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2007/06/15

仮面の舞踏

 わたしが初めて化粧した時、どんな気持ちを抱いたことか。

 自分が女であることを、化粧することを通じて自覚していたような気がする。
 最初はただの好奇心で、母親など家族のいない間に化粧台に向かって密かに化粧してみたに過ぎなかった。
 その前に、祭りだったか七五三などの儀式の際に、母の手によって化粧が施された幽かな記憶があるけど、不思議な感覚にとろんとしたようだけど、でも、あの時はわたしはただのお人形さんだった。

 誰もいない隙を盗んで、母の鏡台の前に座って、鏡を眺めた。
 自分。鏡の中の自分。鏡の外の自分。手を鏡の中に突っ込んで、確かな自分を探し求めた。

 鏡を前に、薄紅を引き、頬紅を差し、鼻筋を通らせ、眉毛の形や濃さ・長さそして曲線を按配する。項(うなじ)にもおしろいを塗ることで、後ろから眺められる自分を意識する。髪型や衣服、靴、アクセサリー、さらには化粧品などで多彩な可能性を探る。
 そうだ、一度ならず何度もわたしはみんなのいないときに自分でない自分を作り出そうとした。
 ここにいるわたしはそれこそ、眉墨一つで他人の顔になる。冷たい、感情のない目で自分を見る。
 美しい!
 美がそこにある。
 美は幻想。

 でも、美は化粧の腕次第で醜にあっけなく成り果てる。

 見る自分が見られる自分になる。見られる自分は多少なりとも演出が可能なのだということを知る。多くの男には場合によっては一生、観客であるしかない神秘の領域を探っていく。仮面を被る自分、仮面の裏の自分、仮面が自分である自分、引き剥がしえない仮面。自分が演出可能だといことは、つまりは、他人も演出している可能性が大だということの自覚。
 それどころか、わたしは、自分がこの世の誰にも及ばない存在なのだと思えてならないのだった。
 多くの男どころか、世の女たちにも窺い知れない世界へ分け入っていく。わたしだけに与えられたパスポートで。
 通行手形は、唯一つ。それは、美。
 美が目くらましになる。あの世へさえも自在に忍び込んでいく。

 化粧と鏡。鏡の中の自分は自分である他にない。
 なのに、化粧を施していく過程で、時に見知らぬ自分に遭遇することさえあったりした。わたしでありながらわたしでない自分。
 が、その他人の自分さえも自分の可能性のうちに含まれるのだとしたら、一体、自分とは何なのか。
 鏡面の煌き。
 透明なガラスという冷徹なエゴイストの肌。

 思えば、スカートは不思議な衣装だ。風が吹けば、裾が捲れ上がり、場合によってはパンティがちらつくこともある。実際、幼い女の子だったわたしは、わざと無邪気を装って、紺色のスカートを風に翻らせて、白いパンティを見せびらかしては、男の子の視線を痛く熱く感じるのが好きだった。男の目は槍のようにパンティを、わたしを刺し貫く。
 が、白いパンティがちらつくと、仮にそこに男がいたら(否! 男の前でないと、わたしはパンティをちらつかせたりなどしない)刺すような視線を感じる。最初は気のせいで、しかし、やがてはまざまざと、明らかに、文句なく、断固として刺すようなギラつく眼差しをはっきりと意識した。
 スカートの裾の現象学は、きっと化粧という仮面の現象学と何らかの相関関係があるに違いない。そして髪型のマジックに気付くのは容易い。
 髪の毛の風に靡く、そのさまを鏡の前で髪を掻き上げたりしながら、どれほど計算したことか!
 
