粉塵の夢
…意識が薄れていった。彼となり、やがて私となっていった。私とは、一個の幼虫に過ぎないのだ。否、空中を飛散する塵か花粉か埃の一粒。この世に偏在する浮遊塵なのだ。
何かが融けている。訳の分からない何かが、それこそ白蟻に柱が内側から貪られるように、彼の肉体が崩れ去り腐っていく。
そう、かろうじて、一人の変凡な人間であることを保ってはいる。
が、それは、ただの見せかけ。蓑の中の虫に成りきれなかった粘液。あるいは伽藍堂の骨組み。
だからこそ、懸命に表面の殻を固めようとする。その不毛な力みが尚更、彼をメルトダウンさせていく。空洞になった骨と皺だらけの皮膚。パサパサの髪。濁って澱んだ目。
目は一体、何を見ているのだろうか。そもそも何かを見ているのだろうか。 見るがいい、あの怯えきった目。立ち竦んで身動きも侭ならない。
でも、彼は平凡な男。誰にもそこにいることを気づかれることのない、影の薄い男。リストに名前が載っていなければ、そもそもいないのと同然なのだ。人の関心より、リストの記述のほうが、はるかに彼には気がかりなのだ。
遠い日に彼は神なるものについて想を巡らしたことがある。神があるかどうかではなく、とりあえず神はその正体がなんであろうと、とにかく存在を仮定してみた。
神がいて、神は彼の存在に気づいてくれるだろうか。
気づいてくれるかもしれない。けれど、気づいてはくれないで、見過ごしてしまっているのかもしれない。
そもそも神が彼の存在に気がついたとして、それが何だというのか。神が存在するなら、きっとこの地上の全てに対して平等であるはずである。どこそこの誰かを贔屓にする神など彼には思いもよらないことだったのだ。
だとすれば、神はこの私であるところの彼と、どこそこの彼や彼女とどう区別するのだろうか。否、区別くらいは神なのだから、可能なのだとして、しかし、どこそこの彼や彼女とこの私であるところの彼とを分け隔てするなんてことがありえるのだろうか。
それどころか、神の視点に立つならば、地上の生き物の中の特異な存在らしい(少なくとも彼ら自身はそう思っていたいらしい)、人間と他の動物を区別したり、差別したりするだろうか。
彼は、もっと極端にまで走った。動物だけが神の関心の対象であるはずがない。この地上の全ての存在が神には平等に眼差しの注ぐべき、愛すべき存在者たちではないか。だとすると、動物どころか、植物だって神の目からは慈愛の対象でなくていいわけがない。植物は生きていないのか。生きている。健気に、あるいはしたたかに生きている。
神は地上のありとあらゆる命の泉に熱い眼差しを降り注いでいる、そうに違いないのだ。
けれど、彼はそこに想像の翼を休めることは出来ないのだった。
人が死ねば土に還る。土と風と少々の埃に成り果てる。植物だってそうだ。腐って土に還ることもあろうし、動物に喰われて消化され動物の血肉になったり、あるいは排泄され土に戻る。一旦は血肉になった植物の構成要素も、当座の役割を果たしたなら、遅かれ早かれ廃棄されるか、あるいは動物の連鎖の何処かの網に引っ掛かるだけのこと。
食物連鎖の最終の網である人間に、途中の段階で他の成分に成り代わらない限り、植物も動物も至りつく。が、それにしても、同じことだ。やっぱり火にくべられて、夢と風と煙に化す。そうでなければ、灰となって土中の微生物の恰好の餌になるだけのことだ。
ということは、神の慈愛に満ちた眼差しはとりあえず今、生きている存在者たちに注がれるだけでなく、土や埃や壁や海の水や青い空に浮かぶ雲や、浜辺の砂やコンクリートやアスファルトやプラスチックやタール等々に、均しく注がれているはずなのである。
神の目から見たら今、たまたま生きている生物だけが特別な存在である理由など、全くないのだ。あるとしたら人間の勝手な思い込みで、自分たちが特権を享受している、神の特別な関心が魂の底まで達しているに違いないのだと決め付けているに過ぎないのだ。
この私である彼は、空中を浮遊する塵や埃と同一の価値をもつ。価値とは神からの恵みだ。その恵みは地上だろうが、あるいは宇宙空間だろうが、全く等距離の彼方にある。それとも、全く、等距離のすぐそこにある。
宇宙の永遠の沈黙。それはつまりは、神の慈愛に満ちた無関心の裏返しなのである。神の目からは、この私も彼も、この身体を構成する数十兆の細胞群も、あるいはバッサリと断ち切られた髪も爪も、拭い去られたフケや脂も、排泄され流された汚泥の中の死にきれない細胞たちも、卵子に辿り着けなかった精子も、精子を待ちきれずに無為に流された卵子も、すべてが熱く、あるいは冷たい眼差しの先に厳然とあるに違いないのだ。
この私とは塵や埃と同然の存在。それは卑下すべきことなのか。 そうではないのだ。むしろ、この地上の一切、それどころか宇宙にあるところの全て、あるいは想像の雲の上を漂う想念の丸ごとが、神の恵みなのであり、無であると同時に全であることを意味しているのだ。
私は風に吹き消された蝋燭の焔。生きる重圧に押し潰された心のゆがみ。この世に芽吹くことの叶わなかった命。ひずんでしまった心。蹂躙されて土に顔を埋めて血の涙を流す命の欠片。そう、そうした一切さえもが神の眼差しの向こうに鮮烈に蠢いている。
蛆や虱の犇く肥溜めの中に漂う悲しみと醜さ。その悲しみも醜ささえも、分け隔ての無い神には美しいのだろう。
私は融け去っていく。内側から崩壊していく。崩れ去って原形を忘れ、この宇宙の肺に浸潤していく。私は偏在するのだ。遠い時の彼方の孔子やキリストの吸い、吐いた息の分子を、今、生きて空気を吸うごとに必ず幾許かを吸い込むように、私はどこにも存在するようになる。私の孤独は、宇宙に満遍なく分かち与えられる。宇宙の素粒子の一つ一つに悲しみの傷が刻まれる。
そう、私は死ぬことはないのだ。仮に死んでも、それは宇宙に偏在するための相転移というささやかなエピソードに過ぎないのだ。
ふと、そんなことに思い至った時、私を包んで今にも窒息させようとした頑固な殻が、カサブタの剥がれ落ちるように罅割れ、バラバラと落ち、新鮮な空気が私の肺に吸入されるのを感じた。そして私は居眠りから目覚めた。
春の夜の夢、ちっぽけな胡蝶の夢はこうして散った。
目の前に久美がいる。けれど、彼の肉体には夢が憶されていた。何かがそこにある。夢や幻のように、そこに辿り着くには、あと一歩に違いないのだ …、けれど。
(「夢を憶する」より。)
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