トーストとミルクとホセと
久しぶりの休日なのに、タケシは朝から不愉快だった。
夜来の雨がやまないから?
違う。
不快のタネはメールだった。コーヒーを片手にパソコンに向かい受信トレイを開くと、来るわ来るわ、迷惑メールの嵐だったのだ。
係長という立場にあって、タケシは休日返上の日々が何年も続いていた。
ようやくの思いで取れた休みなのである。
この前、大方のスパムメールは「送信者を禁止する」機能で片付けたはずなのに、また、増えている…。
チェッと舌打ちしながらも、片っ端から「送信者を禁止する」機能で処理していく。
案外とこの処理が楽しかったりする。
世の中の汚物を始末しているような、妙な快感を感じているような気がしていたのだ。安価なゲーム機で敵を打ち落とす感覚にどこか似ていた。
こんな単純作業を続けているうちに、ふと、タケシは思い当たることがあった。
そうだ、いつだったか、真夜中に気まぐれでエロサイトを覗いてしまったんだ。何処かから届いた出会い系サイトのURLをつい、クリックしてしまったのである。
すると、もう若くはないタケシならずとも腰の疼くようなエロ画面が満載だった。中にはまさに真っ最中の動画風のものさえあった。
ああ、そんな画像や動画場面をクリックしちゃいけない!
分かっていても、つい、クリックしてしまう。
ムラムラする衝動を抑えられずに、何処かの怪しい店のドアを押し開いてしまうような、不思議な墜落感。
しかも、自宅にあって誰も見ていない。堕ちるに任せるのは容易なのだ。
女房とはとっくに別れたのだ。自由を謳歌せずに居られるか。
その結果は予想通りだった。
これまで幾度も同じような苦い思いをしてきたはずなのに。性懲りもなく……。
全く、オレって奴は、好き者だ。
それでも、さすがに最後の扉は開けなかった。痛い目に遭っているのだ。ギリギリのところで踏みとどまった。男には辛い我慢だ。煮え滾り迸る真っ赤な血の海に、ただ静まれというばかりでは耐えられるはずもない。
タケシは彼女に振られたばかりだった。湧き上がるむき出しの本能の雄たけびの矛先が何処にもなかった。
捨て切れなかったエロビデオを引っ張り出し、自慢の逸物を右の手で握って、親の仇とばかりに揉みしだき、しごきにしごき抜いた。
ビデオの中の男優が果てる瞬間に合わせて、逝った…。
これじゃ、まるで女とやってるんじゃなくて、男優を見ているみたいじゃないか…。
不毛感。脱力感。自慰する前より空しく白い闇。いい年をして情けない。
うん? いつだったかエロサイトを覗いた時は、まだあいつと付き合っている最中だったっけ…。
迷惑メールの類いを一掃し終える頃、空腹感を覚えた。徒労感を消し去りたかった。肝心の仕事絡みのメールが何もなかった。
(あいつからの返信も見当たらなかった)という思いが脳裏を過(よ)ぎるのを懸命に堪えていた。
何を食べる?
トーストと牛乳。
不意にこんなあっさりしたメニューが浮んできた。タケシは営業という仕事柄、付き合いでの酒食の機会が多いのだった。
たまにはこんなシンプルな食事もいい。のんびりしよう。今日は誰にも会わない。
音楽は…。ホセだ。ホセ・フェリシアーノだ。久しぶりの自分だけの朝に似合う。曲は「雨のささやき」。陰鬱な日にはぴったりの選曲。トーストとミルクと、あとはホセだけの朝。
雨の中、近所のコンビニに向った。いかにも家族がやっているという雰囲気の漂う店。店員が雇われのアルバイトではなく、店の経営者なのだ。旦那と奥さんとがやっている。
分からないのは、曜日や時間帯によって、店の奥さんと思われる年輩の店員のほかに若い女性店員がいることだった。
彼女はその店の子なのか。ただの雇われなのか、未だにタケシには分からなかった。
昼間から夜にかけては、奥さんと若い娘さん(娘さんなのか、雇われなのか不明だが)の二人で切り盛りしていた。
その店で買うのは、六枚切りの一斤の食パンと500ccの牛乳パック。あとはベーコン。
バターもマーガリンも使わないのがタケシ流だった。ベーコンの塩味だけで十分なのだった。
レジを済ませる。若い、一度も愛想笑いをしたことのない店員は、買い物をビニール袋に詰めると、お釣りを手渡した。大概、四十路の奥さんが傍に付いている。
タケシは黙って無愛想な女の店員の顔を見詰めた。
タケシはレシートを待っていたのだ。
彼は、一人暮らしを始めた頃から、家計簿をつけていた。なので、レシートや領収書の類いは必ず貰うようにしていた。
これも、一人暮らしを始めた頃の苦い経験の賜物だった。後先を考えずに使いまくった挙句の毎月末の赤字。
タケシは自分でも何に使ったのか分からないのだった。
家の台所は女房任せだった。火の車だったことは離婚してから知った。
贅沢など何もしていないはずなのに、何故?
