« 蝋燭の命 | トップページ | 誰かが見ていた »

2008/01/03

初夢

 オレは戸惑っていた。
 女はいきなりオレの家にやってきて、絵のモデルになると言い張るのだ。
 女はとんでもない勘違いをしているに違いない。

 勘違いの発端は、吹く風に夏も終わりに近付いていることを予感させる或る日、近所のカフェでのこと。

 週日の午後で、客はオレだけ。前の日も画集を見ながらヌード画を描いていた。

 我ながら上出来だったこともあり、つい、誰かに見てもらいたくなり、店が暇そうな時間帯を狙って、近所のカフェへ繰り出した。
 案の定、暇そうな主人は、グラスなどを白い布で拭っている。
 要するに何もすることがないのだ。

 チャンスだ。
 カウンター席に座り、オレは徐(おもむろ)にデザイン帳をカウンターに置いた。
 主人はオレの何気なさそうな表情に隠された…あからさまなサインを見逃すはずがない。

 昨日もヌード、画いてたの?

 ん? まあね。主人だけはオレの画業を知っている。

 で、どう?

 どうって? いつものやつ。

 いつものやつね。で、いいの、画けた?

 いや、なかなかね。

 そう言いつつ、オレは早く見せたくてたまらない。
 早くしないと誰か客が来る。

 人に見てもらいたいけれど、赤の他人には、ちょっと辛い。そこまでの自信はない。 
 主人なら、まあ、適当にお愛想の言葉をまぶしつつ、オレの自尊心を擽ってくれる。
 客商売している奴の分かりきったおべっかだと重々分かっているが、オレには他に見てもらえる人が思い浮かばないのだ。

 あいつは……。あいつはダメだ。シビアー過ぎる。オレの絵どころか、才能のなさを仮借なく指摘する。それにもう会えないし。

 能のないのはもう分かっているのだ。それでも、好きなものは止められない。
 慰撫の言に過ぎなくても、今のオレには描く楽しみしかない。
 しかも、人物画。

 いや、ヌードだ。
 切っ掛けは、あいつだった。
 あいつのヌードを描きそびれたことだった。
 
 カフェの自動ドアが開く気配で、苦い回想が断ち切られた。
 まだ、主人に見てもらっていないうちに、誰か客が来てしまった。
 ガッカリした。
 オレは画集をカウンターから脇の椅子に移そうと手を伸ばした。

 すると、主人は、客の注文を聞いたあと、ああ、それ、見せてくださいよと言うのだった。
 オレはためらった。主人に見せるのはいい。それが目的で来たようなものだし。

 チラッと客の様子を窺う。
 すると、白い麦藁帽子を被った客はカウンターではなく、窓際の席に座ってくれた。

 オレは安心してデザイン帳を主人の手に渡した。主人はココアを出してくれる。まるで絵とココアと交換するみたいだ。
 オレは何故か胸騒ぎしていた。絵を見られてしまうときはいつもなのだけれど。
 
 パラパラと捲り、最後の頁で手が止まった。
 おおー、いいじゃない。腕、あげたね!

 いや、それほどでも…。
 そう言いつつも、主人の言にマジなものを嗅ぎ取ろうとする。本気で褒めていてくれたなら…。
 
 主人、持ち上げるの、上手いからなー。

 いやあ、そんなことないよ。
 この数ヶ月、めきめき腕あげてるよ。絵の専門家じゃないけど、絵、見るの好きだからね。

 そう言いながら店内の壁を見やる。主人の好みで買い求めたらしい絵画が幾つか掲げてある。いずれも未だ名前の知られていない若手の作品。
 主人の目の確かさは、壁の絵を見るだけでも判る。絵に力がある。ああいう絵を選ぶってことだけでもオレは妙に安心してしまう。

 それにしても、オレは少しでも腕をあげたのだろうか。
 最近…。
 最近って言っていたっけ。

 あいつと別れてからだろうか。あいつと暮らしていた頃は、今以上に描くことに懸命だったはずだ。
 あいつがモデルになってくれていたし。

 けれど、絵が甘いことに自分でも気づかないわけにいかなかった。
 絵ではなく女を見ている…というわけでもなかった。

 ねえ、わたしのハダカ、描かない? 
 いつだったか、女にそう言われても、オレは着衣の奈美にこだわっていた。
 着衣の皺の流れや繊維の質感を描きたいんだと言い張っていた。