 やがて、スカートの裾が風に揺さぶられることがあっても、あるいは思いっきり(であるかのように)駆けても、決して裾が捲れあがることのない揺らぎの哲学を体験を通して体に身に付けた。どの程度に動いたら見えてしまうのか、どのくらいまでだったら、動き回ってもスカートの奥が覗けないのか、わたしは男たちの目線の海で学び取っていった。
 素直であり自然でありつつ、その実、装っているのであって、<外>では、あるいは<外>に対しては決して無自覚や無邪気などということのありえない、一個の女が誕生するというわけである。
 でも、女が女となるのは、男の目によってではないの。女の目。同性の目の情け容赦なさ。油断も隙もあったものではない。妥協すべきかどうか。どの地点で折り合うべきか…。

 でも、わたしは妥協したくなかった。妥協するくらいなら死を選ぶだろう。
 そのために死ぬほどの孤独を味わうことになろうとも。

 仮面は一枚とは限らない。無数の仮面。幾重にも塗り重ねられた自分。スッピンを演じる自分。素の自分を知るものは一体、誰なのか。鏡の中の不思議の神様だけが知っているのだろうか。
 
 弟が女を意識し始めたのは、十歳過ぎの頃だったろうか。家では化粧っ気のない母が、外出の際に化粧をする。着る物も、有り合わせではなく、明らかに他人を意識している。女を演出している。
 弟は、目をぱちくりして母を見ていたっけ。まるで違う生き物に遭遇したかのように。
 初心な奴!

 他人とは誰なのか。男…父親以外の誰かなのか。それとも、世間という抽象的な、しかし、時にえげつないほどに確かな現実なのか。
 あるいは、他の女を意識しているだけ?

 ある年齢を越えても化粧をしない女は不気味だ。なぜだろう。
 町で男に唇を与えても、化粧の乱れを気にせずにいられるとは、つまりは、無数の男と関わっても、支障がないという可能性を示唆するからだろうか。それとも、素の顔を見せるのは、関わりを持ち、プライベートの時空を共有する自分だけに対してのはずなのに、そのプライベート空間が、開けっ放しになり、他の男に対し放縦なる魔性を予感してしまうからなのか。
 化粧。衣装へのこだわり。演出。演技。自分が仮面の現象学の虜になり、あるいは支配者であると思い込む。鏡張りの時空という呪縛は決して解けることはない。

 きっと、この呪縛の魔術があるからこそ、女性というのは、男性に比して踊ることが好きな人が多いのだろう。呪縛を解くのは、自らの生の肉体の内側からの何かの奔騰以外にないと直感し実感しているからなのか。いずれにしても、踊っている間のわたしは自分でも素敵だと思う。

 化粧する女性が常識に満ちていて安心でき、素敵なように。無難なのだ。
 全ては男性の誤解に過ぎないのだとしても、踊る女性に食い入るように魅入る。魅入られ、女性の内部から噴出する大地に男は平伏したいのかもしれない。
 男のことは、今はいい。

 わたしはいつから踊ることに魅入られたのだったろう。あれは、たしか、自分の肉体に嫌悪感を覚えた頃のことだ。男の視線が怖くてならなかった頃だ。
 自慢の化粧という武器も通用しないと気付かされたあの瞬間だったかもしれない。
 男の手が無骨にわたしの世界を蹂躙する。鏡の幻想を拳で呆気なく打ち砕いてしまった、あの日、わたしは肉体の脆さを思い知らされた。

 血と汗と体臭があるだけだった。わたしは消えていた。わたしを見失ってしまった。
 わたしの体は闖入する刃に抉られ切り刻まれてしまった。
 わたしは破片の山となった鏡以上に粉微塵になった。
 あの日、わたしはわたしから消え去った。
 わたしはわたしを探さなければならなかった。わたしの細切れになった肉の破片を涙ながらに拾い集めた。
 でも、どうやっても、それらは肉の塊に過ぎなかった。いのちが果てていた。

