五月晴れの空へ
彼は足元の枯葉を蹴った。長い信号だった。
気がついたら、他の人は歩き出している。
なのに、彼はためらっていた。
やっぱり、ダメだ!
彼は踵(きびす)を返して美紀のもとに向かった。枯葉が驚いたように舞った。
あのままじゃ、ダメだ。絶対にダメなんだ。
初めは早足だったのが、次第に足が速まっていく。
幾度となく待ち合わせした公園の脇の近くのサツキの植え込みのある家の傍に差し掛かったとき、足が止まった。
何日か前の美紀との他愛もない会話を思い出したのだ。
これはサツキって言うの。
えっ、これって、ツツジじゃん。
どう見たって、ツツジだよ。
ううん、ツツジはツツジだけど、違うの。ほら、葉っぱがちょっと小振りでしょ。
云われて見ればそんな気もする。でも、彼にはどうでもいい。
要するにツツジの仲間なんだろう!
彼にはあの時、どうして美紀が突然、そんなことを云いだしたのか分からなかった。きっと、彼が約束の時間に遅れてきたから、ムッとしていたのだろう、そう思うしかなかった。
サツキの小振りで固めの葉っぱが庭石を抱くように覆っていた。淡紫色のの花々が咲き誇っている。
他人の家の前に立ち止まって、サツキがどうだとかツツジとどう違うとか、彼にはどうでもいいようなことを美紀は長々と喋るのだった。
そのうち、とうとう彼は切れてしまって、今、そんなお喋りしている場合じゃないだろうと云うと、今度は美紀が、じゃ、いいわよ、もう、メールしないから! そう云って、立ち去ってしまった。
美紀のスカートの裾が翻る。彼にはスカートの生地がガーゼを重ねたように見える。透けそうで透けないのがもどかしい。
五月の半ばだというのに、夏のような五月晴れの日差しが美紀のタンクトップ風のシャツを眩しくしていた。
置き去りにされた彼は、戸惑うばかりだった。
サツキの淡い紫の花々を見た瞬間、数日前のそんな他愛もない遣り取りが思い出されたのだった。
彼には、あの日、どうして美紀が怒っていたのか分からなかった。いや、怒っていたのかどうかすら分からなかった。
ただ、妙に会話がギクシャクする。弾まない。美紀とは、気が合うというのか、言葉のキャッチボールが気軽にできる。シャイというわけではないが、誰とでも気さくに喋ることができるわけじゃない彼には、美紀は嬉しい存在だった。
なのに、あの日は、最初から気まずい空気が漂っていた。彼にはわだかまるようなことは何も思い当たらなかった。
美紀に何か、あったのだろうか。
不意に携帯が鳴った。メールだ。美紀からか。
違った。電気店の何とかセールの宣伝だった。むしゃくしゃするので、読まないで削除した。
メール…。
メール、しないから…。
そうだ、メールだ。いつだったか、美紀からメールが来ていた。そのメールに返信するのを忘れていたんだ!
それには理由があった。美紀からのメールの内容は他愛もないものだったし、返事はあとですればいい。今は、それより妹とのいざこざのほうが面倒だ…。
彼は妹と喧嘩の真っ最中だった。家に帰れば妹がいるのだが、口をきくのもうざったくて、互いにメールで喧嘩の言葉を遣り取りしていた。
美紀からメールが来たときも、直前に、妹へ怒りの一発といった内容のメールを送信したばかりだった。
なので、二件のメールを相次いで着信した時も、どうせ妹からのものだろうと、開くのが億劫で、つい、放置してしまったのだ。
ふん、ちょっとじらして返事してやる! あいつめ、少しは懲りるだろう!
