松川にて
家にいる気になれず、あてもなく外に飛び出した。
仕事にあぶれている俺。みんな優しくて、労わりの目で俺を見る。それが尚のこと、居たたまれない気分にさせる。年老いた父が畑で草むしりをしていた。その痩せ細った背中が、俺を責めているように感じられてならなかった。手伝えばいい。それだけのこと。でも、俺は逃げるようにその場を立ち去った。
春四月も五日となっていた。
子供や学生たちなら、そろそろ学校が始まる頃か。時折、行き交う零れんばかりの笑顔の女の子たちの様子を見ていると、何となく憂鬱になってくる。
いつの頃からか、春というと、新陳代謝という言葉を思い浮かべてしまうようになっていた。新鮮な細胞がドンドン芽吹き、圧倒するような速さで増殖し成長する。その勢いに押し出されるようにして、俺のような無能な人間は、隅っこへ、枠の外へと追い詰められていく。
土の匂いが鼻を突く。草木はムンとするほどの生命力を溢れさせている。冬の間は姿を見せなかった虫たちが、あちこちで蠢きだす。
なのに、俺の唇は乾き、腰は痛み出し、足取りは重くなる。
気がついたら、何処かの小学校の近くの公園に来ていた。
月曜日の昼間。でも、食事時に近いせいか、人影は少ない。たまに見かけるのは、老人か、さもなければ春休みの子供たち、あるいは子連れの奥さん。俺のような中年男の姿は、まず、いない。
なんとなく居たたまれない。
(日差しがタップリなのに、こんなヨレヨレのコートなど、羽織ってくるんじゃなかった)と思ってみたり。
(なんだか、失業中のうらぶれた男じゃないか…。ああ、そうだった。今の俺は、まさに文字通りの失業男なのだ)。ここには居たくない。といって、何処へ行くアイデアも浮かんでこない。
逢う相手もこの世にはいない。
不意に、ボールか何かが壁にぶつかるような音が聞こえてきた。
そちらに目をやると、テニスボールが飛ぶのが見えた。トレーナーを着た高校生が、駐車場のコンクリート壁に向って壁打ちしている。
遠い昔、俺が小学校の頃だったかに、校庭のプールのブロック塀相手にやっていた遊びを連想させた。遊び相手がいない俺には、壁や塀だけが俺の投げかけに木霊する存在だったのだ。
見ているうちに息苦しくなった。
あれから三十年も経ったのに、俺は結局、同じことをやっている。唯一、違うのは今の壁は目には見えないという点だけ。それだけに、厄介だった。周囲が不可視の壁。
何が悪いのか、自分では分からない。分からないなりに、まともな神経という奴を持ち合わせていないことだけは、直感している。痛いほどに自覚させられている。
公園を立ち去って、さらに行くと、そこには松川があった。
ここだけには来たくなかった。目に眩しいほどに桜が咲き誇っているのだ。そういえば、昨日の夕方、テレビで富山の桜の満開宣言が出た、なんてやっていたのだった。今の俺が一番、似合わない場所じゃないか。なんだって、そんな日に帰省してしまったのだろう。
遠くには、青空を背景に立山連峰が輪郭も鮮やかに輝いていた。
目一杯に雪化粧した山々が深く刻まれる峰々のままに刃のような鋭い影を描いている。純白の巨大な屏風に描かれる切っ先の鋭すぎる水墨画。天気さえよければ、富山の市街地ならどこを歩いても、そんな天然の衝立が見える。
そんな白銀の巨大な屏風が爽快に思えた昔。
今は、俺を囲繞しているように感じられる。俺には、それが苦しくてならない。逃げ場がない。出口なしを如実に現している。
俺を覆い隠す屏風を背に、松川の桜並木の花弁がタップリの陽光に映えて、俺を幻想的な世界へ誘い込もうとする。
そうだ! どうせなら、俺を何処とも知れない世界へ導いていって欲しい。醍醐の花見なんていう気分ではない俺を噎せるほどの生命の横溢する世界へ誘い込んで欲しい。松川の川面に映る青い空の深みに呑み込んでいって欲しい。
橋の欄干から光を千々に照り返す水面を眺めているうちに、何か思いがけない観念の塊が浮かび上がってくるのを感じた。
それは川底から浮かんでくるのか、それとも俺の脳裏の奥底から湧き上がって来るのか分からなかった。
そうだ! あの水底にはあの人がいる。あの人が身を投げた場所なのだ。
俺はあの人に逢いたい。八方塞(はっぽうふさがり)となった俺の唯一の逢瀬の時は今なのだ。俺の心が迷子になったのは、あの日以来のことなのだ。
松川の川面を覗き込んだなら、あるいはあの人が…。
俺は、橋の脇にある石段を駆け降りていった。
すると、偶然、出向間際の遊覧船に遭遇してしまった。船には「滝廉太郎Ⅱ世号」なんて、名づけられている。
まるで、舟に向って俺も乗せてってくれよと、呼びかけるようなタイミングだった。動揺して思わず転んでしまって、草の生い茂る斜面を滑り落ちてしまった。バツが悪かった。滑稽だった。それ以上に、惨めだった。
でも、内心、必死だった。
何かを俺は思い出そうとしていたのだ。反吐にも似た赤黒く溜まったタールの舌先が弱気な俺の心の隙を衝いて頭を水面上に出しかけていた。その何かは、俺にとっては運命の赤い糸にさえ思えていた。
なのに川面は船に波立ち掻き乱され、浮かび上がるはずだった思いの丈も水面下に頭を押し込まれてしまった。
何だ。一体、何なのだ。何をお前は訴えようとしたのだ。どうして何一つ応えてくれないのだ。俺をここに呼んだのはお前なんだろう? だったら!
どれほどの間、佇んでいたのか、辺りには暮色が漂い始めていた。船の影は曲がりくねる土手の陰に消えていた。川面も、もとの穏やかな鏡の落ち着きを取り戻している。元に戻れないのは俺だけだった。
ただ、許してくれ! の一言だけが口を突いて出るのだった。
[原作「松川にて」]
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