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2009/09/23

ディープブルー

「国稚(わか)く浮べる脂の如くして、くらげなすただよへる時、葦牙(あしかび)の如く萌え騰(あが)る物に因りて…」

Kuragenazuna_2

← 本作は、この絵に触発されて創作したものの一つです。絵は、なずなさんの手になります。同氏は、こんな作品が生まれようとは、夢にも思わなかった、不本意と思っている…かも。

 夢の中にいる。夢だと分かっている。間違いなく夢に違いないのだ。そんな世界がありえるはずがないし。
 でも、この世界から抜け出せない。上も下も右も左も、どっちを向いても、水である。水に浸されている。口を固く閉じているつもりだけど、つい油断して口を開けてしまう。すると、口の中に水が浸入してくる。水が口中だけじゃなく、喉にまで入り込み、内臓をも水浸しにしてしまう。

 喉に入った水は、容赦なく気管支に流れ込み、肺にも入り込んで、肺胞を水攻撃し、水鉄砲で突っつき始め、ついには、無数に分枝したその末端にある肺胞の一個一個が肺の本体から剥がれ落ち、気が付けば、ブクブク上がる水の泡どもと紛れてしまって、もう、水の泡なのか肺胞だったのかの区別も付かない。
 ああ、これでは、肺胞での換気はどうなるのだ。溺れてしまうぞ。息が出来ないぞ。これまでのオレの人生が泡沫と化してしまう。オレの努力が水の泡だ。
 喉が競りあがってきそうだ。疲れきって、口が開き、顎が上がってしまう。オレは一体、どうしてしまったのだ。

 苦しい!
 苦しい?
 あれ、苦しくない。苦しいなら苦しいだけにして欲しいのに、まるで苦しくない。オレは、水浸しになっているのに、どうして溺れないんだ。溺死して、それで一巻の終わりになっていいはずなのに、なぜ、未練たらたらに生きているんだ?
 生きている? オレは生きていると言えるんだろうか。なるほど、オレは生前は生きているとは到底、言えないような人生を送ってきた。むしろ、人生を見送ってきた。見過ごしてきた。
 だからって、オレを水の刑に処して、水の中に晒し者にして、この期に及んでまで、生き恥を晒させようというのか。このオレが、どんな悪さをしたというのか。何もしてこなかったじゃないか。
 えっ? それとも、何もしなかったから、こうして水中の汚泥として生き長らえさせようというのか。

 ああ、オレは丸裸だ。真っ裸だ。赤裸だ。薄暗い理科資料室の標本だ。赤面している魚だ。服を脱がされてしまっただけじゃなく、肌さえも剥ぎ取られてしまっている。内臓が透け透けになっている。なけなしの脳味噌さえ、水に漬かって、ふわふわしている。
 あっ、あれは何だ? まさか、そんな、嘘だろ。オレの内臓が、オレの体から離れ去って、勝手に蠢きだしているじゃないか。今更、オレに義理立てなどする必要が無いとばかりに、水に浮いている。水中で漂っている。プカプカしている。一切の柵(しがらみ)を捨て去って、そう、ご主人様のはずのオレをも見捨てて、我が道を歩み始めている。
 ああ、オレにも我が道を歩めというのか。オレにどんな人生があるというのだ。内臓がバラバラに離散し、骨だって、関節の箍が緩んでしまって、90度どころか 180度どころか360度どころか、オレへのあてつけみたいに、むやみやたらとグルグル回転している。今までがあまりにゴツゴツ、コツコツし過ぎていたと言わんばかりじゃないか。
 内臓も骨格も我が侭のし放題になっている。離散どころか、我が人生は悲惨そのものだ。
 ああ、我が脳味噌だけが、宇宙の中の島宇宙のように、プカプカ浮いている。オレは今じゃ、太平洋の離れ小島なのか。

 ああ、なのに、この、なけなしの脳味噌さえ、今にも破裂しそう。それとも、破裂するんじゃなくて、脳細胞が、脳の神経が、分裂しかけている。離反しそうだ。誰に対して謀反をしかけようというのか。脳細胞がバラバラになったら、反発する相手もなくなってしまうじゃないか。思い止まれよ。寄り添って生きていこうじゃないか。オレに悪いところがあったら、直すよ。生まれ変わるよ。
 ああ、オレは、無数の細胞の離散した雲のような存在に成り果ててしまった。オレとは、確率だ。確率の雲だ。霧だ。水中の霧だなんて、想像もつかない。雲を掴むような話だ。オレは何処に居る。あの雲の彼方か。あの水平線の向こうなのか。地平線は何処に消えた。山の高原に降る霧がオレだというのか。たまに霜になって地上にしがみ付いて、そうして、地上世界に生きた過去の思い出を懐かしんでいるというのか。

 ああ、雲よ。固まるんだ。一個の存在に戻るんだ。早く! 
 そうしないとお日様が上がってきたら、霧なんて掻き消されてしまうじゃないか。雲散霧消しちゃう。気体のままじゃ、風に呆気なく流されてしまうぞ。一個の塊となるという夢が朝日と共に蒸発してしまう。元の肉体に戻れるかもという期待が吹き飛んでしまう。
 早く、霧たちよ。無数の微粒子たちよ。数知れない確率の雲たちよ。量子崩壊して一点へと凝縮するのだ。<わたし>になるのだ。<わたし>が嫌なら、<それ>になるのだ。

