球体鏡の中の美
美を手中にした(かのような幻想に囚われた)者は、美を眺める。
眺める、観るとは、触ること。絡むこと。一体にならんとすること。我が意志のもとに睥睨しさること。美に奉仕すること。美の、せめてその肌に、いやもっと生々しく皮膚に触れること。撫でること、嘗めること、弄ること、弄ぶこと、弄ばれること、その一切なのだ。
やがて、眺める特権を享受したものは、見ることは死を意味することを知る。観るとは眼差しで触れること、観るとは、肉体で、皮膚で触れ合うこと、観るとは、一体になることの不可能性の自覚。絶望という名の無力感という悦楽の園に迷い込むことと思い知る。
観るを見る、触る、いじる、思う、想像する、思惟する(本書は思弁の書なのだから、思弁も含めたっていい)、疑念の渦に飲み込まれること、その一切なのだとして、見ることは、アリ地獄のような、砂地獄のような境を彷徨うことを示す。
砂地獄では、絶えず砂の微粒子と接している。接することを望まなくても、微粒子は、それとも美粒子我が身に、そう、耳の穴に、鼻の穴に、口の中に、目の中に、臍の穴に、局部の穴に、やがては、皮膚という皮膚の毛根や汗腺にまで浸入してくる。浸透する。
美の海に窒息してしまうのだ。
窒息による絶命をほんの束の間でも先延ばしするには、どうするか。そう、中には性懲りもなく皮膚の底に潜り込もうとする奴がいる。ドアの向こうに何かが隠れているに違いない。皮膚を引き剥がしたなら、腹を引き裂いたなら、裂いた腹の中に手を突っ込んだなら、腸(はらわた)の捩れた肺腑に塗れたなら、そこに得も言えぬ至悦の園があるかのように、ドアをどこまでも開きつづける。決して終わることのない不毛な営為。
何ゆえ、決して終わることのない不毛な営為なのか。なぜなら、ドアを開けた其処に目にするのは、鏡張りの部屋なのだ。
何故、鏡張りなのか。壁ではないのか。
それは、どんなに見ることを欲し、得ることに執心し、美と一体になる恍惚感を渇望しても、最後の最後に現れるのは、われわれの行く手を遮るものがあるからだ。何が遮るのか。言うまでもなく、自分である。観る事(上記したような意味合いで)に執したとしても、結局は、自分という人間の精神それとも肉体のちっぽけさという現実を決して逃れ得ないことに気づかされてしまう。
焦がれる思いで眺め触り一体化を計っても、そこには自分が居る。自分の顔がある。自分の感性が立ち憚る。観るとは、自分の限界を思い知らされることなのだ。
つまりは、観るとは、鏡を覗き込んでいることに他ならない、そのことに気づかされてしまうのである。
だからこそ、美を見るものは石に成り果てる。魂の喉がカラカラになるほどに美に餓える。やがてオアシスとてない砂漠に倒れ付す。血も心も、情も肉も、涸れ果て、渇き切り、ミイラになり、砂か埃となってしまう。
辛うじて石の像に止まっていられるのは、美への渇望という執念の名残が砂や埃となって風に散じてしまうことをギリギリのところで踏み止まっているからに他ならないのである。
[本稿は、「壺中水明庵 谷川 渥著『鏡と皮膚』」乃至は「鏡と皮膚…思弁」より抜粋したものである。
なお、本文中に掲げた写真(画像)は、作家の田川未明さんサイトから拝借したものである。但し、画像と本文とは直接の関係はない。素敵な写真なのでいつか使いたいと思っていたが、とうとうそんな機会は作れなかったので、やや無理筋ながらこのような形での使用となったのである。
「mimedia」(田川未明オフィシャルウェブサイト) (09/01/06 注記)]
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コメント
おお。実はこういう写真を創っておきながらあたし自身なかなか使い道がなくて、ううむ、と思ったりしていたのでした(笑)。なのでこんな素敵なエッセイに写真を使って頂けてすごく嬉しい。ありがとうございます。
あたしは谷川渥さんという方を知らなかったので(いつも、やいっちさんに教えていただくばかりですね)、「球体鏡」という言葉から乱歩の「鏡地獄」のことかなと思ったのでした。でも『観るとは、鏡を覗き込んでいることに他ならない』ということは、そこにはまりこめば地獄ということでもあり、なんとなくあの「鏡地獄」の謎(彼はあの中でいったい何を見て、どうして狂ってしまったのか)がうっすら分かったような気がして面白いなぁと思いました。
そしてまた谷川さんの書かれていることは、どこか久世光彦さん(作家としての)の世界にも通じるものがあるような気がしたのですが、谷川さんの経歴を見ると、そこに「美学」「三島由紀夫」という言葉が。やはりその辺り共通するものがあるのでしょうか。
とても興味深いエッセイ、楽しませていただきました。どうもありがとう。今年もまた色々教えてくださいね。どうぞよろしくー。
投稿: ミメイ | 2009/01/07 00:00
ミメイさん
画像、使わせていただきました。
画像と文章とのミスマッチング、なんだかミメイさん(の写真)に申し訳ないような。
今回もミメイさんに甘えておきます。
谷川渥さんの考え方や著作を読んでの感想にもならない感想は、ブログに書いてあるので略しますが、実際のところは、感想文どころか、同氏の著作をとんでもなく懸け離れての妄想エッセイになっております。
ただ、小生を触発するものがあったのでしょうね。
ミメイさんに教えるものがあるなんて、とんでもないです。まともな感想が書けないからこそ、こんな妄想エッセイに突っ走ってしまったわけですから。
乱歩の鏡地獄は思わないではなかったのですが、球体鏡は内部でもあり表面でもあって、悩ましい。
というか、「皮膚と鏡」なのだから、明らかに鏡は球体の(肉体の)表面です。
それでいて、男女の関係でもあるので、表層は(所謂、内面という意味ではなく)内部へと、そう、メビウスの帯(この場合は立体だけど)の導くが如く内部へ触手(舌先)が伸びていくのです。
地獄は中でもあり外でもある。
外(表層)が中そのものでもある。
それにしても、ここで久世さんを持ち出す辺り、さすがというしかないですね。
作家の洞察なのかな。
小生はそこまでは全く思い浮かばなかった!
また、いつか、写真を(文章も?)拝借することがあるかもしれませんが、よろしくお願いします。
投稿: やいっち | 2009/01/07 02:01