夕焼け雲
ずっと昔、ずっとずっと昔のこと。
おれがボクだった頃のこと。
ボクにはお兄ちゃんがいた。頼りになる近所のお兄ちゃんだ。ボクがいじめられていると、助けてくれる。
でも、二人っきりだったりすると、時々、ボクをいじめるので、そんな時はボクはお兄ちゃんをオニちゃんと声に出さないで呼んでいた。
ある日、何処かの町をボクはお兄ちゃんと歩いていた。
はっきり覚えていないのだけど、縁日へ行く途中だったような気がする。
一人ぼっちで庭先でしょんぼりしているボクを見かねてお兄ちゃんがボクを連れ出してくれた…ような。
お兄ちゃんは縁日は隣の町でやっているという。
隣の町!
ボクには遠い遠い、山の向こうとも思える。そんな見知らぬ町へ行くなんて、ボクには大冒険だ。
夏の日差しはようやく和らいでいた。砂利道も照り返しでまぶしいってことはない。運河に掛かる橋の上から遠くの真っ青な空も段々運河の水面の濃紺に負けそうになっていた。
← 真っ青な空。空の青以上に紺碧の運河の水面。
どういう話の流れだったのか、夕焼けの話になった。
それが段々と、夕焼けと朝焼けの違いの話に変わっていったような気がする。
その疑問はお兄ちゃんが口にしたはずだった。…でも、記憶が曖昧だ。もしかしたらボクが兄ちゃんに訊いたのかもしれない。
夕焼けの空と、朝焼けの空を、写真で見た時、その写真の光景だけで見分けることができるかどうか。
思い出した! 前の晩、ボクの姉ちゃんがボクにそんな話をしたのだった。
お兄ちゃんはできると言った。
ボクは仕方なくできないよって言った。
ホントはボクができるって言うつもりだった。だって、姉ちゃんはできないって言っていた。だから、お兄ちゃんにはできないと言ってもらって、できると言い張るボクをたしなめてもらうつもりでいたのだ。
そしてお兄ちゃんはボクのこと、ダメだな、なんて言って可愛がってくれる…はずだったのに…。
見分けるなんて、出来ないよね、ボクは申し訳なさそうに小さく言うしかなかった。
できない? できるさ。お前、夕焼けや朝焼けをあんまり見たことがないんだろう。
そんなこと言われても、ボクは困るだけだった。夕焼けはボクだって、何度となく見たことがある。
でも、朝焼けはどうだろう。朝寝坊ってわけじゃないけど、朝焼けが出ている頃は、寝床の中のはずだ。
ボクは懸命に朝焼けと夕焼けの光景を思い浮かべようとした。でも、似たような空の感じがぼんやり浮かぶだけだった。
どうにも困ってしまって、苦し紛れに、「空の方角が違う」って言ったら、お兄ちゃんにフン! と言われてお終いだった。
写真だけって言ってたじゃないか! それも見知らぬ土地の夕焼け写真なんだろ?
ボクは見知らぬ土地、とお兄ちゃんに言われただけで訳もなくビビッてしまっていた。
見知らぬ土地の空なんて、見たことがないんだから、なーんにも分るはずないよ。
そう、言い切ることができたらすっきりするんだろうけど、ボクにそんなことが言えるはずがなかった。
→ 夕焼け空 (画像は、「夕焼け - Wikipedia」より)
お前、今度、夕焼けとか朝焼けを見ることがあったら、空の様子をジッと見てみろ。
ジッと?
そうさ、ジッとだ。するとな、白い雲が真っ赤に染まった、その後ろに何かが見えるはずだ。
何か? 何かって?
何かだ! 見りゃ、分るって。 あのな、夕焼けの空にゃ、後ろに風の神様がいるんだ。
風の神様?
風神さ。
フウジン?
そう、風の神と書いて風神だ。ほら、夕焼け雲をよく見ろよ。あれは風神様の衣(ころも)だ。風に吹かれてなびく白い着物なのさ。
えっ、あれは雲じゃなくて、白い着物なの?
そうさ、神様の神々しい衣装ってわけさ。その衣装が赤く染まるんだ。
何が染めるの?
何が染める? お前、トンチンカンな質問をするんじゃないよ。太陽に決まってるじゃないか。
太陽が染めてる…。でも、日中のほうが太陽、カンカン、照ってるんだから、昼間のほうが神様の白い服も赤いんじゃないの?
ボクの疑問がお兄ちゃんを怒らせたみたいだった。
お前のへ理屈にも呆れるよ。 分かった、お前、夕焼けと朝焼けを写真だけ見て区別する仕方が分からないものだから、話を逸らそうとしてるんだろ。ずるいぞ!
あのな、昼間は暑いから風神様も休んでるんだ。空にはな、水神様に雷神様もいるんだぞ!
ずるいって…、そんな。ごめんなさい。
そっか、風神様だって、真昼間は辛いよね。じゃ、夏の空の白い雲は…、きっと、風神様が脱いだ白い着物を干しているんだね。(赤くならないのが不思議だけど…。)
ボク、分からないや。……そうだ、朝焼けの雲は、フウジン様もまだ朝で元気だから、きっと雲も、その、白い着物も真新しいに違いないよ。パリッとしてさ。
で、夕方になると、空を飛び回って疲れているから、着物もシワが寄ったり、汚れたりして…、そうだ、分かった。白い着物が新しいのが朝で、夕方のは多分、よれよれなんだよ、きっと。ほら、雲、千切れそうだし。
朝焼けの雲はあまり見たことがないので、ボクは自信がなかった。もう、当てずっぽうだった。破れかぶれだ。どうにでもなるがいいんだ!
この答えはお兄ちゃんをもっと驚かせたみたいだった。そんな答えがまさかこのボクから返ってくるとはお兄ちゃんは想像もしなかったに違いない。
段々、話が予想外の方向に流れてしまって、お兄ちゃんはダンマリを決め込んでしまった。お兄ちゃんが頭に来ている証拠だ。このままだと縁日にも行くのをやめるって言い出しかねない。仮に行っても、いつだったかみたいにボクを置き去りにするかもしれない。
← 暮れなずむ空に怪しい色と形の雲が。風神様か。
その時だった。二人の背後でビューという音がした。振り向くと、空に一本の鋭い剣(つるぎ)のような形の雲が飛んでいた。妖しい色が不気味だった。
あれは!
あれが…もしかして…、風神様?
そうだ、風神様だ。どうだ、風神様はやっぱり居るだろう!
うん、居るんだね。凄いね。お兄ちゃんの言った通りだ。
さあ、縁日に急ごう。
お兄ちゃんは鼻高々という表情をしていた。
平気を装うお兄ちゃんの足がブルブル震えていたのをボクは見逃さなかった。
でも、ボクは見て見ぬふりだ。
縁日へ行くのがフイになっちゃ、困るもの!
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