よくよく思い返してみると、毎週のように映画も行く、ライブを観に行く。彼の給料じゃ間に合うはずがないのである。
気がついたらレシートを貰う習慣が付いていた。癖になっていたのだ。借金漬けの日々はもう、御免だった。
その店でも、買い物をしたら、必ずレシートを貰う。通い始めて二年にはなる。
夜中は店のご主人だったりするが、夜までは、いつも四十路を越えたほどの奥さんと若い女性店員の二人なのである。
ただ、レジに立つのは若い店員と決まっていた。
それだから、タケシは通うのだったが。
別にその若い女をどうこうしようという気持ちなどなかった。今更、女なんて真っ平だ。女はもう、虚像の中だけでいい。
一体、この女はいつになったら、オレがレシートを毎度、要求していることを覚えるんだろう。
思い返してみると、タケシは、近所に三つもコンビニがあるのに、わざわざこの店に来始めたのは、家族経営的な雰囲気に惹かれたからではなかった。
むしろ、そんなのはタケシにはうざいのだった。家庭的な雰囲気が嫌だから、親元を離れている、そんな思いもタケシにはあるのである。
そう、つぶらな瞳の、肌の綺麗な女の店員に惹かれたからに他ならなかった。
最初のうちは無愛想さが逆にクールな感じで、女の値打ちの高さを物語っているようだった。
しかし、今は、タケシには女が憎らしいとさえ思えていた。
今度こそは、自分がレシートと言わなくても、黙って釣銭と一緒に渡してくれる…はず。
今日もダメだった。ビニール袋を渡し、釣銭を手渡ししながら、「ありがとうございます」と言うだけだったのだ。
忌々しいと思いつつも、「レシート、頂戴」と言うしかなかった。
女の顔を睨みつけてやった。
けれど、女はタケシとは一切、目を合わさない。
ただ、淡々とレジの作業をこなすだけなのだ。
オレは、ただの通りすがりか。買い物を済ませたら、あとは一切、関わりなしか。こんなザンザン降りの雨の中をわざわざ来てやったのに。
関わりなしは結構。でも、二年も通っているのに、一度たりとも、要求される前にレシートを渡さないのは何故なんだ。そんなにオレがつまらない奴か。印象が薄いのか……。
今ではタケシは意地になっていた。
こうなったら、女を振り向かせてやる。オレが何も言わなくても、釣銭とレシートを渡すように仕向けてやる!
ムカムカする思いを堪えながら帰宅した。
敗北感めいた気分だった。
せっかくの久々の休日だというのに、不愉快なことが続いた。
そういえば、一度だけ、女が釣銭と同時にレシートを手渡してくれたことがあったような…。
違う! あれは、娘の後ろに居たお局さんのほうだった!
丸々一日の休日。だけれど、仕事の性格もあって、パソコンの受信トレイは折々覗くことが必要だった。会社からは携帯で連絡があったりするが、詳細はメールで、というのが習いだったのだ。
大概は、お客からの苦情だった。時間も曜日もあったものではない。
システムエンジニアというと、格好良さそうだが、その実、タケシは会社ではただの使い走りに過ぎなかった。係長という役職も、残業代を払わなく済むからに過ぎないことは分かっている。
今日はたまたま会社でソフトの作業に従事する必要がなかったに過ぎないのだ。
というのも、メンテナンス作業という名目で、昨年から24時間、顧客からの問い合わせに応じない時間帯を設けるようになったのだ。利便性を高めるという一応の目的もあったが、そんな作業は日常の業務の中でこなしていた。
24時間のメンテナンス作業のため、コメントもトラックバックも更新もできません、というのは、実際のところ、会社が堂々と休むため、社員に休日を交替で与えるための方便に過ぎなかった。
受信トレイを開くと、また、迷惑メールが届いていた。期待している誰からもメールは来ていなかった。
また、削除作業か。
キーボードをタッチしようとしたら、奇妙なメールがタケシの目が留まった。
やはりだ、今日も、来ている。最近、この手のが頻繁に来る…。
送信者の名前がまずスパムメール風ではなかった。大概は、ミホとかアキとかヒトミとか、まあ、誰しも友人か友人の友人の中に一人くらいは居そうな女の名前。それとも、酒場のホステスが使いそうな名前。
なのに、そのメールの送信者名はどこかイギリス風な名前だった。昔、一度読んで感激した小説の舞台を思わせる名前。heathという送信者名だったのである。
通常は、そんな横文字の名前などスパムメールであっても、使わない。大概、英名というだけで、敬遠されるのは明らかだからだ。
英文のメールも、欧米の友達もタケシには縁がないはずである。
HEATH! タケシが好んで買う食パンのブランド名が「ヒースの丘」だった。
タケシは、ヒースが、というより「heath」なるブランド名がどこかhealthやHeavenを、あるいは全く逆のhell、さらにはHadesを同時に連想させる、つまり天国と地獄が背中合わせになっていることを思い知らさせるようで、その食パンを選んでいた。
麦の風味がなんとかという謳い文句などどうでもよかった。
件名も気になった。
件名には、こうあった。
飛ぶのが怖いですか?
