伊香保へいかほ
[ 本稿は「03/06/05」付のメルマガにて公表したレポート(?)。一昨日アップした拙稿「「千木のこと」「竹樋・懸樋」追記」にて、小生が泊った「伊香保温泉 千明仁泉亭」のことを話題にしたので、ブログに載せることにした。リンク以外、本文は公表当時のまま。…が、肝心の温泉に着いてからの記事が書かれていないままだと今日、気づいた! (08/10/01 記)]
「伊香保へいかほ」
この数年、友人達と会うというと、その場所は温泉となっている。やはり、年のせいなのだろうか。日本人の遺伝子に刻まれた温泉嗜好が熱を帯びてきたというべきなのだろうか。
ただ、小生自身は温泉が好きとか嫌いとかではなく、ただただ怠け者というか腰が重くて、誘われない限りは、温泉に限らず、何処へも出かけない。温泉どころか近所の銭湯にさえ、足が向かない。困ったものだ。
何処かへ出かけるくらいなら、自室でロッキングチェアーに腰を埋めて、気の向くままに読書したり居眠りしたりしているだけで、なんとなく時間が経っていく。満足してるわけではないが、それほど不満というわけでもない。こうして緩慢に老化していくのかな、これでは拙いと、ふと思うこともないではないが、だからといって何をどうするわけでもない。ほんの瞬間、チクッという痛みらしきものを覚えるのだが、それも眠気や怠惰や不快に至らない程度の気鬱などの中に紛れていく。
そうした小生を誘ってくれるのは友人達である。彼らはそれぞれに忙しい中、夫婦連れ立って、気に入った場所、大概は温泉地に出かけるのだが、たまに小生も誘い、一同が会するような機会を作ってくれる。
小生はそのプランに乗っかるだけである。
小生は、とにかく何事につけ、企画立案の類いは大の苦手なのだ。意志薄弱というのか、計画を頭の中で練っているうちに、あれこれの計画が錯綜し、迷い躊躇い、そのうちに、また今度にしよう、となってしまう。気が付くと、本を枕に夢の中で旅路を楽しんでいるということになる。
その間、企画を立てている友人達は、フル活動だという。
ネットなどを使い方々の温泉宿を物色し、空いている適当な宿を探す。大概は仕事の予定や各人の生活事情の遣り繰りがつくのが突然なので、どうしても急遽、行き先を探すということになるので、出かけるのがシーズンオフであっても、数日前での宿の手配は難しいのである。
当然、小生も打診を受ける。これこれの時期に行くが、大丈夫かと聞かれる。
小生に付いては、ダメだという時期は、基本的にない。自由業的な仕事に付いていて、スケジュールの都合の付けるのが難しい彼等のタイミングにほぼ常に合わせることができる。
ま、一言で言うと、お任せなのである。どうしてこんな小生を誘ってくれるのか不思議でならない。誘われ、大体の目的地乃至目的のゾーンが決まってきたなら、せめて小生も宿探しにネット上だけでも<奔走>すればいいのに、小生は、まず、何もしない。せいぜい、しないといけないんだろうなと、申し訳ないななどと、思って見せるだけである。
そもそも小生には価値観というと大袈裟だが、判断の基準というか、自分の考えがないのだと、こんな時、つくづく思ってしまう。また、仮に自分の思い付きを披露しても、それがまた、あんなこと言わなきゃよかったというような突飛な考えだったのだと、後になって気付く。
お目当ての宿とか、この辺りへ行こうという考えはあるかと義理にであっても聞かれているので、過日、何かのエッセイを書いた折に気を惹いた温泉地をポロッと口にしてしまう。確か、友人達がターゲットにしているゾーンから外れていないはずだと本人は思っている。俺だって、少しは考えてるんだぞ、というポーズを示しているのだ。
が、さて、口に出してから調べてみると(主に友人が)、日本地図を開いたレベルでは、ほんの指の先だが、ターゲットゾーンに絞った地図だと、完全に食み出した、問題外の温泉地だったのだと友人に指摘される。
ああ、やっぱり小生が口を挟むべきじゃないんだ、我輩には何かを選ぶセンスがないんだと、改めて思い知らされるわけである。
やがて小生は、ま、いいや、任せとこ、明日は仕事だし、そのうち待てば海路の日和だろうと、怠惰な本性に従って、ロッキングチェアーに身を沈め、あるいはベッドに潜り込む。
翌日などに、出先で携帯パソコンを開いてみると、宿が決まったというメールが届いていたりする。