 けれど、手の平から砂の零れ落ちるように、情熱が空回りしていた。
 奈美の肩越しに窓に垂らした幕の白さが眩しかった。

 愛想尽かしして、やがて奈美は去っていった。
 才能のなさに辟易してなのか、オトコとしてのオレに三行半を突きつけたのか、オレには今も分からない。

 主人がオレの絵をジッと見ていた。女の客に珈琲を持っていってからも、またノートを手にする。
 そんな姿は見たことがなかった。
 大概、せいぜい数十秒も眺める…ふりをして、さりげなくノートを返したものだ。

 そのときだった。背後に気配を感じた。
 いつの間にか女の客が席を立ってカウンター席へやってきたのだ。

 オレなど無視するように、黙って絵を覗き込む。

 ヌード画を見られる!

 オレは頭を上げられなかった。ただ、ほのかに漂い来る、どこか懐かしいような女の体臭を嗅いでいた。

 が、女は黙って見入っているばかりだった。
 
 そのうち、ポツリ、いいわね、この絵。優しい。タッチがいい。肉感が描けてるわ。

 オレはドキッとした。あの声。あの喋り方。

 そのあと、どういう話になったかは覚えていない。ただ、女が最後に、わたし、モデルにして! と言ったことだけは覚えている。
 オレは曖昧な返事を…。いや、返事などしなかった。できなかった。顔さえ上げられなかったのだ。

 同じことを繰り返しそうなのが怖かったのかもしれない。

 今のオレにモデルを前にして描く技量など持ち合わせていない。
 いざ、本物の肉体を前にしたら、一気に現実に目覚めてしまう。美術学校時代もデッサンには散々劣等感を味合わされた。肉体が描けない。女が描けない。
 出来上がったものは、まるで塗り絵だった。ラインを適当に引いて、白い空間に濃淡を適度に施していく…。
 これじゃ、石膏のモデルを描いているのと同じじゃないか!
 そうだ、女は勘違いしている。オレには本物のヌードを描く力量なんて持ち合わせていないんだ。

 でも、本当は臆病なだけなのかもしれない…。

 画学生時代、初めて脱ぐ女を前にしての衝撃を思い出していた。黒い紙が教室の窓にしっかり張られていて、外から中は窺い知ることはできない。
 妖しい雰囲気が漂ってきていた。教室から熱気があふれ出していた。教室の大半の奴はヌードのデッサンは初めてだったはずだから、当然だったろう。
 オレはモデルを正面からではなく、何故か背後から描きたかった。そのほうが易しいからか、それとも真正面からは向き合う気構えがなかったからか。
 モデルを眺めるオレの目線をモデルに見られたくなかったのかもしれない。

 けれど、不思議とモデルの背後に席を取るやつが多く、オレはモデルのほぼ真正面左側に立つ羽目になった。そこしか空いていなかったのだが…。
 
 オレは鉛筆の芯を削っていた。油絵も水彩画も版画もそれなりに好きだが、オレの一番好きな画法は鉛筆。それも色鉛筆を使うことはまず、ない。最終的な仕上げの段階で、色鉛筆で淡く着色することがあるが、モデルを前にする時はひたすら鉛筆を使う。喉がカラカラになっていた。

 モデルの女は台の上に立って、何処ともなく眺めていた。
 やがて、先生が「始めるぞ!」と言う。そしてモデルに「お願いします」と一言。

 モデルの女は、バスローブのような分厚い上っ張りをサッと脱ぎ捨てた。
 捨てたんじゃなく、脇の椅子の背にそっと載せたのかもしれないけれど、オレは覚えていない。

 真っ裸だった。その気になれば隅から炭まで眺められる。足の指の爪がピカピカだった。

 オレは、目が泳ぎそうになるのを必死に堪えていた。石膏像と何処が違う! と自分に言い聞かせたり、解剖学の授業で習った骨格や筋肉の構造を思い浮かべようとした。
 石膏像にヘソなんてあったっけ。そんな間抜けな疑問が浮んだりした。
 
 でも、見えるものは女だった。呆気に取られていた。人前でそんな恰好を晒していいものかと妙な心配をしていた。
 なんと堂々としているんだろう。
 女は平気な表情を浮かべていただけだろうが、オレには教室の生徒たちを睥睨しているようにも思えた。
 どうしてそんなに平気で居られるのか。毛穴も何もかもが衆人環視のもとなのに。

 そのうち、先生が、みんな何、ボケッとしている。始めないか!

