涸れない女
奴はオレを急かす。
確かめなくていいのかって言われると、オレだって引き下がれない。
でも、一体、どうして奴が彼女のことを知っているのか。
記憶をどう辿っても、奴に彼女のことを喋ったことなどないのだ。
というか、オレは誰にも彼女のことは喋っていない。
親友の誰も知らないはずなのだ。
→ 「2005 VOLVO C70(屋根開)」 (画像は、「クーペカブリオレ - Wikipedia」より)
そんなオレの戸惑いなど知ってか知らないのか、奴はドンドン先へ急ぐ。
とある町の一角。人通りが多い。
いた! 彼女だ。あの日の彼女だ。
あの日のままじゃないか!
彼女は当惑している。
もう逃げられないと観念しているようだ。
黙ってオレたちを促す。
ここじゃ、ゆっくり喋れないもの……。
わたしたち、毎日、出会ってるわよね…。
これは彼女の言葉だったのだろうか。
…毎日、出会ってる?
彼女がいると、それだけで世界が一変する。世界が違う色に染まる。なんてことない日常を過ごしていたオレが厳粛って言葉を使いたくなるような気分になる。
オレと彼女が世界の中心にいる。周りの何も見えなくなっている。ただの光景…いや、背景になっている。
彼女とはもう十年以上も会っていない。
よく見ると、すっかり大人の女になっていた。
あの頃のままだってのは、オレの錯覚だったのだろうか。
大人どころか、見知らぬ都会で身も心もボロボロになっているのだった。
彼女の目の表情が死んでいる。
わたしは、もう、あの日のわたしじゃないの…。
オレのせいなのか。
オレがお前を捨てたからなのか。
あの日、お前の懇願を無下(むげ)に振り切ったからか。
あの頃はオレも若かった、なんて言い訳にもならないよな。
オレはお前と真正面から向き合えなかった。こんなオレを好く女がいるなんて信じられなかった。
ああ、それもウソだ。オレは嬉しかったはずだ。初めて好いた女に惚れられて嬉しかったはずだ。
ただ…、オレは…、若すぎて…、お前を受けとめられなかった。
だって、お前は、あまりに違う世界の女に見えた。
自分でわたしは女じゃないのって、お前、マジに言っていたよな。
あれって、どういう意味だったんだ。
若いオレには全く理解できなかった。
お前はどう見たっていい女じゃないか。制服のお前、薄手のコートを羽織ったお前、暮らすの男たちと談笑するお前。笑顔が素敵だったじゃないか。
その何処が変なんだ。デートに誘って、山道を歩いた時、カンカン照りだったのが急に雨が降り出して、どうしたもんだろって思ったら、お前、ショルダーからピンクの折笠を取り出したよな。
ショッキングピンくの小さな傘。
その蛍光色のようなピンクの傘にオレたち二人。
そう、二人だけの世界だった。傘が小さいから、お前の方に差しかけたら、Yさん、濡れてるじゃないって、お前が言った。
オレは、ためらいながらも、お前の肩を抱き寄せて、小さな傘の中に一つの影となって…。
口付け一つ、できなかった…。
オレはお前の中に固い何かを感じていた。石ころのような、凝り固まった何か。
それは冷え切った心だったと今にして思う。
何がお前をそうさせたんだ?
そうして高校を卒業する時を迎えた。
お前は地元に残り、オレは大学のある遠い町へ旅立った。
お前は、手紙を出してもいいって聞いてくれた。
でも、オレは黙っているばかり。
オレの無言はあいつには別れのしるしに思えたのだろう。
ああ、あの時、オレの郷里には遠く離れた町に住むjオレたちの愛の往復書簡を夢見ていた、胸が弾んでいたなんて、今頃になって言えるはずがないよな。
入学して数ヶ月。オレがキャンパスを歩いていたら、背後に女の気配。
オレは、直感した。あの雰囲気はお前だと。
けれど、オレはお前に背を向けたまま、足早に歩き去った。
そうして、約束の誰かに会いに行った…。
それからもう、十年以上になる。
どうしてお前に背を向けたままだったのか。ちょっと振り返ることくらいはできなかったのか。
悔やまれてならなかった。オレはキャンパス生活をエンジョイしていた? 今更、お前になど姿を現してもらいたくなかった?
あの、高校時代の、胸弾むはずが何故か会うたび、沈鬱な空気が流れるばかりの、デートとは名ばかりの時を再現したくなかった。
オレは、あいつの真実を何も知らなかった。お前は何も喋ってくれなかったものな。
いや、若かったオレは、彼女の胸のうちを聞こうとしつつも、何処か怯えていたような気がする。真相を知るのが怖かったような気がする。
オレの沈黙が彼女の告白を妨げていた。自分を変えようとしていた彼女の前向きの姿勢さえ、押さえつけていたような気がする。
その真実が今、分かる。
オレは奴に伴われ、あいつのあとを付いて行った。
段々、人気のない場末に向っていく。
気が付くと、長く工事が中断したままの、ロープで立ち入りを禁止された一角の前に立っていた。
こんな都会のど真ん中なのに、場末?
