メモランダム(その1)
それはいつものような夜だった。
いや、昼だったかもしれない。
そんなことはどちらでもいい。頭の中はいつだって真っ暗。でも、空っぽ。目の前は白けた光景。だけど何も見えない。
だったら、どっちだって同じことじゃないか。
何処をどう歩いていたのか。そもそも何処の塒(ねぐら)から飛び出してきたものか、さっぱり覚えちゃいない。
でも、何処かの安宿ってわけじゃなかったはずだ。出るときにカネを払った記憶はないし。
あるいは後から誰か追いかけてくるかもしれない。

→ 月よ! お前までオレを裏切るのか?
それならそれでいい。
きっと、会話が弾むに違いない。
人間、何か一つくらいは楽しみがなくっちゃ。
一つくらいは、行く当てがないとやりきれないって誰か言っていたような気がする。
それとも、何かで読んだのか。
薄っぺらな野郎だから、誰彼の言葉も紙切れの上を這う記号の海も区別がつかない。
月のない闇の空に雲の形を追うようなものだ。
ああ、何一つ覚えちゃいない。
アルツハイマーの病に犯されているわけじゃないのに、何もかもが、記憶の欠けらさえもがこの手の平から零れ落ちていく。
しがみつきたいのに、そんな相手など誰もいない。電信柱なんて犬の縄張りだし、軒下には野良猫がいる。
じゃ、野良犬のようなオレの居場所は何処にある?
オレにはこの世界は豊か過ぎる。
壁。
でも、押せば引いていく、手応えのない壁。
せめて頭からゴンゴンやったら血の一滴も流させてくれ。
めんたまから火花の一閃も呉れてやったらどうだ。それさえも惜しいか。
砂のような海の水。足を浸すと乾いた砂粒が俺の脚を埋めていく。
砂の男?
よせやい!
オレに恥を掻かせる気か?
手応え。歯応え。手触り。差し障り。
こうなったら触りまくってやる。
何をって?
つまらない質問だ。
能面に決まってる。
のっぺらぼうの奴の顔だ。体だよ。
オレはあいつに甘えていた。ずっと甘えていた。ずっと甘えていたいと思っていた。
でも、叶うはずがない。分かっちゃいたんだ。
分かっちゃいても、餌が欲しさに舞い戻ってしまう。
強がり言って、何処かへと飛び出しても、のこのこ戻ってくるって分かっていても、飛び出してみせる。
そのほうが燃える?
違う。あるのはカビの生えたブロック塀だ。雨風に腐った板壁だ。開けるとギーギー鳴る窓枠だ。向こう側が透けて見えない、白癬菌の窓だ。罅割れたガラスの鋭角の透き間からだけ、ちらっと空が見える。
曇天の空。真っ白な横顔。
すっかり涸れ果てて、眩しいほどに艶々な骨格。肉は何処へ消えた。蒸発したのか。それともオレが削いだからか。愛しすぎたからか。愛撫って、ああいうものじゃないのか。
溺れきって、そして溺れる悦びの最中にお前の首を絞める。
それがお前の望みだったんだろう。
あれから…。
いや、よそう。あれから、なんて言葉に意味はない。それからもない。誰も行き過ぎる人などいない。いるのは見知らぬ人の影。影の影。その影を愛惜する未練ったらしいオレ。
怖かった…なんて口が裂けてもいえなかった。
オレが呑み込まれるんじゃないかって恐怖に怯えていただなんて言えるはずがなかった。
屹立するそれはオレなんかじゃない。それは大地だ。オレの中の他人だ。
そうだ、お前は他人を欲していたのに違いない。
嫉妬していたのかもしれない。
オレはここにいるって叫びたかったのかもしれない。
なのにお前は。お前って奴は、勘違いしやがって、めんたまが真っ白なオレを情け容赦もなく。
だからオレはお前を。
お前の肌に触れるとき、ガキの頃に読んだか、それとも、観た場面が脳裏を過(よ)ぎってしまう。
あれは絵本の中の、それこそ絵空事だったのか。何処かの男が女の股座に蜂蜜を塗って、塗りたくって、そうして犬に女のそこを舐めさせていた。
映画の場面? 絵本? ガキの頃の夢。近所のあいつらの仕業?
女は悦びにのたうっていた。でも、縛られていて、身動きがならない。手首の縄が腕に食い込み擦れて血が滲み、滴ってくる。
女は喚いていた。泣いているのか笑っているのか、悲鳴を上げているのか、ただの肉と骨の擦れる音なのか、訳が分からなかった。
犬は男のほうを振り向く。催促している。
男は、よしよしと、蜂蜜をたっぷり垂らす。
そうしてまた、犬は無心になって、舐め続ける。
おんなのめんたまは真っ黒から真っ赤に変わり、いつしか真っ白になっていった。
血と蜂蜜とが混ざった焼け焦げた飴色の池からは、やがて白く輝く骨格が浮びあがってきた。
唾液は蜂蜜代わりだったのに違いない。
オレは肉が削ぎ落とされるような気がした。快感はきっとオレを騙す罠なのだ。
この世にこんな極楽があるはずがない。
要するにオレはちっぽけな奴だったんだ。
だから、オレは今度はお前を押し倒して復讐してやった。同じことをしてやっただけなのだ。ナイフを使って嘗め回してやったんだ。
気がつくと、そこには白き宝石の連なり。
あっ、眩しい。
月だ。月影だ。
月光がオレの仕儀を浮びあがらせやがる。
月よ! お前までオレを裏切るのか?
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