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2008/08/11

架空凝視という病

 富山へ帰郷してもうすぐ半年となる。無我夢中の日々だった。今、砂を噛むような味気ない日々を過ごしているが、さてでは東京という大都会で一人暮らししていた頃の心境はどうだったか。
 紹介する日記は僅か7年前のもの。題名が仰々しいが、要は愚痴っているだけ。感傷に堕している。当時もあれこれしょうもないことを呟いているが、不毛さという点では今のほうがずっと強く実感しているような気がする。

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→ 我が家の庭に咲いている小花(10日撮影)。君の名は? 

 何が悪いんだろう。やはり自分か。
 間違いなく言えることは、この数年、小生は人間的に少しも成長していないということ。これが一番、問題なのかもしれない。
 実は昨夜、「Google マップ」で今年の二月末まで居住していた東京は大田区の我が邸宅(集合住宅)の様子や近くの商店街、小学校、文化施設、池上通りなどを(但し空撮で)しばし眺めていたのだ。
 この町でこんな感懐・感傷を後生大事に抱えていたんだなって思い出し、再掲することに。
 虚構の館に収めるのは、こうした心理のトーンの延長で短編を書くことが多かったからである。
                   (08/08/11 再掲に際し記)

架空凝視という病

 都会にあって人里を離れていると、自分が何も見てはいないことに気付く。都会に住んでいるのだから、ちょっと外に出かけるか、そうでなくても窓の外を眺めるだけで人影を望むことができる。
 なのに、人とは決して出会わない。

 人里離れた草深い庵にでもわび住いしているというのなら、人と出会うことがないといっても、覚悟の上だし、むしろ観光地でもないのに変に山の奥に人気が多いと、何事かと不審に思えたりするだろう。
 きっと、そんな道も定かではない、入り組んだ山の麓に住めばこそ、逆に人恋しいと思えてくるかもしれない。ふと、そう期待する。

 が、今は、都心とは言えないにしても、二十三区の一つの海辺で、且つ大きな川に面する区に住んでいるのだ。景気が悪くて人の出が悪いといっても、そこはそれ、これでも数十万の区民が住んで暮らしている。郷里であるT市は、県庁所在地でもあるのだけど、それでも、現住している区の半分の人口しかいない。それに比べたら、断然、都会であることは間違いない。
 なんて、そんなことは、今は、どうでもいい。

 そんな人口の密集している地にありながら、人に出会わずに済む、その不可思議さを思っているのだ。
 買い物に出かけると、人と擦れ違わないわけにいかない。犬の散歩らしき人影も、遠目には見えた。原付が後ろから、やってきて、やがて何事もなく走り去っていく。不意に何処かの家の二階辺りから人の話し声が聞えてきた。子どもと母親が、何か喧嘩しているらしい。

 夜の東京を歩くと、一人身の者には、窓明かりが妙に懐かしい。ほんの気紛れにでも、誘い入れてくれないか、なんて、夢みたいな想いが沸いて出たりして、自分が驚いたりする。
 そうか、寂しいんだな、お前は、なんて、内心、慰めてやって、間違っても、窓明かりに惹かれて、見知らぬ人の家の玄関に立つような真似はしない。するわけにもいかない。他人は他人なのだ。勝手に上がるわけにはいかない。その程度の分別は持っている。

 でも、そんなちっぽけな分別の故に、人と接する機会を自ら消し去ってきたのも事実だ。人恋しい。けれど、実際に、万が一、人と声を交わすなんてことになったら、びくついてしまって、ドギマギしてしまって、その場を立ち去り、気が付いてみると、やっぱり人の影を遠巻きにしている自分がいるわけなのだ。

 闇に沈む都会の片隅を、あてどなく、ぼんやり歩いて回る。近頃は交番にお巡りさんもいないので、夜の住宅地を歩いても、誰に見咎められる恐れもない。歩いているうちに、段々、夜の闇という海に自分が呑まれていくような、沈みこんでいくような錯覚が襲ってくることがある。
 のっぺりとした、時にはぺっとりした闇の海は、一旦、人を呑み込み始めたなら、決して口を開けることはない。ひたすら呑み込み続けるのである。

 目の端に映る点々と散在する街の明かりが遠ざかっていく。まるで気が遠くなっていくような感覚を味わう。

 こんなにも沢山の人がいるのに、私を知る人はこの街には誰もいない。そして私が知っている人もいない。こんなミステリーが成り立つのが都会なのだ。部屋の中で痩せ衰えていって、本人さえ気が付かないうちに骨と皮に成り果てても、人は気がつくことがない。孤独には、限りなく優しい。優しさが匕首のように口を開けている、それが都会なのだ。

 私は闇の中を凝視する。闇は夜の闇とは限らない。白い闇もある。蒼い闇だってある。漆黒の闇もあれば、限りなく透明に近いブルーの闇もある。シルクの肌触りにも似たサラサラの闇だってある。変幻する虹の七色の相貌を呈して、厭きることのない闇もある。
 私は、その心の襞を見詰める。一旦、闇の世界に踏み込んでしまったなら、それは目を開けようが開けまいが、何の関係もない。つまり、既に私は、心の裏側世界に迷い込んでいるのである。

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← これも我が家の庭に咲いていた小花(10日撮影)。多分、雑草だと思うけど。名もわからない。

 そう、私は、実は、心の世界を彷徨っているのだ。
 けれど、人に聞いた話とは違い、私の心は寂しい。その中に何もない。ガランドウなのである。音さえもしない、空っぽの次元だ。
 私は懸命に見詰めている。凝視している。何かあるだろう、あるに違いないだろうと、必死で心の架空を凝視している。
 何故、私は心の闇を見詰めているのか。それは、私が現実から逃げたからだ。現実というものを恐れてしまって、見ることも接することも忌避するようになったからだ。気が付いたら、現実が私を圧倒し去っていたからだ。
 私とは、巨岩にへばり付く苔か蛇の抜け殻なのだ。私には平面空間しかない。時間はもとより、立体なるものがない。私は永遠の二次元座標を彷徨う。私は潰れ涸れ果て、乾涸びた内臓。

 だからこそ、懸命に白い巨岩の向こうを想う。もしかしたら巨岩こそが現実かもしれないと思いつつも、できることといったら、巨大な白けた岩の陰の世界を想うことだけなのだ。
 私の心は何処へ行ったのだろう。遠い昔に巨岩に押し潰されて、この世ではない何処かへ、追いやられてしまったに違いない。だから、私は、己の半身である心を追い求めている。恋い慕っている。恋人以上に慕っている。それがない限り、私は現実世界に還ることができない。

 見詰める。凝視する。架空を凝視する。何もない裏側の世界にいて、表の世界を見遣る。
 そう、この世には誰もいない。あるいは無数の人々がいる。ただ、私には見えないのだから(他人には私が見えないのだから)、同じことなのだ。

 私は、虚空に蒸発してしまった心を追いかけている。遠い田圃の藁塚の先の、藍色に煙る山の峰を追いかけている。そう、私は私を追いかけているんだろう。何故ならホントは何も追いかけるものがないのだから。
                        (01/11/25作)

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