けれど、間を置いてメールの通信記録を見たら、そのうちの一件は美紀からのメールだったというわけだったのである。
そのときはそれどころじゃないと、妙に突っ張るような気分だった。美紀となら、いつだって気軽に話せる。それより、妹の奴をギャフンと言わせないと、気が治まらない。
その日、とうとう妹へのメールは送らなかった。このほうが自分の怒りが徒ならぬものだと思えるに違いない…。
大体、妹はすぐ隣の部屋にいる。口をきくのも面倒なら、メールも面倒だ。あとで表情を確かめて、それから対応を考えよう。
そうだ、美紀に対してだって、そういつもいつも、即返信していたんじゃ、自分が軽く見られてしまう。たまにはレスを遅らしたほうが、自分の値打ちが高まるに違いない…。
そのうちに美紀へのレスを忘れてしまったのだ。
思い当たるのはそれしかない。
彼には、他にこれといって美紀とトラブルになったことなど思い浮かばないのだった。
それから数日後の土曜日の夜、いつもの公園で会おうと云うつもりで電話した。が、留守電になっていた。今頃の時間帯に留守電設定。
それでも、約束の日時を告げておいた。
日曜日の朝、例の公園へ行ってみると、美紀は待っていてくれた。
ただ、妙によそよそしい。他人行儀。初のデートの時より、固い空気が漂っている。
彼は何を喋ったらいいのか分からなくて、留守電、聴いてくれたんだねと云った。
聴いたから来たんでしょ。
つっけんどんな言い方だった。いつもの美紀じゃない。
そこまではちょっとしたわだかまりに過ぎなかったはずだった。
彼は、つい、我慢できなくて、どうして留守電だったのなどと、余計なことを聞いてしまったのである。
どうして? あら、わたしだって、いろいろあるのよ。あなただって、用事がいろいろあるんでしょ。
美紀は、送ったメールに返事をしなかったことに彼がなんの詫びもしないことが許せない気持ちで一杯だった。
彼が一言、何か云ってくれたらそれで済む、そのつもりでいた。
なのに、彼ったら、そんなことはおくびにも出さず、留守電にしていたことを問い質す。それって変じゃない、という思いだった。
彼は、妹との諍いで頭が一杯で、美紀からのメールに返事をしなかったことをすっかり忘れていた。それどころか、美紀からメールが来ていたことすら、忘れていた。
いや、忘れてなどいなかった。自分には自分なりの事情があるんだという理屈で、あの時点では美紀のメールなど、構っちゃいられないというだけのことだった。
美紀のメールを見ると、妹への鬱憤が思い出されてしまうようでもあった。
返事しなかったことはまずいと気付いたのは、翌朝で、妹と一応の仲直りした際に、妹とのメールの遣り取りを削除しようとしていた時だった。美紀の弾むような文体のメール。
それこそ、キャッチボールなのだ。ボールはすぐに投げ返さないといけない。投げ返さないなら、キャッチボールを休むなら、それ相応の理由が要る。説明が必要なのだ。
やっぱり、まずい。今からでも、レスしておこうか。でも、今更、返事するのも変かな。いつもはメールが来たら、即、レスしていたのが、あの夜は、つい、出しそびれてしまった。大した理由などないのだ。
そう、メールのレスをし忘れたなんて、大したことじゃない!
ああ、でも、美紀の奴、どうして遅れたのって、訊くんだろうな。
妹とちょっと喧嘩していて、なんて、ただの言い訳にもならないだろうし。
いいや、たまにはそんなことある。それが彼なりの理屈だった。なので、美紀がメールに返事しなかったことにそんなにこだわっているなんて、夢にも思わなかった。
それより、美紀の携帯の留守電設定のほうが気になっていた。
体の調子でも悪かったの?
彼なりの気遣いのつもりで訊いたのだった。
いいえ、至って健康なの。元気そのもの。
細切れな言葉。話の接ぎ穂をどう見つけたらいいのか、もともと不器用な彼には分かるはずもなかった。
彼女の取り付く島のない横顔が目に痛いほど美しいと思った。頬が紅潮している。今こそ、美紀を抱きしめたい!