 そう叱咤されないと、オレは、オレたちはみんなずっと口をあんぐりしているばかりだったかもしれない。

 十分か二十分ごとに休憩が入る。モデルはローブらしきものを羽織って、椅子に腰掛けている。時折、先生と談笑している。
 そうだ、あれはワインカラーのローブだった。

 モデルの休憩中、オレは間が持てずに、鉛筆を削っていた。手元の絵を見ていても上の空だった。
 そのうち、先生が、鉛筆、そんなに削ると、芯がなくなるぞっと言った。
 みんな、ドッと笑った…。

 美術学校時代の懐かしい一齣だ。


 オレはあの日、デザイン帳を手に、悄然として帰ったのを覚えているばかりだ。

 とうとう、その劣等感と屈辱感に耐え切れず、何ヶ月かして学校を去ってフリーター生活をはじめてしまった。その後、知り合いの紹介でサラリーマンになった。オレは絵を捨てた。

 いや、絵は捨てられなかった。絵描きになることを諦めただけなのだ。
 
 何の能もない人間。出世など論外だった。オレにあるのは絵を描くことだけ。その絵だって、人には見せられるようなものじゃない。オレの絵を見たことがあるのは、あいつと、あとはカフェの主人くらいのものだ。
 絵を描く。他人には認められなくてもオレは絵描き。
 
 そんな生活を十年以上も続けると、絵はオレの言い訳にしかなっていないことは自分でも分かる。世間に背を向けるための口実にしかなっていない。
 画布に向っているのではなく、世間から逃げている。画布は逃避の場所。

 だから、あいつにも逃げられてしまった…のだろう…か。
 一度も奈美を抱けなかったから…。

 オレは女が怖いのだろうか。


 あの日…。幾つものあの日。
 美術学校をやめた日、オレの部屋を奈美が去った日、カフェでの女の申し出を無視した日。

 オレには人は描けないのだ!

 その女が突然、やってきたのだ。
 あの夏の終わりの日からもう四ヶ月が経とうとしている。

 女の口紅の色が妙にエロチックだった。
 あの頃とはまるで違う女になっている。
 いや、違う女なのだ。奈美なんかじゃない!

 でも、口紅の色は少しも違っていない…。変ったのはオレなのかもしれない。


 オレは女をモデルにしたいから部屋に招じ入れたのではなかったのかもしれない。
 ただ、女の存在感に圧倒されていた。女が欲しかった。


 今、シュルシュルと着衣を脱ぐ気配がする。
 オレは慌てて窓のカーテンを下ろし、更に大きな布を天井から吊り下げていた。目隠しというわけだ。
 
 この部屋ではヌードは初めてなのだ。なのに、妙に落ち着いている。
 もしかしたら気持ちは雲の上で現実感が失われているのかもしれなかった。

 女は、薄い生地のワンピースの下には白いペチコート一枚。下着は身につけていなかった。脱いだ服はデッキチェアーの上に置く。しどけなく折れ曲がり重なり合う布地の戯れるようなラインが美しい。
 
 オレは内心、ビビッて居た。カフェの主人はオレの腕が上がったという。どう見てもただの愛想とは思えない。
 それもこの数ヶ月、めきめき上達したというのだ。
 この数ヶ月…。あいつが去った数ヶ月ではないか。
 モデルが居なくなって、オレは高名な画家の画集を目にしつつ描いた。
 でも、一番、試みたのは想像の中の女だった。
 それはあいつ…、奈美だったのだろうか。

 ヌードを描きながらも、意識的に顔は想像しないようにしていた。体だけ。トルソーだけ。
 いや、顔も描くのだが、顔は誰か高名な画家の描いた顔に似せるようにしていた。無難だから、かもしれない。奈美の顔が浮んだ途端、筆が萎えていくように思えるのが忌々しかった。
 オレには女をモノに出来ないって言うのか!
 
