犬とコロッケ
あれはいつもと同じように一人で学校から帰る途中での出来事だった。
あの頃の俺は、みんながそれぞれ友達と帰るのが羨ましかった。いつかは俺だってと思っても、結局は一人ぼっちで帰る羽目になってしまう。
みんな連れ立って一体、何処へ行くんだろうか。
単に帰る方向が一緒だから、すぐそこまで一緒になるだけなのだろうか。それとも、何処かに秘密の面白い場所があって、ワクワクする思いでそこへ向かうのだろうか。
だから顔があんなにもにこやかなのだろうか。
俺には何も分からなかった。
落ち零れの俺は、成績のいい、先生に目を掛けられている連中の仲間には到底入るわけには行かなかった。
そうした奴らは、何だかもう人生の行方が明確になっているようで、とてもじゃないけれど足が追いつかない。
といって赤点付近でうろうろしている連中にも、どうにも馴染めない。
そうした奴らには奴らなりの目に見えないけれど濃密な空間があるようで、俺はどうしてもはじき出されてしまうのだ。
結局、落ち零れグループの仲間入りというわけだ。
俺は、一人になるのが嫌で、誰も友達が居ないと思われるのが怖くて、そうした悪ガキグループの尻馬に乗っていたのだった。
大人になって、ああいうのを金魚のフンだとか下駄の雪とか言うのだと分かって、思い出すたびに赤面する。
でも、そんな自分を心底可哀想に思ったりする。
だって、そんなガキ連の中でも俺は仲間と見做されていなかったのだから。
ただ、奴らは優しかった。誰にも相手にされない寂しさをみんな体験しつくしていた。だから、俺が恥ずかしげに、でも、必死になって奴らの行くところ行くところを追い掛け回しても、邪険にすることはなかった。
ま、取り巻きが一人増えたくらいのものだったのだろう。金魚のフンがちょっと長くなっただけだ…。
が、それも終業のチャイムが鳴るまでのことだった。
一斉に教室を出、それぞれに目的の、それとも約束の場所に急いで向かっていく。その勢いに乗っかるようにして俺も慌ててランドセルに教科書とかノートとか消しゴムとかを詰め込んで、学校をあとにしたものだった。
俺は、みんなに負けないように懸命に駆けて校門を通り抜けた。
それというのも、みんなのように、「バイバーイ」と呼びかけ合う相手がいないからだ。
普通に歩いていると、友達がいないことがバレルからだ。
一歩、校庭を出ると、誰もが他人だ。見知らぬ人ばかりだ。見知らぬ人とは、俺が眼前に居ない限りは、その脳裏に俺のことが欠片も浮かばない人間のことだ。
俺も、せめて誰かに「さよなら!」と声を掛けてもらいたいけれど、そんな相手が居ないことは自分が一番よく知っている。
そう、だから、小さく、「バーイ」と呟いて、返事の声が聞こえないうちに、学校を遠ざかるんだ。
その日も同じだった。走って走って、ようやく誰一人の姿も見えなくなって、やっと俺はのんびり歩き出した。
その足取りは結構、しっかりしている。
それというのも、その頃、実は俺に行く当てができたのだ。
それは学校の裏通りを更に一歩、奥に入った商店街にある。
ほとんど違う小学校の縄張りになりかけの通りにお目当ての場所があった。俺は、その商店街のある惣菜屋でコロッケの買い食いをするのが習慣になっていたのである。
ほとんど自宅とは方角が反対に近い。
でも、その方向に行けば一番早く学校の連中の姿を見なくて済むようになるものだから、そちらに向かうのがいつしか習慣になっていたのだ。
もっとも当時は揚げたてのコロッケを食べたい一心だと思っていたのだと思うけれど。
そう、コロッケ!
コロッケは必ず二つ買う。
一つ目を食べ終わる頃には、町外れの土手に辿り付く。
そしてまだ温かみの残る二つ目のコロッケを土手の斜面に腰掛けて、ゆっくり賞味するというわけである。
俺の大好きな時間だった。
目の前を大きな川が流れている。近くにはガラス窓が壊れ放題の古びた工場があった。昔は木材の加工場だったとか聴いたことがあった。
上流は川下りなどの観光地となっている。けれど、木造モルタルのこの工場辺りまで来ると、途中のセメント工場とか住宅街の排水で巨大なドブ川に成り果てている。
ガキの頃の俺だって川に足を付けようなどと一度たりとも思ったことはない。
中州で時折、釣りをしている姿を見かけることがあるが、魚など釣れるんだろうか、釣れたとして魚をどうするのだろう? まさか食べる?!
