ふでおろし
我が家の伝統で、息子の筆下ろし(ふでおろし)には父と母が立ち会うことになっている。
それは、水ぬるむ5月の初めだった。
祭日の朝、いつもより早く、突然、母が真面目な顔をしてボクを起こしにきた。
――父の書斎に来られ。
そこでは父が、座卓に向かい何か書き物をしている。
父は大切な人には、わざわざ硯で墨を磨り、毛筆の手紙を書いて送るのである。手紙の隅には、顔彩で山里の風景やら田園風景やら、あるいは庭の雑草などを軽く描き添える。
我が父ながら、なんとも息を飲む見事さだ。鼻には墨の香りがツンと来て、なんとも心地いい。
その間、ボクは坐って待たされる。
でも、父の手際に見惚れているから退屈はしない。いつかはボクだって父のようになりたい。母もボクの斜め後ろで父が用件を終えるのを黙って見守っている。
日頃、カカア殿下の我が家でも、書斎では父が断固、上席なのである。口を挟ませない。この四畳半の限られた空間だけが父の天下なのだ。
やがて、用件を片付けた父が、語り始めた。
その表情は、いつもと違う。
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