自明性の喪失
[以下は、小生の手になる書評エッセイ(からの抜粋)である。途中からはもうまるで書評でもなければ感想文でもなく、無手勝流の想像が闇の時空を舞い狂っている!]
が、小生は、そんな用語などすっ飛ばして、もっと直感的に、さらに言えば、共感を以って『自明性の喪失』を読んでいた。否、その中の患者の症例に身につまされるものを実感していたのだ。
観念連合の弛緩といい、現実との生ける接触の喪失といい、あるいは自明性の喪失という曖昧な、しかし他に表現の方法のないある心の事態。
現代においては、精神医学が発達して、かなりの精神的な病が投薬などで治療ないし対処されることが多いらしい。また、精神的な疾患などというものは、所詮は脳の先天的な異常か、いずれにしろ脳内の不具合に帰着するに違いないと見なされている。
癲癇にしろ、病には違いないのだろうし、その発作がなんらかの肉体的異常(それがたまたま脳内の部位に局在しているだけのこと)の精神的な発露・爆発なのだろうと言われれば、それはそうなのだろうと、一応は認めるしかない。
ここで気になるのは、肉体的異常の結果、では、その人がどのように振る舞うか、あるいは場合によっては精神的所産を為すのかどうかは、全く理論的には整合的に説明できないだろうという点である。
肉体的異常(一応、ここでは、脳内の異常に限定しておくが)があったからといって、ひたすら精神的に打ちのめされ、打ちひしがれ、圧倒され、精神的な闘争に疲労困憊し、困窮し、心が枯渇し、それこそ、草木の一本も生えない荒涼たる、寒々とした光景ばかりがあからさまとなるケースもある。
が、逆に、癲癇で言えば、ドストエフスキーのように、爆発的な創造力を示すこともある。
癲癇(などの精神的な病)を抱えることと、精神的な荒廃、あるいはその位相的には逆にあるかのような創造性とは、決して直結しない。心の病を抱えている、だから、心が荒廃した、とも説明できるし、心の病を抱えている、だから、彼はその病を活かして彼特有の世界を探究し表現したとも、そのどちらとも、言える。
心の異常と結果(精神の荒廃あるいは創造性)との間に、ギリギリのところでの当人の負けを承知の、結果において打ちのめされることは、火を見るより明らかな、不利な戦いの真っ只中において、それでも、我を打ちのめし、あるいは押し流し、何処へとも知れない闇の海の底の土砂の堆積に埋められていくことは重々分かっていても、それでも、精神の疾風怒濤の中に手を差し出し、あるいは剥き出しの我が身を、我が心を差し出してまで、不可思議そのものである精神の闇の中にほんの一筋の光明を見出そうとする、それとも、百万ボルトの高圧電流が全身を射抜いて、一瞬にして肉体が炭になり灰になり、塵になる、その最後の最後の擦過傷としての精神的所産、否、もう単なる摩擦熱、摩擦の際に生じる熱が身を焼き焦がすその焔、ただそれだけを求めて、ことさらに精神の荒廃の砂漠へ乗り出していく…、そんな稀な試みをする人もいる。
そこには、圧倒するわけの分からない、掴み所のない、闇雲な、どうしようもない、ひたすらに数万気圧の圧力に平伏すしかない物質的な精神の宇宙がある。自分という存在が仮初にもあったとしても、気が付いた時には、圧力に踏み潰され、ペラペラの存在になってしまっている。自分に厚みも温みもこの世界との和解の予感の欠片も失われている、そんな無力な我がある。
いや、その<我>など、あるはずがないのかもしれない。あるのは、息も絶え絶えの呻き声だけ。自分でさえ、その呻く声がはるかに遠い。
それでも、何かしら、アルキメデスの梃子のように、奔騰する闇の洪水の最中にあってでさえ、手を差し出せれるならば、それはそれで我の自覚であり、我の存在の予感ではありえる。
それが、もし、そもそも、その手を差し出す前提としての、心の身体が欠如していたとしたら。差し出そうとすると、その力が反作用として働き、自らの身体(心)を砂地獄に埋め沈めていく。砂の海に溺れることを恐怖して、ただ悲鳴の代わりに手を足を悪足掻きさせてみたところが、その足掻きがまた、我が身をさらに深い砂の海の底深くへ引っ張り込まさせる結果になる。
私とは、私が古ぼけた障子紙であることの自覚。私とは、裏返った袋。私とは、本音の吐き出され失われた胃の腑。私とは、存在の欠如。私とは、映る何者もない鏡。私とは、情のない悲しみ。私とは、波間に顔を出すことのないビニール袋。
そして、やがて、あるのは、のっぺらぼうのお面、球体の内側に張られた鏡、透明な闇、際限なく見通せる海、気の遠くなる無音、分け隔てのある孤立、終わりのない落下、流れ落ちるばかりの滝、プヨプヨな空間、風雨に晒された壁紙、古ぼけたガラスの傷、声にならない悲鳴。
言葉になるはずのない表現の試み。
以前、「文章を綴れるのは、憂鬱から歓喜も含めての感情が途切れることなく渦巻いているから。文章を綴るとは、その起伏をなぞることなのかもしれない」などと書いた事がある。
よくよく考えてみたら、後段の「文章を綴るとは、その起伏をなぞることなのかもしれない」という点は、ともかく、前段は、ちょっと違うのかもしれないと思えてきた。文章を綴るというのは、そこにどうしようもない空白、底なしの沼、真空領域、ブラックホールがあって、そのホールに呑み込まれないための悪足掻きなのかもしれない。
ただ、せめて思うのは、だからといって、単純に素直にあざとい、えげつない世界を描き示すのではなく、自分の中の僅かな力を振り絞ってでも、読んでくれる人には共感されるような世界へと、加工していきたいということ。
その加工と修飾(間違っても浄化とか昇華なんて言わない)こそが、せめてもの、やがて呑み込まれゆくに違いないブラックホールへの抵抗の証になると思うから。
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