ふでおろし
我が家の伝統で、息子の筆下ろし(ふでおろし)には父と母が立ち会うことになっている。
それは、水ぬるむ5月の初めだった。
祭日の朝、いつもより早く、突然、母が真面目な顔をしてボクを起こしにきた。
――父の書斎に来られ。
そこでは父が、座卓に向かい何か書き物をしている。
父は大切な人には、わざわざ硯で墨を磨り、毛筆の手紙を書いて送るのである。手紙の隅には、顔彩で山里の風景やら田園風景やら、あるいは庭の雑草などを軽く描き添える。
我が父ながら、なんとも息を飲む見事さだ。鼻には墨の香りがツンと来て、なんとも心地いい。
その間、ボクは坐って待たされる。
でも、父の手際に見惚れているから退屈はしない。いつかはボクだって父のようになりたい。母もボクの斜め後ろで父が用件を終えるのを黙って見守っている。
日頃、カカア殿下の我が家でも、書斎では父が断固、上席なのである。口を挟ませない。この四畳半の限られた空間だけが父の天下なのだ。
やがて、用件を片付けた父が、語り始めた。
その表情は、いつもと違う。
その強張(こわば)ったような、でも、気のせいか、にやけたくなるのを懸命に抑えているような複雑な表情も伺えて、ボクは一層、緊張する。
やはり、ただ事ではないようだ。
――お前も、もう、そろそろ覚えてもいい頃だ。聞き及んでいるかもしれないが、我が家の伝統で、初めての時は、両親の立会いのもとで行うことになっている。最初が肝腎だからな。今日が、その日だ。庭先に準備万端整えてある。今日は快晴だ。青空の下、心行くまでやってもらうぞ。
ボクはついにこの日が来たということに当惑したけれど、喜びも湧いてくる。大人になるんだ。我が家の成人式なのだ。ふでおろしの日なのだ。
ふでおろしといっても、何も書道を習い始めるというわけではない。
そう、言うなれば、大地の上でのふでおろしをするのだ。
開け放たれた縁側の向こうには、ボクの猟場が横たわっている。
暖かな日差しに獲物は、ボクの緊張を知らぬげに、のんびりゆったり寛いでいるようだ。どこか、媚びるような笑みさえ浮かべているようにも思える。大人の女のようだ。いや、どんな女(ひと)だって、ボクにはみんな大人の女(ひと)に見えたんだけど。
あの女(ひと)をボクが今から……。
ああ、そんなことをしていいものだろうか。
人がそんな振る舞いをして許されるんだろうか。
でも、その一歩を越さないと男の子は男になれない。一家の大黒柱にはなれないのだ。ボクは勇気を振り絞った。拳を力一杯握っていた。耐え切れるだろうか。最後までやり通せるだろうか。
でも、ボクは負けないぞ!
父も母も、すっかり身支度をしている。汚れても構わない恰好をする。終わる頃には汗まみれになるはずなのだ。
――ここには他に誰もいない。お前は、最初から裸になれ。途中で脱ぐのは結構、面倒なものだからな。
ボクは何となく恥ずかしい。風呂とかは父や母と入ることもあるし、その時は真っ裸っだけど、でも、外なのだ。お天道様が見てらっしゃるんだ。父や、まして母は裸じゃない。その両親らの前で裸になるなんて。
でも、獲物を前にしては、否応もないのである。
五月の風はまだ裸の体にはひんやりする。
ボクの獲物は、陽光をタップリ浴びている。
全てを世界に晒している。その豊かな肢体を誇るかのように大地に横たわっているのだ。そうだ、神聖な儀式なのだ。神代の昔から伝わる聖なる営みなのだ。
母は黙ってボクを促した。
――最初は何も分からないかもしれないけど、でも、いいの。みんな初めての時は失敗するのよ。恥ずかしがることはないの。相手は大人よ。思いっきり飛び込んできなさい。
思いっきり!
ああ、ついにこの日が、ボクが大人になる日が来たのだ。
次第に父や母の視線も気にならなくなってきた。
もう、眼前に広がるのはボクには無限の海原とも思われるような肥沃な大地だった。
恐る恐る一歩を踏み出してみた。
ぬぽ!