でも、それはできない相談だった。彼に敷居がは高いと感じられるだけだった。
そのうち、段々、彼は面倒になってきた。やっと妹と仲直りできたと思ったら、今度は美紀と気まずい仲か。妹とは同じ屋根の下に暮らしているから、顔を合わさないわけにはいかない。喧嘩だって、今まで散々やってきたから、仲直りのコツもそれなりにつかんでいる。
というより、妹のほうが兄貴である彼の操縦法を心得ているようだった。
でも、美紀とは…。
彼は美紀を手放したくなかった。せっかくできた彼女なのだ。彼女とは妙に馬が合う。会話が弾む。彼女のバネのように弾む体そのものが言葉となって彼の耳を胸を擽ってくれるようだった。
空中に空気一杯のゴム鞠といった言葉が青空を背景にコントロールよく飛んでくる。それをパシッと受けとめ、彼女の胸を目掛けて即座に投げ返す。
まるで日に干したばかりのベッドの上で戯れているような錯覚にさえ、陥っていく。
それが、今は、絞るのを忘れた巨大な雑巾の上で彼は足を奪われ、にっちもさっちもいかなくなっていた。
自分ではどうにも打開の糸口を見出せない。
美紀、お前次第なんだよ。弱気になって、美紀に救いを求めるような表情が彼の顔に浮んだ。
でも、美紀は、そっぽを向いている。
なんだよ。オレが悪いなら、云ってくれよ…。
彼には云えなかった。彼なりの意地があった。自分には落ち度など何もない! どうしてオレが下手(したで)に出ないといけないのだ?!
仕舞いには、今度は、彼のほうが憤懣の念で一杯になった。
いいよ、お前がそうならこっちだって考えがある!
さすがに誰かいい人が出来て、留守電設定の陰で誰かとお喋りしていたんだろう、などとは云えない彼だった。
ただ、頭の中は、妄想が勝手に逞しくなるばかりだった。
なんだよ。会うのがいやなのか? 何がそんなに機嫌が悪いんだ?
美紀はだんまりを決め込んでいた。
美紀は美紀なりに彼が折れてくるのを待っていた。ちょっとレスしなかったことを詫びてくれたら、それでいいのに、知らん顔して、こっちが落ち度があったかのように問い詰める。そんなの、理不尽じゃないの!
この前は、つい、言いそびれて、侘びの一言は言えなかったのだろう、でも、今日こそは、言ってくれるに違いない。
あの日、二人して近所を歩きながらサツキの話をしたのも、ちょっと気持ちをほぐしてあげようと思ってのことだったのに…。
女なんて、どうしてこんなに面倒なんだろう。
五月の空が綺麗に晴れ渡っていた。白い雲がポッカリ、浮んでいる。あの雲のようになれたらなー。
その実、美紀とはギクシャクするばかり。しかも、その理由が皆目、見当が付かない。
彼はとうとう逆切れしてしまった。どうでもよくなった。何が何だか分からない。その分からないことが癪に障るのだった。
いいよ、もう、女なんて。オレはあの雲みたいに、自由になる。そのほうがどれほど気楽か知れやしない。
あのさ、キミさ、気分、悪そうだし、今日はオレ、帰るよ。じゃ、な。
そう言い捨てて、彼はその場を立ち去った。
美紀は呆然と立ち尽くした。どうして、そんな簡単なことができないのか不思議でならなかった。メールの返信くらいすぐにできないの、できなかったら、あとででもいいから送って呉れたらいいし、それもダメなら、留守電に何か一言くらい、詫びの言葉があってよかったんじゃない。
どうして、男の子って、ああなの!
彼は、美紀を置き去りにして帰ろうとしたのだった。でも、長い信号に足止めを喰らっている間に、気が変わってきたのだ。
やっぱり、あのままじゃいけない。今、急いで戻れば、美紀はあの公園の近くにまだいるに違いない。
庭の大きな岩を取り巻くように咲き揃うサツキの前で美紀との会話を思い出しながら、彼はわだかまりを捨てなきゃいけないと思っていた。
それは冷凍室でかちかちにされた一切れのチーズのように、冷えきっていた。
気が付いてみたら、それはそれだけのものに過ぎないのだった。
そうだ、そんなものにこだわるより、今のオレには美紀が必要なんだ。メールのことなら、謝ろう!