 今、女はオレの目の前に立っていた。
 なんて堂々としているのだろう。着衣の奈美もそうだったっけ。

 卓袱台の上にビロードの布を掛けて、それが即席のお立ち台だ。

 モデルの経験を積んだのだろうか。それも、ヌードモデルの。

 でも、それだったら、モデル料の話になるはずだ。
 が、女は、カネは要らないという。
 ただ、描いて欲しいと言う。
 カフェで見た絵に惚れたのって、言うだけなのだ。
 
 オレたちはこの期に及んでもきちんと向き合うことができずにいた。
 いや、オレが向き合えないで居たのだ。

 オレはもう何も考えないことにした。世事の煩わしさなど絵には無縁だ。

 そう思いつつも脳裏には訳の分からない妄念が渦巻いてしまう。
 それはオレには押し留めようがない。オレは観念という名の迷路に逃げ込んでいた。
 
 鑑賞するとは、一体、どういうことか。眺めていること? 離れて、それとも間近から? 手にとってその手触りを確かめること? 陶芸作品や彫刻作品などなら、そんなこともありえようが――実際には、触って楽しむことを許してくれるような展覧会など極めて稀。目の不自由な方向けとか、子供向けにたまにそんな機会があったりする。思うに、大人だって、触りたい!――まずは一定の距離を保って眺めることになる。
 無論、その作品と眺める我々との距離感の問題、作品が要求する距離感といったものはある。

 絵画作品を間近でマジマジと細部を観察するのも時には大事だったりするが、画家は、描きながら、画架の上の作成途上の作品を、時折、距離を置いて全体像や構図の具合などを眺めて確かめる。
 ほとんど常に、乃至は圧倒的な時間、作品の間近にあることが叶うのは、画家とコレクターと、きっとモデルだけの特権なのである。

 鑑賞するとは、一体、どういうことか。作品を眺めることか、作品と一体になることか、作品に触発される想像の世界に没入することか。
 では、描くために眺めるのは鑑賞する姿勢とどう違う。完成品を眺めるのが鑑賞で、完成途上の作品を仕上げるために眺めるのとは自ずから違う?
 愚だ。

 けれど、我々、否、少なくともオレは、眺めるだけで飽き足りることなど、ありえないような気がする。
 うら若き美しい女性を見て、ただ眺めて楽しめ、などと言われても、ヌード撮影や鑑賞会をやっているのならともかく、大概は、手に取り足に取り、ためつすがめつし、そのうち、わけの分からぬ衝動に駆られたり、駆られさせてやろうなどと不遜な、止めどない思いに駆られ、距離感をどう、などという品のいい姿勢などそっちのけ、くんずほぐれつになったりする。
 だからこそ、オレは何が何でも描き手になりかたったのだ。
 じゃ、どうして奈美と暮らしていた頃は、ただ、バカみたいに鑑賞ばかりしていたんだろう。
 そうだ、あの頃、オレは奈美を眺めていただけなんだ。着衣の奈美って気取って表現していたけど、オンナとしての奈美に向き合うことができなかった。

 絵画など、芸術作品だけは、鑑賞の対象であるべき、というのも、不思議といえば不思議である。絵画作品が額に収められてこそ、作品として完結する(ほぼ全ての作品がそうだ)というのも、馬子にも衣装という知恵もあるのだろうが、同時に、絵画作品に特権的な地位を与えたいという画家(それとも画商なのか)の知恵と戦略があるのだろう。
 美女(美男でもいい)を目の前にして、額の中の美女(美男)で我慢しろ、というのは酷な話である。額縁ショーではないのだ。
 距離感の錯綜。距離感の喪失。距離感への嫌悪。距離を置くことへの忌避の念。
 そうだ、奈美がそこに居る。そこに居るのは奈美なのだ。
 
 絵画(に限定しなくてもいいのだが)作品において、その距離感への嫌悪や忌避の念そのものがテーマとなったら、どうか。
 オレの理解では、絵には常に皮膚感というものがある。
 鑑賞家という存在には、まさにその現実との接触感、あるいは現実との接して漏らしえない微妙な不全感と不能感、絶望感を常に伴っているような気がする。

 メデューサ。眺めるものを石に変えてしまう、数知れない蛇となって蠢く美神。誓いを破る者への死の報い。

 鑑賞などといった、やわな言葉が美術や絵画の世界に使われるようになったのは、いつのことなのか。きっと、絵画作品が美術館に収められ一般大衆に、これみよがしに展覧させるようになってからではないか。見てもいい、しかし、触れては成らない。触れていいのは選ばれた者のみ。

 選ばれたものは、美女(美男)と一夜を共にする特権を得たものは、鑑賞に止まるはずがない。
 美を手中にした…かのような幻想に囚われた者は、美を眺める。
 眺める、観るとは、触ること。絡むこと。一体にならんとすること。我が意志のもとに睥睨しさること。美に奉仕すること。美の、せめてその肌に、いやもっと生々しく皮膚に触れること。撫でること、嘗めること、弄ること、弄ぶこと、弄ばれること、その一切なのだ。
 ああ、奈美!

