煙草に火を点けて
街がやたらと変化していく。
ほんのしばらく足を向けないだけで、気が付くと嘗てはあったはずの木造二階建てのアパートや古びた工場が消え去って、更地か駐車場になっている。
俺は某町の一角にあったアパートを見るのが好きだった。
何十年という歳月を感じさせる朽ちかけた木の塀や壁。きっと開け閉てするとギーという音がするだろうし、びったり閉まることはないだろうという窓。
雨が降ったら、紙の家のように水が染み込み、そう、きっと廊下とか誰かの部屋のベニヤ板の天井には雨漏りの染みの痕が生々しいに違いない。
モルタルの壁の透き間にはウレタンのテープなどが巡らせてあるに違いない。触るとポロポロ剥げ落ちる壁には、麻田奈美のポスターなどが貼ってあったりして。
(奈美の奴、あの顔で、凄い胸だった。)
今度、強い風が吹いたら倒壊するに違いない。
俺はあのアパートを見るのが好きだったのだ。
別に知り合いが住んでいるわけじゃない。
ともかく好きだったのだ。
もしかしたら…
あるいは、俺が遠い昔に住んでいた下宿に似ているからなのかもしれない。
このうらぶれたおっさんが、昔は学生だったことがあるなんて、公園の誰も信じないだろう。
出っ腹の、浮腫み顔の、気弱なおっさん。他の奴等のように痩せさらばえていれば、少しは恰好がつくのに…。
でも、あの頃は走ることが好きだった。好きが昂じて新聞配達だってやった。生活のためというより、走るため、走って汗を流すため。決して、配達コースの途中のどこかのブロック塀の上から女風呂が覗けるという余得のためばかりじゃなかったのだ。
本を読むことだって好きだった。
いや、こっちはちょっと見栄が混じっている。虚勢を張って読んでいたような気がする。周りの皆が読んでいる本を、分かろうがどうしようが、とにかく読み進めていった。
まわりが文学だ哲学だと言っている陰で、俺は密かに詩を読んでいた。
詩を謡った。
でも、周りには誰も詩の好きな奴がいなくて、自分が軟弱な人間なのかと悩んでもいたのだ。
そうだ、昔は目だってよかったのだ。俺の自慢は走ることと目のいいこと。誰よりも遠くの看板の細かな文字を識別できたんだ。
あの人が角を曲がる前にだって、あの人の姿を彷彿とすることだってできた。
けれど、今は見る影もない。
ボロアパートは消え去って、茫漠とした更地が拡がっているだけだ。
俺はガッカリした。俺の唯一の親友だったのに。俺のことを分かってくれるただ一人の心の友だったのに。
俺は、好きだった。大好きだった。なのに…、今は…、声もない。
悄然とした俺は、いつもの公園に向かった。心に火を点けるために。
都会では焚火をすることなど論外だ。秋も深まって寒さが身に沁みる。弱った体には尚のこと、吹きっ晒しの風はきつい。俺をせめているようだ。
(あの日、あの時、俺が好きだと言いそびれたことがそんなにも罪なことだったのか)
この頃は、吸殻だって、めったに落ちてはいない。あってもフィルターだけってのがほとんどだ。路上を方々彷徨って、吸殻を拾い捲って、やっと3本のシケモクが出来た。
これが今日の収穫だ。
まあまあの収穫じゃないか!
大したものだ。
それが今夜の俺の焚火のネタなのだ。
メラメラと燃え上がる炎を見たかった。焚火の火に当たって、心をなどと贅沢は言わない、体だけでも暖めたかったのだ。
でも、都会という奴はそんな願いを踏み躙る。
だから俺は、せめて公園の中の築山の影の木立に埋もれ風を防ぎながら、拾ってきた百円ライターでシケモクに火を点ける。
この数年は、百円ライターさえ、めったに落ちていない。ほんの二三年前には、飲み屋の裏のゴミ箱か駅の灰皿を漁ったら幾つも見つけることができたのに。それも、新品同然の奴を、だ。仲間の間じゃ、鼻高々だ。
だから、今では百円ライターは宝物なのだ。俺は三個も持っているんだ!
ライターの火を、チョロチョロさせてシケモクに火を点ける。スパ、スパ、スパ、と慌しく火を点ける。ライターのガスが減るのが勿体無いのだ。
でも、あまり懸命に息を吸ったりすると、噎せるだけじゃなく(肺の調子が今一つだ)、シケモクが呆気なく燃え尽きてしまう。この兼ね合いが難しいのだ。
漆黒の闇の底を流れる深い河。そこに蛍の火のような灯りが舞い浮かぶ。
あっ! しまった。シケモクの出来が悪くて、空中分解しやがった!
飛び散ったのは火の粉? 違う! 星屑だ。つい握り損ねたシケモクの葉の粉が儚い赤となって闇の海に沈む。
風前の灯火のように煌く。
でも、俺には命の輝きなのだ。あと何日、こんな眩い煌きを堪能することができるだろうか。
星よ、星よ! 煙草の火よ!
嬉しいことに、今日はひもじくはない。フライドポテトを三本も食べたのだ。グルメになったような気分だ。脂肪分の摂り過ぎを心配するほどだ。
しかも今日はシケモクが未だ2つも残っている!
だから、俺は蝋燭の焔よりもっと儚い、けれど、だからこそ切ない煙草の火をゆとりをもって愛でることに集中できるのだ。
煙草の煙が舞い上がって、木立の透き間に差し込む街灯の光を一瞬、浴びる。
紫煙の夢幻に変貌する形。
魂の形。男と女の形。あの人の形。手の届かない夢の形。
俺は自分が今こそ本物の詩人になったような気がする。
詩。
詩は特別なものなんかじゃない。
この世界そのものが詩なのだ。
キンキンに冷えた秋の夜。天には星と月影。地上には俺が息を吐くたびに漂う銀色の湖。そして小さな紫の雲。
そんな贅沢な世界が目の前にあることに気付くのが遅すぎたのだろうか。
そんなことはないのだろう。あの世へ行けば、心行くまで詩を作ることができる。
いや、死の瀬戸際には往生際の悪い俺のことだ、きっと死にたくない! 野垂れ死になんて嫌だ!って喚き散らすに違いない。
天上世界の星屑の奏でる交響楽を、それとも流れ星という弦を張ったハープでセレナーデを奏でることができる。
そこに俺の呻き声というソロが朗々と鳴り響くというわけだ。
翌朝には灰となった俺。
世界は詩だ。俺は世界で唯一の詩人だ。命を代償の司祭だ。
そのことに気付いただけでも、素晴らしいことなんじゃなかろうか。
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