俺には想像を絶するように思えた。
コロッケは冷めないうちに食べる。そうしないと川のドブ臭が勝ってしまって、さすがの俺も食欲が減退するのだ。
かの川は汚かった。
けれど、川幅はガキの俺にはだだっ広くて、対岸の向こうの小高い連山に夕日が落ちると、川面が赤く照り映えて泣きたいくらいに美しいのだった。
夕日はゆっくり沈んでいく。真っ赤な太陽が、最初はほんの少し山の天辺に触れるかどうかだったのが、次第にまん丸が欠けていって、やがてそれこそ線香花火の消え際の火の玉のように頼りなく歪んでいく。
そして完全に山の向こうに姿を没するのだけれど、連山の上の空は暮れ行く濃い青に抵抗するかのようにいつまでも赤く燃え続けるのだった。
まるで、名残を惜しむかのように。
そう、あの日は、残暑の厳しさもようやく和らぎ始めたことだった。
あの日も俺は夕日の沈む光景を楽しむつもりで、コンクリートで護岸された河原の縁に立っていた。二つ目のコロッケを何処で食べるか、場所を探していた。
なぜだか覚えていないが、いつもの場所は座れなかったらしいのだ。
そのときだった。土手に生い茂る藪の中から野良犬が現れた。
別に狂犬という険しい雰囲気は感じなかった。
むしろ、人間で言えば、人の目をやたらと気にする気の弱そうな成犬だった。秋田犬というのか、それとも柴犬というのか、そういった風の雑種で、体毛が薄茶色の、しかし毛が相当に白っぽくなって老いの徴候の露な痩せ犬だった。
犬はこちらの様子を伺うように、俺に向かって真っ直ぐにではなく、やや右方向に斜めに、ついで左方向に斜めにという具合に近づいてきて、とうとうほとんど俺の眼下といっていいほど近くに来てしまった。
痩せて背中に骨が浮いて見えて、餓えているのはガキの俺にも分かった。
どうしようか、コロッケをやってしまおうか。
でも、コロッケをやったら犬は俺のあとを追いかけてくるに違いない。
我が家は昔、俺が保育所に通っていた頃、飼っていた犬がネコイラズを食って死んで以来、犬はご法度になっていた。
俺は父が本当は犬が嫌いなことに気づいていた。ネコイラズを食わせたのも実は父のせいじゃないかと疑っていた。家族の意見に押し切られて飼ったはいいが、毎日、顔を合わせるのはうんざり、というわけだったに違いない。
俺も犬は遠くで見ているだけなら、物凄く好きなのだ。
でも、飼うとなると臆してしまう。一軒家なのだし、お袋だって犬好きなのだから、俺がお願いすれば、飼うことを許可してくれるに違いなかった。
俺は一度だって飼いたいと願ったことはなかった。
俺は犬が好きだ。だけど、それでいて犬を虐めてしまいそうで俺は犬を飼うのが怖かったのだ。
もしかしたら父のように俺も犬をさも、事故が避けがたいような状況、自分には責任がない格好にしてのことだが、犬を虐待してしまうような気がしてならなかった。
もしかしたらじゃなくて、きっと、そう、俺は犬を責め抜くような気がする…。
そんな自分がうとましかった。
餌をやる振りをしてやらなかったりする。
家族のものには、やった振りをする。そのうち犬が痩せてきたら、病気なのかなと、惚(とぼ)けてしまう。あるいは水を碌にやらなかったり、散歩に連れて行っても、何処かに繋いだまま知らん顔をしたり。
今から思えば俺には犬以外に虐める相手がいなかったのかもしれない。やり場のない鬱憤が溜まっていた。犬がダメなら、何処かの猫か、鳩か、虫けらを責め苛むんだ。
俺は相変わらず野良犬を前に立ち竦んでいた。
どうしたらいいのか分からずに居た。コロッケを遠くに放り出して、犬がそのコロッケを食いに走っている間に逃げてしまえばいい。コロッケさえなくなれば、俺にはほかに食べ物などないことなど、犬は匂いで分かるだろうし。
それでいて、犬を連れて帰りたい気持ちもあるのだった。
犬を虐めるかもしれないというのは、俺の考えすぎで、飼えばちゃんと世話ができるかもしれないではないか。犬と俺とは結構、仲良くやっていけるかもしれないではないか。
何をそんなに怖がっていたのだろうか。
犬を飼ったら、一人ぼっちじゃなく、町中を連れ立って歩けるじゃないか…。
俺は立ち尽くしていた。
すっかり冷え切ったコロッケをどう始末したらいいのか決心が付かなかった。
犬は吼えもせず、ただ、散々虐められてきて怯えきったような、でも、餌の魅力には勝てないような、そして俺が最後にはコロッケを与えるだろうと高をくくっているような、俺にはどうにも判断の付かない表情を示したまま、じっと俺を、いや、手のコロッケを見つめていた。
犬の哀れそうな目が嫌でたまらなかった。俺と同じ目をしているじゃないか…。
あの目から逃げたい!
どうしたいいのだろう?
悲しいことに、そのあと俺がどうしたのか、まるで覚えていないのだ。
でも、俺が今、こんな人間であるということは、やっぱりコロッケを放り出して、後も見ずに逃げ出してしまったのだろう…。
(03/01/05作)
[ 本稿は、5年ほど前に作ったもの。「誰かが見ていた」の姉妹編(番外編)としても読めそうなので、併せて読むと面白いだろうと思い、ブログにアップしました。アップに際し、若干、手直し。 (08/01/23 付記)]
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