 やがて、眺める特権を享受したものは、見ることは死を意味することを知る。観るとは眼差しで触れること、観るとは、肉体で、皮膚で触れ合うこと、観るとは、一体になることの不可能性の自覚。絶望という名の無力感という悦楽の園に迷い込むことと思い知る。
 触れ傷付けてさえ、最後の最後まで認識しかできないことを思い知らされる。

 描くとは変貌止まない命という名の肉体を永遠という名の結晶と化すこと。
 命を透明な時空に封じ込めること。

 観るを見る、触る、いじる、思う、想像する、思惟する、そして疑念の渦に飲み込まれること、その一切なのだとして、見ることは、アリ地獄のような、砂地獄のような境を彷徨うことを示す。
 砂地獄では、絶えず砂の微粒子と接している。接することを望まなくても、微粒子は、それとも美粒子我が身に、そう、耳の穴に、鼻の穴に、口の中に、目の中に、臍の穴に、局部の穴に、やがては、皮膚という皮膚の毛根や汗腺にまで浸入してくる。浸透する。

 美の海に窒息してしまうのだ。

 天と地とを結びつなぐ穴を経巡ることだ。そうだろ? 奈美!

 窒息による絶命をほんの束の間でも先延ばしするには、どうするか。
 そう、中には性懲りもなく皮膚の底に潜り込もうとする奴がいる。ドアの向こうに何かが隠れているに違いない。皮膚を引き剥がしたなら、腹を引き裂いたなら、裂いた腹の中に手を突っ込んだなら、腸(はらわた)の捩れた肺腑に塗れたなら、そこに得も言えぬ至悦の園があるかのように、ドアをどこまでも開きつづける。決して終わることのない不毛な営為。
 違う。大切なことは二人で際限のない荒野の果てを目指していくことだ。誰かが言っていた…闇夜の国から 二人、船を漕ぎ出すんだ!

 何ゆえ、決して終わることのない不毛な営為なのものか。仮に、ドアを開けた其処に目にするのは、鏡張りの部屋であり壁なのだとしても、奈美と一緒なら。

 それは、どんなに見ることを欲し、得ることに執心し、美と一体になる恍惚感を渇望しても、最後の最後に現れるのは、われわれの行く手を遮るものがあるからだ。何が遮るのか。言うまでもなく、自分である。観る事に執したとしても、結局は、自分という人間の精神それとも肉体のちっぽけさという現実を決して逃れ得ないことに気づかされてしまう。
 ちっぽけな肉体の他愛もない戯れ。それでいい。それで十分じゃないか。

 焦がれる思いで眺め触り一体化を計っても、そこにはオレが居る。自分の顔がある。自分の感性が立ち憚る。
 観るとは、自分の限界を思い知らされることなのだ。
 でも、だからこそ、奈美が見えてくる。

 奈美の飛沫を浴びて泳ぐんだ!

 つまりは、観るとは、鏡を覗き込んでいることに他ならない、そのことに気づかされてしまうのである。
 だからこそ、美を見るものは石に成り果てる。魂の喉がカラカラになるほどに美に餓える。やがてオアシスとてない砂漠に倒れ付す。血も心も、情も肉も、涸れ果て、渇き切り、ミイラになり、砂か埃となってしまう。
 でも、それでいいじゃないか。へとへとになって、二人してミイラになって、二人して見果てぬ夢を追えば、それでいいはずじゃないか。
 
 何度も描く手は中断した。その度に奈美と重なっていた。その度に観念が喘ぐのだった。
 そうして何度目の営みの最中だったろうか。ゴーンという音が響いてきた。
 除夜の鐘だった。

 年が明ける。埒(らち)も開いた。
 
 今、オレたちは夢の中に居る。
 初夢という名の夢を、二人、泳ぎ渡っているのだ。

|

« 蝋燭の命 | トップページ | 誰かが見ていた »

心と体」カテゴリの記事

文化・芸術」カテゴリの記事

恋愛」カテゴリの記事

小説(オレもの)」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 初夢:

« 蝋燭の命 | トップページ | 誰かが見ていた »