秋茄子と言えば
「秋茄子と言えば」(本稿は駄文です!)
例えば、中森明菜さんが、明菜’sなんていう自分のブランドを作ってみるとか(当然、シンボルはナスなんでしょうが)思うのは、可愛げ気があるけど、かの中世の神学者・哲学者、トマス・アクィナス(Thomas Aquinas)などを思い出す、なんて言うと、教養をひけらかすようで、ちょっと気が引ける。
まあ、駄洒落はともかく、秋茄子と言うと、秋茄子は嫁に食わすなという昔からの言い伝えというか、諺がある。
意味合いは、一頃は、「秋茄子はとっても美味しいので嫁には食べさせるのはもったいない」とか、「秋茄子は種が無いので嫁に子供が出来ない事を気遣う」などという意味なのだと、言い習わされたりもしたものだが、クイズなどによく採り上げられ、今では、「ナスは、体を冷やすので食べ過ぎるのは体に良くない」ので特に嫁には食べさせないほうがいいのだという思いやり乃至は知恵の含まれた諺だと理解されてきている。
泉鏡花に『雁われの秋茄子は所帶の珍味』という極めて短い作品がある。
この小品を読むと、「雁《がん》われの秋茄子《あきなす》は、鮎《あゆ》の味《あぢ》がすると思《おも》へ、所帶持《しよたいもち》の珍味《ちんみ》なり」とある。雁われの秋茄子は鮎の味がするというが、雁われの秋茄子とは、どんなものか、小生はよく分からない。
同じく、この作品を読むと、明治の頃には、「鰹《かつを》の鹽辛《しほから》、烏賊《いか》の鹽辛」とか、「納豆」売りの声が街中で聞こえたのだと分かる。
イカの塩辛は好物で、昔はよく食べたものだったが(塩分が濃いので、今は控えている)、鰹の塩辛というのは、食べたことがないので、一度くらいは試してみたいものである。
それにしても、この頃は、金魚売りも風鈴売りの姿も見ない。
せいぜい、「棹や、青竹」の声くらいのものか。そんな風情のある時代ではないと言うことか。
さて、言い忘れたが、小生は、ナスが嫌いだった。食わず嫌いだった。しかも、嫌いなのはナスだけではない、小生のは度を越していて、ナスどころか、凡そこの世に食べるものが何もないくらいにありとあらゆるものが嫌いだった。食べられるものは、御飯と具のない味噌汁か御汁(おつゆ)くらいのもの。御飯にマヨネーズか、それとも味塩を振りかけて食べることしかできないところまで追い詰められた。
ここまで来ると、偏食という生易しいものではない。ほとんど拒食症である。小生が保育所の頃か、それとも小学校に上がった頃のことだ。そうそう、御飯に醤油を掛けて食べることもよくあった。オカズなど一切、箸を付けない。
野菜の類いが、牛蒡から大根からニンジンからフキから、何もかもが嫌いだったのだ。確か、小生はついに腎臓を壊して入院したことさえあった。
それが少しずつ食べられるようになったが、それでも野菜はダメで、御飯に卵とか、肉とかコロッケとかがせいぜいだった。小学校の終わり頃だったか、永谷園だったかの振りかけなるものが売られ始め、小生は御飯に振りかけというパターンに凝ったことがある。何のことはない、マヨネーズや味塩や醤油が振りかけに変わっただけなのだが、それでも、海苔も入っているし、多少は栄養面で進歩したことになる…のかどうか。
そういえば、ラーメンでも、ネギは残すし、シナチクも残す。たまにモヤシの入っているラーメンもあったりするが、当然、もやしなど口にするはずもない。
そんな小生に<革命>の時代が来たのは、大学生になってから。小生は下宿暮らしとなった。同じ下宿には郷里を同じくする者もいるし、そうでなくてもすぐにみんなと友達になってしまう。
朝と夕食の二食の賄い付きの下宿。下宿して、すぐに驚くべきことに、八宝菜なるものが出て、魂消てしまった。
