雪の朝(断片)
何かの夢で飛び起きてしまった。胸騒ぎなのか、ドキドキして苦しいほどだった。
真っ暗闇の中のはずなのに、障子の向こうから雪明りが染み透ってきていた。部屋が青く朧な光のプールとなっていた。俺はそのやわらなかプールに漂いながら、胸の動悸の鎮まるのを待っていた。
けれど、息苦しさは募るばかりだった。何かしなければいけない。何処かへ行かなければならない。誰かが俺を待っている。
どこか遠いところに俺を待つ人がいる。
俺がいかなければならない。
障子戸越しに外の様子を伺ってみた。雪が降っている気配はない。静かな朝。粉雪のたっぷり降り止んだ朝だと分かった。全ての音が積もったばかりの粉雪の原に呑み込まれてしまうのだ。
時計を見たら5時にもなっていない。
障子戸の雪見窓を降ろして外の世界を覗いてみた。そこに広がっているのは、濃紺から淡い水色にまで変幻する、夢の中でしか現れないような不思議な水墨画の世界だった。
淡白なはずの世界を眼前にしても依然として動悸の高まりは治まらず、胸の切迫感で息も苦しいほどだった。
とうとう着替えて、こっそりと家を出てしまった。
そう、あの人のもとへと。
ただ訳も分からず、あの人のもとへ行かなければならないと感じたのだ。今、行かなければ間に合わないという気がしてならないのだった。
玄関のドアを静かに開けてみた。
やはり、雪はとっくに降り止んでいた。人影はない。上弦の月が煌煌と照っていた。星屑が無数の煌きとなって俺を射竦めていた。もし、輝きを放つ雪がなかったら、俺は星の眼差しに耐え切れなかったかもしれない。
雪明りが天の光を照り返している。柔らかに降り積もった雪を見つめていると、粉雪の底から次第に青く透明な光が輝きを放って来るのに立ち会うことができる。ただひたすらに雪に思いを致す者だけに与えられる密やかな、あまりに幽(かそけ)き天の恵みなのである。
庭に出てみた。
雪吊りされた松や杉を雪がすっかり埋め尽くしている。呉呂太石風の野面石も、何処かの河の上流で見つけてダンプカーでわざわざ持ってきたという岩も、雪には敵わないとばかりに身を丸めて、在り処さえ定かではなかった。
竹矢来の門を出た。そこには誰の足跡も付いていない新雪の道があった。否、道など雪に埋まって見えないのだから、どこまでも広がる真っ白な平原の、微妙で哀切な起伏に過ぎないのだ。両脇に家や塀がなければ、道があるとは分からないかもしれないのだ。
昨夜までに行き交う人で踏み固められた小道の上に、ふんわりと限りなく軽い真綿のベールが被さっている。歩いていく先は、真にまっさらの道なのだ。誰一人歩いたことのない道。自分だけの道。振り返ると、青白いハレーションの海に点々とか細げに跡が残っている。俺の生きた印。だけど、やがては多くの人の足跡に踏みつけられて消え去っていく。
ちょっと足を踏み外すと、突然、足元の大地が消え去ったような浮遊感を味わう。足がごぶってしまったのだ。下手すると長靴に雪が入ってしまう。急いで足を抜く。
俺だけの道などと偉そうなことを言うから、きっと天罰が下ったのだ。人々の踏み固められた道の上の新雪を踏み締めるからこそ、ごぶることなく歩いていけていた。そのことを忘れてはいけない、そう、天が教えてくれたのだろう。
ちょっと裏道に入った。近道を取りたいと思ったのだ。
が、失敗だった。人通りの極端に少ない道で、両脇に堆く積もった雪の壁の間に細い筋のようにして道の片鱗が残っているだけなのである。夜中どころか昨日の日中でさえ、新聞配達などの余儀なく通る人以外は、ほとんど歩くはずもない道。新雪の前の昨日の雪も踏み固められてはいない。
足が踏み外さなくても、簡単にごぶっていく。ごぶって体が沈み傾いたりすると、腰の辺りが両脇の雪の山の連なりに触れてしまう。まだ、歩き始めて一時間にもならないのに、早くも汗が背中に噴き出しているのが感じられる。吐く息も白い。
でも、俺は少しでも早く辿り着きたかったのだ。
雪に頭を垂れている杉の木々のある家の角を曲がると、思いがけず人影が見えた。女の人だと察せられた。
一瞬、俺はあの人かと思った。そんなはずはない、こんなところで出会うはずはないと分かっているのに。
そんな俺の惑いを知ってか知らずか、まっすぐ近づいて来る女の影。
女は、身を一層丸く小さくしている。それで彼女が緊張しているのが分かる。道は細く擦れ違うのは難しい。俺は慣習に従って、小道の隅を足で何度か踏み掻き固め、雪山に体をぶつけるようにして足場を無理矢理作り、彼女が通る道を作った。
俺の脇を彼女はゆっくりと足元を確かめながら通り過ぎていく。擦れ違いざま、微かに頭を下げて礼の意味を示す。去り行く気配を背中に感じ、なぜか後ろ髪の惹かれる思いで、それでも俺は先を急いだ。
やっぱりあの人ではなかったのだ。
(02/12/05 原作)
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