水辺へ
あるいは…、こうも思った。
赤という色は、それだけでも、何か血を騒がす色、郷愁というのか胸を掻き毟るような鮮烈な色である。その色に世界が染まる。ほんの一瞬、自分が世界から、この世から、浮き世の柵(しがらみ)から浮き足立ち、遠い世界へ駆け出さずにはいられない心持にさせられる…。
羊水の中の赤が記憶の海の底に焼きついているからだなんて、何て頓珍漢なことを言ってたんだろう。
もっと正直に、あからさまに、赤裸の心を見せたらどうなのだ?
何をビビッている?
誰に臆している?
そう、お前が欲しているのは、血の赤でなく、まして夕焼けの赤だなんて、おセンチなものじゃなく、血であり、血の滴りそのものじゃないのか?
滾る血、泡となって噴出す血、それとも、リストカットされた白い腕から滲み出す鮮血。
お前は昔、偉そうなこと、言ってたな。
えっ?
物質の魂は、大地の下にあって顔を覗かせようとしている。しかし、運悪く、やっと日の目を見ようとしたら大地には岩が彼らの芽吹きを阻んでいたのである。それでも魂は諦めない。必死な思いで岩の下を這い、岩に亀裂を生じさせ、なんとか日の光を浴びようとしているのだ。
俺が生の芸術と呼ぶのは、そうした切実な魂の叫びなのである。その表現なのだ。表現の形が少々歪んでいたって構いはしないのだ。
言っただろう? 忘れたとは言わせないぜ。
お前だって分かっているはずだ。お前がこうして夕陽を追うってのも、実は追いかけているんじゃなく、逃げてるってことを。
逃げる…。
何から逃げる?
人間からに決まってるじゃないか。焔からさ。
お前の好きな、誰かさんの言葉…。呪文のようにお前は呟いていたな。
焔の凝視は原初の夢想を永続させる。それはわれわれを世界から引き離し、夢想家の世界を拡大する。焔はそれだけでも大いなる現存であるが、しかし、焔のそばで、ひとは遠く、あまりにも遠く夢見ようとする。『ひとは夢想のうちにおのれを失う』のだ。
確か、バシュラールの『蝋燭の焔』からの言葉だったな。
もう、言わないでくれ。若気の至りだ。
お前はトコトン、臆病なんだ。
自然が好きとか、呟いて見せて、その自然って、人間から逃避する口実なんじゃないのか?
お前は、こうも言ったぞ。
言葉は単に言葉に終わるものではないのだ。人間にとって言葉はナイフが心臓を抉りえるように、心を抉りえる可能性に満ちた手段であり、まさに武器であり、こころの現実に実際に存在する物質なのである。
しかし、その物質は、手に触れないで遠くから見守る限りはそこに厳然としてある。にもかかわらず言葉で、その浮遊する時空間から抽出しようとすると、本来持っている命も形さえも崩れ去り失われてしまう。
随分と勇ましかったな。
もっと言ってやろうか。
お前は、こうも言ったぞ。
魂は心有るものには、間違いなく現実にあるものと映る。木や石や机のように、人間にとって魂は、心は現実にある。切なく、しみじみとそこに物質として厳然とあるものなのだ。 そうした時空間は、ひたすらに心を密やかにひめやかに息を潜めて見つめないと見えないし、まして実現するのは難しい。
言ってくれたじゃないか!
やめてくれって言ってるだろう!
血の滴り…。
そんなものを俺は求めているのだろうか。
分からない。
俺はただ、水が欲しい。
水だって?
水って何だ?
水だよ。水といったら水しかないじゃないか。
俺は干からびている。
水辺が遠い。
日が沈む前に、俺は辿り着かなくちゃならない。
そうか、お前はもう太陽には背を向けるって言うんだな。
そんなお前には月が似合うぜ。
そうさ、お前自身が言っていたものな。俺は忘れちゃいないぜ。
月の光が、胸の奥底をも照らし出す。体一杯に光のシャワーを浴びる。青く透明な光の洪水が地上世界を満たす。決して溺れることはない。光は溢れ返ることなどないのだ、瞳の奥の湖以外では。月の光は、世界の万物の姿形を露わにしたなら、あとは深く静かに時が流れるだけである。光と時との不思議な饗宴。
こんな時、物質的恍惚という言葉を思い出す。この世にあるのは、物質だけであり、そしてそれだけで十分過ぎるほど、豊かなのだという感覚。この世に人がいる。動物もいる。植物も、人間の目には見えない微生物も。その全てが生まれ育ち戦い繁茂し形を変えていく。地上世界には生命が溢れている。それこそ溢れかえっているのだ。
まだまだあるんだぜ。これもお前の言葉だ。
闇の海には無数の孤独なる泳ぎ手が漂っている。誰もがきっと手探りでいる。誰もが絶えず消えてしまいそうになる細く短い白い帯を生じさせている。否、須臾に消えることを知っているからこそ、ジタバタさせることをやめない。やめないことでそれぞれが互いに闇夜の一灯であろうとする。無限に変幻する無数の蝋燭 の焔の中から自分に合う形と色と匂いのする焔を追い求める。あるいは望ましいと思う焔の形を演出しようとする。
頼む。もうやめてくれ!
俺は渇いているんだ。
カラカラなんだ。
水が欲しいんだ。
川の水でも何でも飲めばいい。好きなだけ、飲めよ。
溺れるくらい飲めるぜ。
違う。俺が欲しいのは俺のうちから湧き出す水だ。
あの、滔滔と流れる川の水じゃなく、俺を体の中から潤す水なんだ。
ふん、やっぱりな。
お前が餓えているのは血の滴さ。肉だよ。地を染める赤い川だ。
要するに、女だろうが。
自分が消え去った後には、きっと自分などには想像も付かない豊かな世界が生まれるのだろう。いや、もしかしたら既にこの世界があるということそのことの中に可能性の限りが胚胎している、ただ、自分の想像力では追いつけないだけのことなのだ。
川へ。水辺へ。
けれど、ススキの原が俺の行く手を阻んでいる。
虚構でもいいから世界の可能性のほんの一端でもいいから我が手で実現させてみたいと思ってしまう。虚構とは物質的恍惚世界に至る一つの道なのだろうと感じるから。音のない音楽、色のない絵画、紙面のない詩文、肉体のないダンス、形のない彫刻、酒のない酒宴、ドラッグに依らない夢、その全てが虚構の世界では可能のはずなのだ。
そのはずだったのだ…が…。
日が沈んでいく。
陽光が川で溺れていく。
川面に陽光が溶けていく。
そして、俺の影も消えた。
文中の太字部分は、典拠を示した一箇所を除き、下記する拙稿からの転記です:
「蝋燭の命」
「「灯ともし頃」と「逢魔が時」の間」
「バシュラール『空間の詩学』 あるいは物質的想像力の魔」
「真冬の月と物質的恍惚と」
「物質的恍惚/物質の復権は叶わないとしても」
「蝋燭の焔、それとも読書/蝋燭の焔に浮かぶもの」
「デネット著『ダーウィンの危険な思想』、あるいは美女と野獣と叡智と」
(08/10/18(9)作)
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