豊穣の海はすっかり濡れている。
そうだ。父はボクがやりやすいようにお膳立てしてくれていた。
ボクが起きない間に、熟練した腕と体ですっかり濡れさせてくれていたのだ。
大地の底から泉のように生暖かな液体が湧く。
ボクは滑るように走っていけばいい。
欲望の赴くままに、父と母の寝室の隣りで妄想を逞しくしていたように、今こそ、渾身の力を篭めて大地と戯れるのだ。
相手はボクなど軽く飲み干すような巨体だ。じゃじゃ馬だ。大人の笑みを浮かべている。
何の遠慮もいらないと父母が言ったじゃないか。
でも、やっぱり初めての体験は難しい。
ほんの数歩も足を踏み入れないうちにボクは粗相をしてしまった。
何処か訳の分からない場所を抉ってしまったようで、濡れていた大地が一気に乾燥してしまったのようだった。愛する大地は、一瞬、凪のように静まり返ったような気がした。
大地も空もボクのドジを嘲っているに違いない。
ボクは萎えていた。
恐る恐る振り返ると、母は微笑ましいとばかりにいつもの笑みを浮かべているだけ。
父は、ボクの視線を受け流している。
そして、「やっぱり、いきなり体当たりじゃ無理か…」と独り言を呟いて、納屋の中から何か妖しげな道具を持ち出してきた。
ボクは、(それは何?)と尋ねたかったけれど、喉がカラカラで言葉が出ない。
父はその道具のスイッチを入れる。
すると、その道具は勢いよく回転し始めるのだった。
(まさか、そんな道具を使うの? 大丈夫なの?)と問い詰めたかったけれど、舌が渇きでまるで動かない。
――見てろ、こんなふうにやるんだ!
そう言って、父は潤いの失せた女体に道具を突っ込んだ。
遠慮も配慮も何もなかった。グイグイと一物を突っ込んでいく。抉(えぐ)るように擦(こす)るように、こじ開けるように捻(ひね)るように。
大地は身を捩っていた。悦びのあまりなのか、あまりの苦痛に顔を顰めているのか、ボクには判断が付かなかった。
(そんなひどいことを!)
でも、ボクは、すっかり父の手際に魅了されていた。
やがて大地はまた濡れてくる。ジュクジュクと生ぬるい液が溢れ返り、荒地だった大地が水の漲り満ちる沃野と化した。
麦藁帽子を被っているけれど、父の顔は真っ赤だ。
ボクの体も火照っている。日に焼けてもう真っ赤になってるに違いない。
大きな赤鬼。小さな赤鬼。
父は一切、手加減などしないのだった。
大地を掘り起こし、表を裏にし、裏を表にし、縦のものを横にし、横のものを縦にして、ありとあらゆる姿態を眼前に繰り広げさせるのだった。モーターの音が鳴り響いていた。大地の喘ぎ声を駆り立てていた。喉の奥、腹の底からの叫びがあった。
歓喜の叫び、雄叫び、阿鼻叫喚とはこのことなのだ。
父と母の寝所から夜毎聞こえる歓声の正体はこれだったのだ!
(ああ、とうさん、もう、よしなよ。可哀想じゃないか。あんなに悲鳴を上げてるじゃないか。優しくしてやりなよ。許してやりなよ。あとはボクがやるよ。ボクにもやらせてよ! ボクがやるんだよ!)
依然としてボクは声が出ない。こんなふうにして大地を押し倒すのか。これがボクが夢にまで見た、あれなのか。
今日は指導するだけで、余裕のはずの父さえ、途中で一枚一枚脱いでいって、仕舞いにはステテコ一丁になってしまっていた。
ボクはたまらなくなった。もう、恥も外聞もなかった。真っ赤な情熱が迸っていた。血が沸騰していた。ボクがやる。だって、今日はボクのふでおろしの日なんだろ?!
あの、のた打ち回る女体はボクのためにあるんじゃないか!
ボクは、でも、父のようには道具に頼らなかった。真っ裸の体で、体当たりだ!
今度は男の意地でやるのだ!
ボクは精魂篭めてやり続けた。
やっているうちに何をやっているのか自分でも分からなくなったりした。汗にまみれ、容赦のない陽光を浴び、剥き出しの足を絡め、腕を突っ込み、掻き回し、あるいは思い出したように嘗めるが如く優しく撫ぜ回し、猫の額ほども触れ忘れることのないよう、思い残すことのないよう、頑張り通した。皺のどんな一本をも見逃さずに引き伸ばし、その裏筋を愛撫した。窪みの底をまさぐった。ボクの汗と情熱を最後の一滴まで大地に降り注いだ。
ボクは男の名誉を保てたと思う。父も母もそのことは認めたと思う。
やがて日が落ち始めた。戦いが終わった。女体は満足げに横たわっている。
一日にしてボクは大人の男になったのだ。豊穣なる大地を従順なる子猫へと飼い馴らし終えたのだ。
こうして、田起こし代(しろ)かきは終わった。ボクは耕運機などを使わずにやり遂げたのだ。
さあ、明日からはいよいよ田植えだ!
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