考える余裕などなかった。
地下鉄の入り口のような、崩れたコンクリートの構造物があった。
彼女は、さっさと中に入っていく。瓦礫が足元を危うくしている。
何度も足を運んだ、嘗て知ったる場所なのだと足取りで分かる。
あいつには夜の商売をしているという雰囲気があった。すっかり身を持ち崩して、体を売る商売をしているのだ。
まさか、それもオレのせいってわけがないよな。
オレの胸裏に忌まわしい思いが湧き上がって来た。
あいつはこの、まともな奴なら立ち入らないような場所で商売しているのだ。
もしかしてオレも出来るかもしれない。高校時代の遂げられなかった思いを果たせるかもしれない。
今更、話なんて論外だ。やっちゃうしかない。そのほうが話が早い…。
もしかしてお前も、体を売っていれば、いつかはオレに会えると思っていた?
彼女と会わない十年以上の時はオレをもすっかり変えていた。昔のなけなしの夢など見る影もなく凋んでいた。
今のオレには女はやる相手か、他人かのどちらかでしかなかった。
そしてやった女も、生きるとは擦れ違いに過ぎないってことを殊更に実感するだけの、所詮は他人だった。
今のオレなら、バカな沈黙に恐れをなすことはない。壁のような頑なな心も蕩ける肉の悦楽に敵いはしない。四の五の言わせず、とにかく交わる。絡まる。そして互いの孤独を思い知る。孤独より懶惰(らんだ)な生活に堕すのが人間らしいと思い知らせてやる!
愚かな男の身勝手な感傷と思惑に浸っていたら、あいつは、あっという間に姿が消えてしまった。
まずい。ここで彼女を手放したら、今度は本当にもう会えない!
オレたちは慌てて彼女を追った。
階段下のフロアーから見知らぬ男女が出てきた。一組…二組…。余所者が入り込んで、邪魔されたってことか。
あいつの姿が見えない。
すると、上のほうからエンジンの音が響いてきた。彼女が乗っている。
そう直感した。急いで階段を駆け上がる。
彼女の乗った車が雑踏へ消えていく。
一瞬、垣間見た車は、VOLVOのクーペタイプのカブリオレだった。
オレは奴の乗ってきたボルボに駆け込む。
だけど、もう、彼女の車は影も形もないのだった。
その瞬間だった。大学生の頃、キャンパスで彼女にオレの居場所を教えたのは奴だと気付いた。
奴の差し金であいつがのこのこ遠い町のキャンパスへやってきたのだ。
オレに会いに?
オレは、学生の頃、もう、高校時代の純心を無くしかけていた。いや、純な心があるという幻想を失いかけていたのだ。
違う。きっと、やっぱりあの頃もオレは臆病な男に過ぎなかったのだ。お前に真正面から向き合う勇気がなかったのだ。だから、今、女とは体の付き合いしかできないクズに成り下がっている。心なんて厄介なものはオレには邪魔だ。面倒だ。そして怖いのだ。
その日の夜。オレは悶々と過ごした。眠ったような、濃すぎたカフェインのせいで眠れない、そんな半端な長い夜を過ごした。
そして、オレは夢で目覚めた。
夢にはあいつが出てきた。姿形は高校時代の夏に一度、見かけた夏服のあいつだった。肩や胸が開いたヒマワリ柄の白地のワンピース。
眩しくて、とても真正面からは見れないほど白く輝いていたあいつ。
だけど、髪は染めているにも関わらず干からびているのは歴然としていた。男なら蓬髪(ほうはつ)と呼ばれかねない髪を焦げ茶色のリボンで纏めて辛うじてワンレン風に見せかけていた。
顔も皺だらけだった。肌も生気を失っていた。
目もアイラインを濃く引いて若作りしているけれど、六十の齢を過ぎているのは明らかだった。
痩せ細っていて、下手するとミイラのようにさえ見えた。
しかも、ドレスの裾が短くて、細い棒っきれのような足が露わだった。
そんな若作りしたミイラ女が女学生を気取って街中を堂々と歩いているのだ。
街中の通りで擦れ違うたび、オレは目を背けた。正面からなんて見れるはずがなかった。
彼女はオレの視線を捉えようと、化粧とダイエットで懸命にオレにアピールしている。それが分かるだけに、オレは意地でも目を背けるのだった。
いつもは、早朝、徹夜仕事を終えて帰宅の途に付いている道の途中で遭遇する。
その女がとうとう夢の中にまで現われたのだ。
わたしは、あなたのおんな。
まるでそう云ってるようだった。
もう、あなたは逃げられないの。わたしの手の中に居るのよ。
わたしは永遠に涸れない女。だって、とっくに干からびていたんだから…。
わたしたち、毎日、出会ってるわよね…。
そうか、あれはお前の言葉だったのか!
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