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2007/08/19

誕生日に寄せて

 以下は、物語でも虚構作品でもありません。数年前、ある人の誕生日に寄せて書いた、やや感傷的なエッセイです。既に公表済み。
 ただ、エッセイと言いつつ、一読すれば分るように、薄っすらと虚構の隠し味があったりする。
 
 つい先日、ある方が誕生日を迎えられたので、遠くからの囁きめいたメッセージとして贈ろうかと思ったけど、メッセージとしては長過ぎるし、ある意味、誰彼へというより自分に向けてという気味が紛々と漂ってくるようで、ちょっと気後れして、気がついたら誕生日を数日も過ぎてしまった。

「原題:誕生日…人が生きるということ

 私は今、何を書く当てもなく、こうして画面に向かっている。
 が、画面に向かっていると言いつつ、私の気持ちとしては今日、生まれた人のことを思って心を整えようとしている。
 その人の気持ちになって、生きることを考えてみたいと思っている…。

 人が生まれるというのは、どういうことなのだろう。それこそ、動物などが生まれるというのとは、明らかに違うような気がする。別に人間様が動物より上だとか、優れているということではなく、暦の中に自分の生まれた日を見出す時、誰しも一入の感慨を抱くということ、ただ、そのことを思うのである。
 思うに、植物の類いは誕生日を持つのだろうか。今日、生まれたの、なんて、感じるのだろうか。種が開花をした日が、誕生日に当たるのか。でも、植物自身は恐らくは何も感じないでいるのだろう。ただ、咲き、ただ、生い茂っているのだろう、きっと。

 動物には、人間様と同様、生まれた日はある。さすがにこの世に、おぎゃーとは生まれてこないが、でも、出産という母体からの分かれの日が確かにある。母体からの別れではあるが、しかし、母との対面の日でもあるわけで、その日を境に、一個の個体として生き始める。
 けれど、動物は暦を知らない。一年の区切りなど知らない。動物をペットとして飼う人間が、勝手に思い入れをして、今日はこの子が生まれた日よ、なんて、何か御祝いめいたことをすることがあるだけだ。
 それでも、動物は、我関せずで、今日も昨日と同様に生きる。今という瞬間の中に、ご主人様との会話や戯れの時を愉しむ。明日は知らないし、昨日も知らない。今日という日も、きっと知らないのだろう。今、生きていることに目一杯なのだ。

 そんな中で、人間は、全ての人間はとまで勝手に言うわけにはいかないかもしれないが、大抵の人間は暦を気にする。昨日を引き摺っている。昨日どころか記憶にしか残らない遠い過去をも引き摺っている。今日というのは、昨日までの過去と明日、あるいはもっと先の未来との狭間に生きている。
 今日は過去の清算の日だったり、明日のための準備の日だったり、なければいいような日だったり、否、むしろなかったほうが遥かにマシな日だったりさえ、する。

 今日は特別な日なのだ。何しろ、私が生まれた日なのだから。
 が、今日という一日は、私の感懐とは関係なく、いつものように淡々と、あるいは慌しく過ぎていく。それは、世界中の無数の人々が、私とは関係なく、私を欠片さえも意識することなく、私の傍を、あるいは私から遠い世界を通り過ぎていくようなものだ。
 私は、今日、生まれた。今日という日は、特別。何かが違うはずの日。
 でも、遠く離れてしまったはずの、絆を疾っくの昔に断ち切ったはずの誰かが、不意に私を思い出し、私に「誕生日、おめでとう、あなたに逢いたかったよ」なんて言ってくれることを期待するような特別な日。
 いつものような朝、昨日と変わらない朝なのに、でも、何かしらが違っていていいはずなのにと思ってしまう朝。

 私は、今、平凡な人間として生きている。自分のことを特別な人間だなんて思わなくなって久しい。煌びやかな脚光からは、どんどん離れ去っていく人間。日々の勤めを果たすことに、精一杯な、自分のことより、周りの誰彼の世話や付き合いに忙殺されている人間。
 ああ、でも、それでも、私は、私という人間はこの世に独りなのだ。