メールで滅入るなんてバカみたいだ。
彼は美紀の元へ駆けていった。
[以下、注意書き]
本稿は、下記の趣旨の催しに勝手に参加してみたものです(「STAND BY ME OUR HOUSE」参照のこと):
3月お題:「彼は足元の枯葉を蹴った。長い信号だった」 で始まり
「それは冷凍室でかちかちにされた一切れのチーズのように、冷えきっていた」 を含む文章で締めくくること。お題の出典:『余白の愛』 著:小川洋子
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コメント
おおお・・嬉しい参加、ありがとうございます。
ミメイさんが出題だもんね、力入っちゃうよね。
これ、MCの方でも紹介していいですか?ってか、これは自慢しに行こうっと。こんなトラバもらっちゃったよ、って(^^)
それとね、お忙しくなかったら たまにでもいいからMC参加しませんか?
前回のSexy特集の第2弾もあるらしいし、ジャズバーに男が入ってきて・・というシチュエイションのみ皆一緒っていう企画物も計画中らしいです。
投稿: なずな | 2007/05/06 06:43
やいっちサン、GWは忙しいんではないのかなぁ・・創作トラバ嬉しかったです。ありがとうございます(^^)
さっさとMCの本家blogに紹介してきましたよ。
企画物でSEXYなの中心のもあったし、ミメイさんも一度、参加してくださってる回もあるし、今度一度(でも何度でも)参加して下さると嬉しいな、と思ったよ。
ジャズバーで男にマスターが語りだす・・という渋いシチュエイションがお題の企画も計画中らしいですよ~。
投稿: なずな | 2007/05/06 07:05
いやぁ~、どうもだよ! どうもだよっ!
僕がお礼するのは筋が違うかもだけど、とりあえずお礼に来たんだよねっ!
どうもです。 僕が例の変なサークルの(変とか言うな)管理人初号機、内藤クンです。
でも、残念っ! なずなさんは、「一緒にやらない?」って誘ってるけど・・・。
次月、勝手に名前入れちゃうね。 ぷすすっ♪
一緒に参加しませんか?
結構、楽しいですよ~!
投稿: night_stalker | 2007/05/06 12:05
なずなさん、コメント、ありがとう。
勝手にトラバだけして失礼しました。
せっかくの連休なので、ちょっと創作で遊んでみようかなと、その取っ掛かりを戴いてまいりました。
結構、難しいね。
でも、楽しい。
創作に付いては、一時期、スランプだったんだけど、ようやく少し恢復してきたみたい。
今年は、五十個くらいは掌編を書くつもりでいるので、不束者ですが、お誘いいただければ嬉しくそんじます。
まあ、創作、楽しみましょう!
投稿: やいっち | 2007/05/06 20:12
night_stalkerさん、こんにちは。
勝手に場外(且つ、期限遅れ)参加させてもらいました。掌編を書くネタを、そう、熟した新鮮なトマトを捥ぐようにしていただいてまいりました。
趣向、面白いですね。
あとで、ゆっくりお邪魔させていただきます。
投稿: やいっち | 2007/05/06 20:15
ぎょ・・連続投稿になってる・・・。
反映されるまで待てばよかったのね。失礼しました。
投稿: なずな | 2007/05/06 21:55
なずなさん、ゴメンね。
みんな、びっくりするみたい。
ブログの上のほうに、「コメント、トラックバック大歓迎! 但し、一旦、留保し内容を確認の上、表示させていだだきます」って、書いてあるんだけど、ちょっと文字が小さく目立たないようで、皆さん、びっくりされるようです。
スパム対策ということで、窮余の一策なのです。
二重のコメントみたいだけど、ちょっと内容が違うので(同じことなんて、書けないよね)、両方ともアップさせました。
一度目が消えて(実は消えるように見えるだけなんだけど)、それにめげずに二度目の書き込みをしてくれたことに感謝します!
投稿: やいっち | 2007/05/06 22:19