不倫や浮気やを勧めるメールには、うってつけの題名ではないか!
若い頃は小説好きだったタケシは、「飛ぶのが怖い」というと、即座にずっと昔、ベストセラーになった『飛ぶのが怖い』を連想する。著者の名は、エリカ・ジョング。
エリカ!
タケシがさっき行ってきたばかりのコンビニの近くの電信柱でしばしば目にする広告。その勝手次第に貼られてしまう広告は、発見され次第剥がされるのだが、すぐにまた貼られてしまう。
その違法チラシは、「エリカ」という店の宣伝チラシだった。何処かの風俗店らしい。
女はともかく、風俗店にはタケシは全く興味がない。
第一、こんな住宅街でどうして風俗店の宣伝なんだ。しかも、店の名前がエリカ…。
スパムメールはウイルスに感染する恐れがあるので、開くのはやめたほうがいいのだが、つい、開いてみた。
ウイルス対策は施してあるのだ。開く分には構わないだろう。要は、メールの本文の中のアドレスをクリックしなけりゃいいんだ……。
メールの文面は、以下のようなものだった。
もし消しちゃってたらわたしの伝言板に書くから電話ください!
ここのhttp://ettinakotositai/konya/mappirima/ky/4545は個人的な伝言板ページだし伝言の部屋だってわたしのベッドルームだって地域とか認証すれば簡単にこれるのに…
わたしとはどうしてもあってもらえないんですか?かなしいよ。。さみしいよ…
毎日のように顔、合わせてるのに…
いつも、あなたのこと、見てるのに…
指先だって、触れたことあるのに…
こんなのもうくるしすぎるよ…
指先という言葉がタケシの琴線に触れてしまった。
釣銭、レシート、手渡し。指!
タケシは居ても立ってもいられなくなっていた。
このメールは、他のメールとは違う。何処の誰にも当てはまる内容なんかじゃない。
オレだ。オレを目当てのメールだ。
オレへの悪戯メールだ。
いや、エリカ、ヒース、指…、悪戯なんかではないのかもしれない。
飛ぶのが怖いですか、だと。
何を寝惚けたことを。バツイチのオレが今更、怖いことなどあるモノか。
てめえがその気なら、会ってやろうじゃないか。どんな奴か、顔を拝んでやる。
タケシは、半ば自棄だった。溺れてもいいと思った。仕事のストレスが溜まりすぎていた。離婚して二年、女とは縁を切ったつもりだったけれど、体が何かを要求していた。
脳裏には、あのコンビニの女店員の顔が、胸元の眩しい白さが浮んでいた。
あの胸元を引き裂いてやる。へそ出しのミニTシャツとパンツスタイルの正体を暴いてやる。
そう思い立ったら、我慢がならなくなった。女はメビウスの輪だった。表では化粧を施し、余所行きの表情を崩さない。それでいて、表の面を辿っていけば、一枚一枚、脱がしていけば、あっさりと裏の面に辿り着いている。
あの他人の表情は何処へ消えたのか、いつも不思議だった。
神秘があるはずだったのに、女房にも他の女にも何一つ神秘などなかった。あったのは、退屈と日常だった。しかも、払った代償は大きかった。カネ以上に、奪われた自由が惜しかった。常に足枷が嵌っている。重しを引きずる音が耳に付いて離れない。
でも、失われる自由より今は喉の渇きを潤すのが先決だった。
飲むのだ。飲み干す。あとは野となれ山となれ、だ!