小生は偏食家ではあるが、見栄坊でもある。小生は御飯はともかく竹の子やニンジン、木耳(きくらげ)などの具に関しては、噛むことを一切せず、ひたすら飲み込み作戦で乗り切ったものだった。
カレーライスも、玉葱やニンジンがたっぷり入っている。入っているだけではなく、我が家のように具の原型がなくなるまで煮込まれているわけではない。そんなものでも残さず<食べた>。
下宿生活は二年間を経験した。この二年間が小生の食の上での訓練の時期となり、好き嫌いはほとんど変わらなかったのだが、食べられるか否かということでは、ゲテモノ以外は基本的に何でも食べられるようになった。
ただし、それでも、最後の最後まで、口に出来ないものが一つだけ残った。それは松茸とか椎茸の類いである。これだけは食わず嫌いではなく、何度トライしても口に出来ない。無理して口に入れると吐き気がする。というか、吐いてしまったこともある。何かの虫を喉にしているようで、どうにも我慢がならない。八宝菜の時は、冗談じゃなく死ぬ思いだったのだ。他の具は嫌いだけれど噛まない限りは口に入れることもできるし、御飯で丸めて喉を潜らすこともできる。が、椎茸、松茸だけはどうにも。
そして、そう、炒め物の茄子も大嫌いなのだ。これも、食わず嫌いではなく、とにかく喉を通らない。通る以前に口に入らない。口が受け付けない。吐き気との闘いとなる。
そんな小生なのである。が、年を取るとは凄いことだと思う。今は、台所のない狭い部屋に暮らしているので料理など論外だが、前の住居ではそれなりの台所があったので、結構、料理をした。味噌汁も、味噌から適当に濃さ加減を見ながらの本格的な味噌汁である。
焼肉が大好きなので、週に二度三度と焼肉料理がオカズとなるのだが、ただの焼肉ではなく、最低でも野菜ミックスを買ってきて、肉野菜にする。当然、キャベツもニンジンもモヤシも木耳も、とにかく(見た目には栄養のなさそうな)野菜類がいろいろ入っているのを、肉と絡めて焼くのである。肉だけを食べるのも美味しいが、野菜と絡めて食べるのもグッド。
それが、もっと年を取ると、スーパーではほとんど手にしなかったというか、眼中に入らなかった山菜なども買ってみて、食卓を賑わせてみたり。
もう一度、茄子に戻ると、依然として、炒め物の松茸・椎茸と同様、炒め物の茄子は嫌いである。が、浅漬けなど、漬物の茄子なら今では、わざわざスーパーで買ってきたりすることさえあるのだ。変われば変わるものである。
そういえば、これはただの直感で、ちょっと怖いので試してはいないのだが、松茸・椎茸も炒め物は嫌だが、焼いて食べるのなら、口に入るような気(予感)がする。
まだ、確信は持てないので、買って、焼いてみて、それでもダメかもしれないし、敢えて購入はしないでいる。誰か、松茸・椎茸の新鮮なものをプレゼントしてくれないものか(饅頭、怖いかという落語の話をしているわけじゃない)。
ところで、この駄文は、名エッセイスト・仲江太陽さんの「されど茄子」というエッセイ(と、そのエッセイにコメントされる名コメンテーターの方との遣り取り)を契機に書いてみたものである。
たかが茄子。されど茄子。
実は、もう、夏も終わりだから、「さらば茄子」と駄洒落たタイトルを付けようかと思った。しかし、これでは、名エッセイストの方の名文との比較対照の果ての差があまりに歴然とする恐れがあること、同時に、年を取るごとに、味覚というか食の好みが変わっていく自分を感じるので、さらば茄子というのは寂しい気がしたので、表題の如くにしたのである。何事も為すあたわざる自分を感じる。敢えて他のタイトルを付けるなら、「為すば成る」とでもなるのだろうか。
ま、そんなことをつらつら思った、夏の終わりの夜だった。
(03/08/30 作)
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