 ああ、青い水。青い水の中の花。眺めるはずのオレが眺められている。真っ裸以上に赤裸のオレがジロジロと眺められている。
 オレは形をとっくに失い、ブヨブヨし、プヨプヨし、フワフワし、プカプカし、プニュプニュし、風に吹き流され、無数の花粉と隣り合わせになり、誇りを失い、埃の雲に覆われ、焦点を見失い、そして、水中にあって、目に見えない流れに押し流されている。
 体を失ったオレとは、一体、何だ。何処にオレは居る? オレは一個の感覚ではなかったのか。オレとは一個の幻想だったのじゃなかったのか。オレとは、幻想への幻想、感覚への感覚、夢への凝縮、形への崩壊の夢、変幻しつつも、いつかは一個の形を取れるはずという、何の根拠もないのだとしても、その期待に生きていたのじゃなかったのか。

 ああ、オレは勝手に裏返しにされている。見透かされている。薄っぺらな自分が曝け出されている。嘘が吐(つ)けなくなっている。夢を見るはずが、夢そのものになっている。夢とは、青い空に浮かぶ雲だ。変貌極まりない天然自然だ。無辺際なる未来も過去もない無明の宇宙。雲の裏の金色の耀き。裏? 裏って、一体、どっちが裏なのだ。オレのいないほうが裏? それとも、オレのいるほうが裏なのか。眩い光。光芒の照射。オレの生きていたことは、光芒の誤りに過ぎなかったのか。

 ああ、我は一体、何処へ消えたのか。我への執着心。そうだ、オレとは我への執着心以外の何物であろうか。幻想だ、無為だと謗られ軽蔑されようと、我へ固執する意志、一個の塊への執心、我であろうとする欲、そう、我執、妄執以外に、オレなど、何ほどのものであるはずがないじゃないか。
 なのに、雲だ。霧だ。霞だ。靄だ。曖昧模糊だ。もやもやだ。
 オレとは一個の感覚。考えることなどとは、一切、無縁の感性だけの存在。在るとは思うことではなく、感じること。エッセ・エスト・ペルキピー Esse est percipi。存在とは知覚。感じること。存在とは存在。
 では、オレは今、感じているのか。水に漂って。漂ってさえ、いないじゃないか。オレは今や、水の粒子とさえ、溶け合っている。混じりあっている。混在している。水とは万能の溶液だとか。ああ、オレは水の罠に掛かってしまったのだ。水の策略に嵌ってしまったのだ。水に溶け去って、溶液の中に消え去っている。
 ビーカーの中の水。ああ、透け過ぎている。視線が透過してしまって、閉じられた瞼の裏の水晶体に封じ込められてしまっている。

 こうなったなら、オレは、開き直るしかないのだろう。そうだ、オレは、水になればいいんだ。水は方円の器に従うというじゃないか。今のオレは、水そのもの。だったら、オレは、変幻自在なる夢そのものとなる。器さえ、邪魔だ。オレは宇宙になる。そうだ、雲なんて、論外だったのだ。雲も霧も霞も靄も、吹き飛ばしてしまえばいい。何故なら、オレは宇宙なのだ。宇宙の時空に偏在しているのだから。
 水とは、水素と酸素だ。その水さえも、還元してしまえばいい。一切を還元してしまえば、そこにあるのは、宇宙だ。宇宙の根源だ。宇宙の根源とは、何か。それは、青だ。青い海だ。海が宇宙より根源であるはずがないって。海とは混沌。混沌の海こそが宇宙じゃないか。青みの底へ。青の時代へ。青に透過された海の底の泥濘。堆積した悲しみと喜び。

 クラゲが浮かんでいる。泳いでいる。それとも、漂っている。漂流している。意志などない。水の流れが、即ち、意志なのだ。夢とは意志そのものだ。オレは今、意志そのものとなっている。存在と不即不離にある。オレはオレに完璧に重なっている。
 オレとはナルシストなのか。まさか、自分の存在を信じないオレがナルシストたりえるはずがない。オレとは、無なのではないか。無以上に、それとも無以下に蒼白なる海なのだ。海の、宇宙の大きさのクラゲ。水の流れ、気の流れ、意の流れ、闇の海を渡る船の水路を示す杭を、そう、澪標(みおつくし)を感じることのできるクラゲなのだ。闇の宇宙の中の水先案内人なのだ。何故なら、オレそのものが存在なのだから。

 青い海の、その果てしない深みを誰よりも味わう。闇の海の静寂に鳴る響き。宇宙の鼓動。光の明滅に他ならない鼓動。
 瑞々しさを堪能していた。潤う心になっていた。泉の湧く岩場にいた。花の咲く高原だった。抽象的にして、現実そのものである夢そのもの。

 こうして、オレは水に浮かび漂いながら、目覚めることのない光る夢となっていたのだった。

                            (04/09/27 作

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