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2008/02/17

水たまり

 久しぶりに夜の町を散歩した。
 いつだったか、いつも通りに気分よく散歩していたら、警察官に誰何され、それ以来、夜中に徘徊するのを躊躇っていた。
 でも、梅雨の束の間の晴れ間で、しかも明日からはまたしばらく空が愚図付くということなので、思い切って外出することにしたのである。
 明日は間違いなく雨模様だという予報。
 けれど、歩いてみても綿のシャツがジトッとすることはない。ゆっくり歩いている分には、汗を気にせずに歩ける。なんだか、それだけで嬉しい。

 梅雨の時期の散歩は、湿気のせいで、体に衣服がベト付き、深夜に特有の尖った刃のような闇を感じないで済む。狂気も霊気も切っ先が錆び付いてしまうのである。
 けれど、今日の空気は乾いている。それだけが俺には気にかかる。

 警察官に呼び止められた方面にはさすがに足は向かない。
 ほぼ反対の方向へダラダラと歩いている。歩くルートが違うと、町の表情も違って見える。
 そのうち、やっと車が擦れ違えるような道幅の舗装された道から、さらに枝分かれした細い道のあることに気が付いた。

 めったに歩かない町だとはいえ、二度や三度はその前を行き過ぎたことはあったはずなのに、どうして気が付かなかったのだろう。
 でも、別に怪しい感じはしない。ちゃんとコンクリート舗装されている。こんな裏の路地までセメントなんかで固めなくてもいいのにと思うような、細い道。

 両脇には小さな民家が密集している。建物の周りは塀で囲まれている。その間は、猫がやっと通れるくらいの透き間しかない。それでも塀が欲しいし、一角には庭が欲しいのだ。
 出窓にはレースのカーテン越しにプランターが垣間見える。出窓のある部屋の奥の部屋からの明かりだろうか、白っぽい光が漂っている。

 さすがに立ち止まるわけにはいかない。警察官でなくても不審者と思われかねない。何が物騒と言って、誰もが誰に対しても不審の念を以って見る、そんな風潮が悲しい。

 自分という人間が、どんなに平凡な人間で、どれほど軟弱な人間なのかを知るのは、結局のところ、自分以外にはいない。町を出歩くのも、ただただ寂しいからに過ぎない。一人であることに堪えられない、そんな弱虫なのだ。

 許されるなら、大声を張り上げて、助けてくれ! とSOSを発したくなる。

 勿論、我慢する。胸のうちの張り裂けそうな悲しみも嘆きもすべて、紙屑を屑篭に棄てるように、夜の闇に棄てる。
 町の灯りがどれほど愛しいものなのか、どれほど切なく感じているかを誰に告げたらいいのだろう。
 それでいて、誰かが傍に近づくと、こっちはこっちで警戒したり、心にもなく邪険に振る舞ったり。こんなはずじゃないのだけれど、と思いつつも、一層、孤立の島へ自分を追いやっていくのだ。

 耳聡い…いや、臆病な俺は、遠くからのハイヒールの足音を聞き逃さない。急いで遠ざかる。存在をその場から消す。何処でもいい、とにかく人影のない場所へ自分を追いやる。

 すると、今度は、目の前を黒い影が行き過ぎた。猫だ! 
 猫の奴は俺より用心深い。俺が人を避ける以上に、猫の奴は俺を避ける。

 猫よ! お前だけは俺を分かってくれたっていいじゃないか。どうして俺を避けるんだ。俺の気持ちを分かる奴がこの世にいるとしたら、それは猫以外に考えられない俺なんだぞ!
 なんだか、妙に向かっ腹が立ってきて、猫が消えたブロック塀に背を向け、ことさらに違う方向に足を向けた……。

 そんなことを繰り返すうちに、本当に見知らぬ町へ迷い込んでしまった。住居表示を読んでも、聞いたことがあるかなという程度である。

 空には疎らな星。月は隠れている。雲に覆われているようだ。微かに月明かりの余韻が夜の底に零れている。夕刻だったか、さっと降った雨でできた水溜りに、月の光の欠片が滲んでいる。気のせいか、赤っぽいような、何処か不気味な色合いである。
 何処か朱色っぽい橙色の光の戯れにしばらく見惚れていた。風もないのに、何故、水面が揺らぐのか、俺には分からなかった。

 次第に俺は、その水の出所が気になり出した。地面にひび割れでもあって、水が溢れ出しているのかもしれない。あるいは、もしかしたら何処かから雨水か排水が流れ込んでいるのかもしれない。

 水の揺らぎの一番、大本になっている辺りを眺めてみた。
 やっぱりアスファルトに亀裂が走っている。巾は数センチほどだが、長さが腕ほどもある。すっかり水浸しである。
 裂け目の底から水がドンドン溢れ出しているのが分かる。

 これが山の中なら、湧水であり、泉であり、コンコンと湧き出す水の様の大好きな俺は、飽かず眺め入ることだろうに。
 町中だから、ただの雨水の道路への漏水であり、明日になれば消え行く意味のない、一夜限りの池に過ぎない。

 だとしたら、俺だけの池なのか! そんな大したものじゃないのは分かりきっている。

 俺は、この湧き出でる水が、たとえば高山の麓の水のように、気の遠くなるほどの歳月を経てようやくこの世の光と再会した水だったら、どんなに素晴らしいことかと思った。その出口を見つけたばっかりの水たちと俺とがたった今、こうして出会っているなんて!

 しかし、夕刻か、せいぜい、昼間に降った雨ではドラマを感じられない。しかも、地べたにだらしなくとぐろを巻いている雨水。

 呆然とちっぽけな水溜りを眺めていると、ふと人の気配を感じた。アスファルトにしがみつき削られるゴムの音。発電機のゴリゴリという音も聞こえてくる。

 自転車を駆るオマワリ?!

 俺は思わず近くの物陰に身を潜めた。
 案の定だった。また、オマワリの奴がやってくる。特に急いでいる様子も伺えない。奴より先に気がついてよかったと思った。冷や汗さえ掻いている。

 不意に、いっそのことお巡りさんに声をかけようか、一瞬、そんな思いが浮かんだ。

――お巡りさん、お喋りしませんか、ボクは淋しいんですよ。

 まさか! 俺はここまで追い詰められているのだろうか……。

 俺は、奴が走り過ぎると、慌ててその場を去った。俺の本音が露見したような気がしたのだ。

 誰にも見咎められることなく、立ち去れるだけでもありがたいと思った。そうだ、それだけでもいいんだ。それだけでも、今の俺にとっては、ありがたいことなのだ。
 夜の散歩も、もう、できなくなるに違いない。
 もう、何処にも俺の居場所はないのだから。


旧題:「夏 の 予 感

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