ふん、ふん、ここか。千明仁泉亭だって、まるで聞いたことのない宿だな、なになに、徳富蘆花に縁(ゆかり)のある宿だって、徳富蘆花…、さすがに教養のない小生でも蘆花の名前くらいは知っているぞ、でも、彼の著作を何か読んだことがあったっけ、ないな、あるかな、あっても読んだのは学生時代だろうな、まるで記憶に残っていないということは、小生の琴線を掠らない作家だったということか、うん? 蘆花って、蘇峰とどういう関係だっけ、親子? 兄弟? そのうちに、「ホトトギス」の作家、「自然と人生」の作家だということを思い出してくる。書店で岩波文庫の棚に並んでいるのをたまに目にしたことがある、でも、引っ張り出してパラパラとでも捲ったことがあるのは、一度か二度で、ああ、やっぱり小生は読んでいないんだ、云々と脳裏にダラダラとあれこれ浮かんでは消えていく:
「都立蘆花恒春園」
宿である千明仁泉亭についても、調べなければと思いつつも、結局、ネットで調べたのは出かける二三日前になってしまった:
「伊香保温泉 千明仁泉亭 - 温泉のご案内」
向う先が伊香保温泉だということも、ようやくにして小生の脳裏に刻まれ始める。とにかく何事も頭にピンと来るのが遅い。
そういえば、電話で友人が行き方、分かるよな、とかなんとか言っていたな、てことは、地理というかルートも調べておかないといけなかったんだ、と、そこまでは思ったりするが、何故か、調べるのは出かける前日になってからになるのである。小生は、だが、友人には、大丈夫、分かるよ、と生返事している。
どうしていつもこうなんだろうと反省の態度を示して見せるのだが、身に付いた怠け癖が、この程度の反省でどうなるはずもなく、やはり、何をするにしてもギリギリになってからである。切羽詰ってからやっと動き始めるのである。試験があると分かっていても、前日になって、やっとテキストを開く、そこで勉強すればいいのに、何か自分でも分からない思考回路があるらしく、グルグル、迂回路をこれでもかとばかりに取ってしまう。とうとうこの期に及んではどうにもならない頃合いに至り、ま、いいや、直前になってから準備すればいいんだと、分けの分からない太鼓判を勝手に押して、根拠のない大船に乗ってしまう。
ところが、やっぱり自分は何の船にも乗っていなかったんだと、さすがに小生も気付き、地図を調べる。
伊香保をアバウトに脳裏に収め、宿についても何となく、せめて名前くらいはボンヤリ覚えようとする。何処かに表記してあれば、これだよと指摘できる程度にはなる。「千明」が「ちぎら」と読むのだと、やっと土壇場になって再認識する。何故、「千明」と書いて「ちあき」じゃなくて「ちぎら」なんだろうと、ふと疑問に思ったりするが、調べないままに、そのまま地理のほうへ関心が戻る。
パソコンが不調でプリンターで地図をプリントアウトすることができないのだと、気付く。
通るのは、関越自動車道であり、降りるのは渋川伊香保インターであり、嘗て知ったる道なので(昔は東京と田舎である富山とは、必ずと言っていいほど関越自動車道を使っていた)、関越を利用した際に何処かのサービスエリアで得ていた地図(パンフレット)を書棚から引っ張り出す。
が、渋川伊香保インターから伊香保への道は、あまりアバウトすぎて、使い物にならない。ま、当然だよね。
で、ネットに戻り、地図の画面をアップし、手元のメモ用紙に適当に書き移す。他人が見たら判読不可能だが、自分には読める、しかも、書いて数日間は識別できるが、後日、再度見ても何の記号や線や矢印や文字が羅列しているのか、まず分からないだろう謎の文書を作成する。
後で気が付いたのだが、小生はそのメモ用紙に友人達の携帯電話番号を書き、宿の電話番号を書くつもりだったのだが、書いたつもりになった時点で小生の思考回路上では、既に書いたものということになっていたらしく、電話番号の類いは何も書いていなかった。小生は携帯電話など持っていないので、小生と友人達との連絡は基本的に取りえない状況に陥っていたのだ(友人には電話番号を書いたメモを忘れてきたと弁明していた)。
実は、その頃、台風4号が九州か何処かに上陸するということで、もしかしたら台風が関東に近づかないまでも、その余波というか影響を受けるのではと、そちらを心配していたのである。誰かさんに、「嵐を追う男だね」と、言われたりもした。タイミング的には、台風が日本海沖に抜け、温帯低気圧に変わっている、その方向へ向ってスクーターを走らせることになるのだ。
そう、何を隠そう、小生はスクーターで現地に向うのだが、雨も嫌だが、何より風が嫌いなのだ。部屋の中で燻っている時は、窓外の雨や風に風流を覚えたりもするのだが、その風雨の中を駆けるとなると、臆病な小生はビビッテしまうのである。
(例によって、肝心の温泉に辿り着く前に、既にして少々長くなったので、これで中断する。気が向いたら、続きを書く)
(03/06/05作)
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