赤い闇
初めに何があったのだろう。
何一つ、覚えていない。
忘れてしまった?
それとも、最初から記憶の網に掛かっていなかった?
ある言い知れない不快感。
いや、不快の念というより、ある種の裂け目。
引き裂かれる痛み。
…痛みさえ、覚えることのできない痛烈な捩れ。
体が捩れるのか、それとも時空自体の歪みが己に及んだだけのことなのか。
限りなく血の色に近い、オレンジ色の時空。
血反吐(ちへど)のような時空の塊(かたまり)。
喉なのか、それとも脳髄のどこか奥まった箇所なのか、血栓が決壊して、薄く透明なパイプの膜を突き破って時空の結晶が飛び出してしまった。
鉄分の匂い。
…血の匂いなのか…?
凝結した血がヘドロとなって溢れている。
目や鼻や耳や口から溢れ出ている。
切り裂いてしまったのか。
一体、何を引き裂いた?
…息ができない!
血飛沫という濃密な、甘いような苦いような不思議な味の蜜が喉を口を満たしている。
血糊が舌を嬲っている。鉄錆の何処か寂しげな匂いが周辺に漂っている。
匂いが鼻の粘膜に、血糊が舌の先に粘りついてしまって、こいつらはきっと、一生、付き纏うに違いない。
赤い闇が覗けている。
何処までも深い闇。
幾重にも塗り固めた漆の光沢にも似た、赤茶けた表層を滑っていく。
裏返り、宙返りし、もんどりうって、その上、体が捩られ擂(す)り潰される。
心までが眩暈の余り、吐き気に苦しんでいる。
それでいて、間欠泉の如き唐突な愉悦に嗤ってしまいそうだ!
それは…、二つの肉塊に別れてしまった。
別れ別れになってしまった。
溶けて分離し、南の海へと孤独な旅をする氷山。
ちょうどそのように、二つの肉の塊たちは、それぞれの海へ、それぞれの崖っぷちへ流れ去り行く。
寂しい。
何物とも触れ合うことのない二つの塊。
せめて北の海へ舞い戻って、いつの日か氷の海に閉じ込められるがいい。
深く固く篭って、いつの日かの夢を貪るがいい。
ああ、けれど、肉の塊はさらにさらに細切れの刑という憂き目に遭っている。
あそこにも、そして、あんなところにも、元は一つだったはずの片割れの肉片が転がって呻いているじゃないか!
まるで、真夜中過ぎの町の灯りのように、孤独に沈んでいる。
もう、拾い集めることも叶わない。
懸命に集めたところで、何かが足りなくなるのは目に見えている。
ボタンを掛け違えたのだ。
擦れ違ってしまったのだ。
辻褄が合わない。
寂しいのだ。
会いたい!
路上の石ころどもがそう叫んでいる。
そんな悲鳴が誰にも聞こえないのか?
青い石、赤い石、黄色い石、透明な石、有り触れた砂利。
あれらは…、もしかして、我が身の成れの果てではないのか…。
(了)
関連しないけど、(「赤い闇」つながりということで参照してほしい)拙稿:
「雪幻想」
(09/11/28 作)
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