表の面から辿っていくと裏という名の表と似たり寄ったりの面へ迷い込む。
ここは違う、もっともっと先にこそ裏の面があるはずと倒し捲り抉ってみると、表の面へ舞い戻っている。堂々巡りをどれほど繰り返したことか。
また、同じことを繰り返すのは分かりきっていた。愚を重ねる。後悔が待っているだけ。気がつくと時間だけが確実に経過していて、その間は空白となってしまう。
それでも、本能の雄叫びに逆らうことなどできるはずもなかった。
よく、二年間も平気で居られたものだ。
タケシはとうとう一線を越えてしまった。
越えるのは簡単だった。あっさりし過ぎているほどだった。滑り台を滑り落ちているような気がした。
伝言板にメルアドを記入し(勿論、安全なフリーメールのアドレスは用意してあった)、名前を適当に書き込み、姉妹好き(ブロンテ姉妹を匂わせたつもりだった)などと適当なメッセージを書いて送信した。
案の定だった。返事はすぐに返ってきた。
よくあるジャンクメールのように、メルアドが同業他社に転送(転売)される形跡も見受けられなかった(タケシの会社、その実、ただの仲間たちの集まりの仕事は実はこれだった。スパムメールにアクセスしてくる愚か者のメルアドを転売して儲けていた)。
指定してある場所も、タケシには馴染みの場所だった。隣町のスナックだった。
オレがたまに食事や休憩に利用する店まで知ってやがる!
あの女、その気があるんなら、レジでもっと愛想よくすればいいのに。目さえ、合わさないなんて。
それとも、レシートを渡さないのはわざとなのか。オレの気を引くために…。
段々、女の振る舞いの全てが思わせぶりだったことに思い当たるタケシだった。
そうか、オレがちゃんと声を掛けなかったのが悪かったんだ。
買い物のついでに、デートの一つも誘ってやればよかったんだ。
女の白い肌がタケシの股間をなぶるようだった。ユリのように開いた谷間にオレの逸物が咲き誇る。深く深く貫いていく。潜っていく。魚になって女の海を回遊する。オレと女の尾っぽと頭とが、付かず離れず追いかけ続ける。
タケシは逸る気持ちに駆り立てられるようにして先を急いだ。
高校二年の時、初めてのデートへ向った眩しい夏の朝のことが思い出された。
女房との初デートのことは思い出したくもない!
あった。あそこだ。あの店だ。
あそこにあの女が待っているのだ。
男には、そして女にだって相手が必要なのだ。
夢が正夢になる。実体になる。雲を摑むような話が雨になり川となり海となる。男と女の泳ぎ回る海となるのだ。
あの店が浜への一里塚だ。
店内は暗かった。タケシには馴染みの店だから、マスターと目を合わせるのが辛かった。
別に悪いことをしようというんじゃない。娘が独身なら、ただのデートじゃないか。その切っ掛けが出会い系というだけではないか…。
タケシは自分に言い聞かせるように内心、呟いて、店内に入った。
店内には日曜の昼前というのに、客は一人きりだった。
あの長い髪…。
いつものTシャツスタイルではなく、スーツっぽい格好がまたタケシの気をそそった。
さすがに今日はラフなスタイルじゃないってわけか。少しは心得があるってものだ。
あのスーツの下へ滑り込んでいく! 抜き足差し足忍び足駆け足ってわけだ。
待ちましたか?
そういってタケシは女の傍に立った。
女は落ち着き払った表情で、婉然(えんぜん)と笑って、どんでもないです。こちらこそ、来てくれて嬉しいですわと答えた。
それは確かにあの女だった。レジの若い女の後ろで見守るお局さまだった。
寝物語に女はタケシに喋った。
わたしはあなたのこと、何でも知ってるのよ。どんな生活なのか、どんな小説が好みなのかもね…。
しまった! 術中に嵌まってしまった。脇が甘すぎた…。
タケシは、その日、しっかり食べられてしまった。トーストされ、ミルクを乾されてしまったのだった。
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コメント
久久(?)の掌編、拝読しました。
そして弥一テイストを堪能。
ところで「ミルクとホセ」は、
「ミルクを乾せ」だったんですね。
納得。
投稿: 石清水ゲイリー | 2007/04/22 18:02
石清水ゲイリーさん、コメント、ありがとう。
「蜃気楼の欠けら」以来の創作だから約二週間ぶりかな。ようやくまる一日の休日に恵まれたのです。創作となると、ちょっと体力・気力が要るからね。
楽しんでもらえたら嬉しい。
>ところで「ミルクとホセ」は、「ミルクを乾せ」だったんですね。
ビンゴ! ま、いろいろ遊んでいます。
投稿: やいっち | 2007/04/22 21:24
こんばんは。こちらはやっと桜が咲き出しました。
一気飲みじゃなくて、一気読みしてしまいました。
この後どうなるの?みたいな余韻がよいんですよね、
やいっちさんの小説。
てことで、また来ます(笑)
投稿: shin | 2007/04/26 20:56
shinさん、コメント、ありがとう。
東京は八重桜が終わって、ツツジとハナミズキが真っ盛りに。
どの作品もデッサンなので、短編・中篇などに仕立てられると思います。
ちなみに、本編、現実世界で動きがありました。
えっ? どんなって? ちと、言えない。
ま、いつか、掌編に仕立てるかもね。
投稿: やいっち | 2007/04/26 22:26