のゆったりしたカーブの先へ吸い込まれていく。消え去っていく。置き去りにしていくようでもある。光が消滅していくかのようだ。
無論、自分の車も、その一台なのである。遠目には自分の車も、黒から藍の海へ、鉛色から底光りする灰色の闇へと変幻する無機の空間に明滅する数知れない虫たちのただの一匹に過ぎない。
ああ、おれも、夜間飛行する一匹の虫なのに違いない。
この感覚が襲ってきたときには、スピードを無闇に上げたりしない。遅からず早からずというスピードがいい。エンジンの唸り音より道路に削られるタイヤの悲鳴のほうがやや大きいほどがいい。風の唸り声が脅威に感じられない程度がいい。
うまくスピードを調整すると、まるで道路の上を走っているのではなく、滑っている。
否、それどころか、ある種、うまく自分を誤魔化せたならば、空を宙を飛んでいるような感覚さえ、覚えることが不可能ではない。
闇の宇宙を、闇の空を、闇の海の帯を、闇の海の澪を極めて自然になぞっているだけかのように思えたりする。
この形而上的感覚!
あの車、この車のどれにも運転手がいる…はずである。防音壁の下、それとも彼方には住宅街があり、森があり、山があり、海があり、あるいは川がある。そのどこにも、人間の、それとも動物の、植物たちの、微生物たちの、ウイルスたちの生活が、命が、犇めき合い、蠢き合っている。タイヤが削れてまでも走っている今、道路の下では何かの生き物の新たな命が生まれようという瞬間に際会しているかもしれない。末期の時を迎えているのかもしれない。ただただ、生きる苦しみに呻吟している人もいよう。肉体の喜びに嗚咽しているかもしれない。飢え飢えているのかもしれない。
目に見えるもの、耳に聞こえるもの、匂ってくるもの、味わえるもの、考え感じ思い想像し妄想するその全てを賭けても、人の想像力の遥かに及ばない世界が空に地に宙に広がっている。電波が一点へと収斂せんと幾重もの虚の波を闇の彼方の磯を目掛け打ち寄せ続けている。クォークが飛びぬけ、宇宙線が体を貫き、宇宙塵が漂い、星が煌くことを忘れ直視せんとする者から光を奪おうとしている…。
夜間飛行の感覚。
(中略)
地上世界を何処までも離れていくという感覚。それは、肉と心の世界からの離脱のようにも見える。ただ、離れれば離れるほどに、離れた両者は不可視の強烈な接着剤でパートナーに引き寄せられるのを感じる。重力より凄まじい力で。引力と斥力。
夜間飛行を続けていると、人間の心が肉ほどにモノなのだという感覚を知る。思い知らされる。
あるいは、その形而上的感覚を誰よりも感じ味わうために夜間飛行という名の星への旅を続けていたのだろうか。
(転記終わり)
関連拙稿:
「我がタクシードライバー時代の事件簿(序)」
「我がタクシードライバー時代の事件簿(1)」
「我がタクシードライバー時代の事件簿(2)」
「我がタクシードライバー時代の事件簿(3)」
「我がタクシードライバー時代の事件簿(4)」
「我がタクシードライバー時代の事件簿(5…前篇)」
「我がタクシードライバー時代の事件簿(5…後篇)」
「我がタクシードライバー時代の事件簿(6)」
「我がタクシードライバー時代の事件簿(7)」
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