 たとえ、世の中の誰一人として私のことを理解せず、それどころか名前さえも知らないのだとしても、あるいは、今日、否、たった今、私が消え去っても、誰一人、悲しむどころか、気付きさえしないとしても、でも、私は私にとって掛け替えのない人間。私を理解しているはずの唯一の人間。
 そんな私の胸の底には、掛け替えのない人がいる。きっと、その人だけは私を見つめていてくれる。仮に、今日、その人から何の便りもメッセージも届かないとしても、その人だけは胸の奥底で私のことを思っていてくれるはずだ。

 友達の「誕生日、おめでとう!」という歓声が上がっても、私は独り。私はその人の声の鳴り響くのを待っている。私は独り待ちつづけているのだ。
 青く透明な闇の彼方から、私に向かい、「待っているんだよ」、と語りかける何か。

 人は誰でも、その人だけの人生を持っている。誰にも気付かれないとしても、でも、私は私でなければ支えられない何かを懸命に支えている。
 フッとした瞬間に気が遠くなって、絆に縋る手を放しそうになるけれど、でも、私は何かを必死になって握っている。私とは、その懸命さ、健気さなのだ。
 誰にも、私が何を握っているのか、説明できない。自分にだって説明できないのに、できるわけもない。でも、その人には恥ずかしくて言えない、その健気さで、今日をやっとの思いでしのいで生きる。

 明日はどうなるか、分からない。明日になったら、やっぱり緊張の糸が切れてしまうのかもしれない。でも、取りあえず、今日は生きている。生きているという奇跡をしみじみ、胸の底から堪能している。
 この胸のどうしようもない寂しさ、吐き出したくなるほどの淋しさ、あるいは哄笑したくなるほどの愚かしさの自覚。その中に私はいる。私はただの意地っ張りなのかもしれない。
 生きるとは、私を選ぶこと、私が私を愛でること。そんなことが、この年になってようやく分かった…。
 それだけでも、もしかしたら、十分すぎる生きることの恵みなのかもしれない。

                             (01/11/03 作)

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コメント

やいっちさん、こんにちは。相変わらず考えさせられます。
私、このエッセイが好きかもしれません。
読み終わった後、さわやかな風が吹くような…って
窓から風が入ってくるからそう思っただけかもしれませんが、
でもやっぱりいい感じです。
読み返すともっと好きになる気がします。
きっと読む年によって、感じ方も違うんじゃないかな。

私のところは、秋めいてきました。
夜などは涼しくなりました。寒いって感じです。
季節の変わり目、体調には十分気をつけたいですね〜。

投稿: shin | 2007/08/23 12:58

shin さん、読んでいただき、ありがとうございます。
秘密の誰かに寄せての言葉のはずだけど、気が付いたら<私は>という感傷的な瞑想文になっている。
その秘密の人への思い入れが過ぎて、自分とダブってしまっている…。
生きていることの懐かしさを少しでも感じてもらえたらと思います。

東京は昨日(木曜日)は30度ほどで過ごしやすかったのですが、今日からはまた暑さがぶり返すとか。
お互い、体調の維持・管理に気をつけて夏を乗り切り、いい秋を迎えたいですね。

投稿: やいっち | 2007/08/24 07:09

TBありがとうございます。
って今頃になって気づくなんてあまりに遅すぎて申し訳なくて、こそっとのぞきにきたのですが。えーと。あの。もしかして? と思うのは、あたしの思い過ごしでしょうか(汗)
いずれにしても、このエッセイ、とても好きです。静かでしんと心に沁みてきて。
『今日は生きている。生きているという奇跡をしみじみ、胸の底から堪能している。』誕生日の日、まさにこんな心持ちでした。こういう心持ちになるのも、この年まで生きてきたからなのだな、とも思ったり。
『生きるとは、私を選ぶこと、私が私を愛でること。』
この言葉、胸に大切にしまっておきたいと思います。いつでも取り出せるような場所に。
素敵なエッセイを読ませていただいて有難うございました。

投稿: ミメイ | 2007/09/09 04:20

ミメイさん、コメント、ありがとう。

ミクシィでのあの微笑ましい試みもあり、小生もささやかなサプライズを試みたのです。
ようやく気付いてくれて、嬉しい。
拙いエッセイですが、それなりに真情が篭められているかも。
旧稿であっても、というか、旧稿だからこそ、読まれるのは嬉しいものです。


投稿: やいっち | 2007/09/10 10:24

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