 わたしはあの日、誓ったのだ。完璧な自分になると。
 誰にも傷付けようのない自分をもう一度、産み出すのだと心に誓ったのだ。
 わたしは、土埃となり、風に吹き散らされていったわたしの肉の成れの果てどもを集めて回った。神が不在だというのなら悪魔でもよかった。
 渇き切った大地に雨を降らせて呉れるなら、悪魔とだって手を握ろう。悪魔が男だと誰が決めたのだ。悪魔は神と同様、男でも女でもない。あるいは男でもあり女でもある。

 一個の不在。存在の無。
 わたしは、無を生きることにした。
 いのちなど信じられなかった。
 あるのは、意志だった。形への意志なのだった。意志とは波動する宇宙の鼓動。誰かの胸に耳をあてがい、心音の響きに聞き入るように、わたしは波動を感じた。
 それだけがわたしを生き永らえさせてくれた。

 化粧とは仮面に過ぎないと言い切るのは簡単だ。
 けれど、仮面舞踏会ではないが、仮面をかぶることによって素顔の自分、生の自分、覆い隠している欲望と野心とが剥き出しになることもある。違う自分を化粧することによって演出しているようでいて、実は案外と素の自分の一部、化粧しなかったならば可能性の海に漂流したままに終わるかもしれないエゴが露呈されているだけなのかもしれない。

 そう、エゴだ。
 エゴだけがあるのだ。
 エゴ・スム!
 EGO SUM!
 我レ在リ!

 ふん! わたしはエゴなど信じてなどいない。スム。在りも信じていない。
 だからこそ、エゴ・スムなのだ。
 わたしはわたしの美を生きる。永遠のエロスを生きる。
 エロスとは、肉体の讃美。
 こころなどわたしには無用だ。
 そんなもの、ドブに捨て去ってしまった。

 わたしは、化粧が好きだ。なぜなら化粧の下には無があるからだ。化粧だけが無の生々しさを知っている。素の自分は怖い。見られたくない。空っぽの自分を見られてしまうなんて、信じられない。

 化粧を日々施すと言う営為を通じて、それこそメビウスの輪を辿るようにして、女は知らず知らずのうちに表情ということ、表現ということ、演技ということ、装うということの秘密の領域に踏み入っていく。
 そこには男には窺い知れない、並の女にだって辿り巡ることの叶わない、選ばれし者のみが垣間見ることを許される深紅の闇の世界が果てしもなく広く広がっている。

 男が、常識に満ちた女がうっかり覗き見ようものなら底なしの沼に溺れ行くばかりとなるに違いない。
 いずれにしても、化粧はもう一つの鏡なのだ。見る人の目線と偏見をそのままに映し返すものが鏡というのならば。他人の思惑など跳ね返すものが鏡に他ならないというのなら。
 だからこそ、化粧と鏡は一体なのであろう。

 そして踊ること。

 肉体は、肉体なのだ。肉体は、何処まで逃げようと、我が大地なのであり血の海なのである。
 未開のジャングルより遥かに深いジャングルであり、遥かに見晴るかす草原なのであり、どんなに歩き回り駆け回っても、そのほんの一部を掠めることしか出来ないだろう宇宙なのである。

 肉体は闇なのだと思う。その闇に恐怖するから人は言葉を発しつづけるのかもしれない。闇から逃れようと、光明を求め、灯りが見出せないなら我が身を抉っても、脳髄を宇宙と摩擦させても一瞬の閃光を放とうとする。
 そう、踊ることで。

 肉体は闇でもなければ、ただの枷でもなく、生ける宇宙の喜びの表現が、まさに我が身において、我が肉体において、我が肉体そのもので以って可能なのだということの、無言の、しかし雄弁で且つ美しくエロチックでもあるメッセージなのだ。

 踊る。宇宙が踊る。バッカスが踊る。ディオニュソスが舞い狂う。ニヒリストのわたしが踊る。
 吐きたいほどの孤独を秘めて、わたしが踊っていることを誰が知ろう。
 それでもいい。踊っている瞬間のわたしは完璧なのだから。

拙稿「初化粧」「裸足のダンス」参照。

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