疑心暗鬼
[「運動会の競争で参加者全員一等賞」という課題を与えられての創作の最終編です。]
裕太は、教室に居ても、廊下で遊んでいても、校庭でみんなとサッカーをやっていても、塾に通っていても、何をやっても不安の念が薄れる時がなかった。
(みんな、内緒で、どうやっているんだろう)
他の生徒たちの動向が気になってならないのだった。
裕太は、クラスの仲間全員に聞いて回りたかった。一体、どうやっているのか、と。
でも、そんなことを聞けるはずもなかった。
みんな一等賞、みんな満点の制度が始まって数年になる。が、誰もがこんな制度など、くそっ食らえと感じている。みんな、叶うなら以前の競争を是とする社会に戻って欲しくてたまらないのだ。
ほんの数年前までなら、運動会では競争があり、一等賞から三等賞、選外からびりっけつまで結果が明確に現れていた。勝って喜ぶ奴もいれば、負けて悔しがる奴もいる。中には、徒競走や騎馬戦などなければいい、運動会などなければいいと思っている奴もいた。
みんなの前で歌うなんて、真っ平だと思っている奴もいただろう。
でも、その結果が歴然としているから、内申書にどう記入されるか、凡そのことは予測できる。また、どう書かれても納得がいっていた。
それがみんな一等賞に、誰もが満点となってからは、内申書にどのような基準で優劣が付けられているか、さっぱり分からなくなったのだ。
みんな一等賞と生徒や父兄らを持ち上げておいて、それでいて、いざ内申書となると、ちゃんと優劣が付けられ、内申書が進路の振り分けの材料に使われてしまう。
体育系や音楽などの実技系だけではなかった。数学や国語や社会などの学科も、試験は行われるのだが、名前さえ記入洩れしなければ、みんな満点がもらえることになっていた。
実際、答案用紙には、ちゃんと百点と赤いペンでしっかり書いてある。
裕太だって、最初のうちは、自慢したくてウチに持ち帰り、両親とか近所のみんなに見せて回ったものだった。
なのに…。
そう、内申書は、何故か内申書だけは、旧態依然というわけではないが、きちんと優劣の評価が下され、優等生から劣等性まで厳格に序列が定められているのだ。
一体、どうやって?! 何を根拠に?
裕太には何が何だか、さっぱり分からなかった。
(もしかしたら、採点されて生徒に返却される答案用紙には満点と書いてあるけれど、実は、こっそり先生方は従来通り採点しているのかもしれない…。)
そんなふうな疑念に囚われる生徒や父兄もないではなかった。しかし、先生達の教員室での様子を盗み見ても、そんな様子は露も見受けられないのだった。
分からないのは裕太だけではなかった。最初は試験の成績が文句の付けようがないと喜んでいた裕太の両親も、内申書が以前にも増して微に入り細に入って記入されていると知って、愕然としているのだった。
試験も運動会の結果も、音楽の授業での楽器の演奏の上手下手や歌の歌い方の良し悪しも、すべてみんな満点とか一等賞とされているのに、それでは、どうやって、あるいは何を根拠に内申書に生徒の素行を観察し優劣を定めているのか。
生徒も父兄達も、みんな疑心暗鬼になっていた。
一体、どうやって我々を観察しているのだ。
一体、誰が我々を評価しているのだ。
生徒たちは、次第に一挙手一投足がぎごちなくなっていた。
何処でどうやって眺められているのか知れないのだ。おちおち教室でオナラをすることも鼻をかむこともできなかった。お喋りも、当り障りのない話をヒソヒソと行うだけになっていた。
トイレの個室に入っても(そう、大を気兼ねなくできるようにという配慮とか、プライバシーなどが問題になり、男の子の小水も個室で行うようになっていた)、 ○ンコどころかオシッコもでない生徒が現れていた。
というのも、トイレでの用の足し方が観察されていて、そのマナー如何が内申書に反映されるという噂がまことしやかに囁かれているからだった。中には、トイレットペーパーの使用した長さなどが記録されている、一回に29cmまでなら合格だが、30cmを越えると失格だという情報も流されていた。
これでは出る物も、引っ込んでしまう。
しかし、かといってしないわけにはいかない。出る杭は打たれるが、出る○ンコは垂れるしかないのだ。だから、父兄が学校の傍に携帯トイレを持参して車で待機していて、生徒は人目を憚りながら、こっそりと用を果たす有り様だった。
学校は、いまや冷凍庫みたいになっていた。生徒の覇気は皆目、見られなくなっていた。大声を発するのは、もう、将来ある進路への希望など諦めきった奴と相場が決まっていた。
少しでも将来、いい学歴、そしていい会社へ進みたいと思っている連中は、出来そこないのロボットのように、ギクシャクした、借りてきたロボットの猫のような振る舞いしかしないようになっていた。
不思議なのは、学校でほんの数人の生徒たちだけは、やたらと元気に活発に振る舞っていることだった。磐石というか、大船に乗っているかのように悠然と日常を過ごしている。時には学校だって平気でサボる奴もいる。別に落ち零れ組みたいに、将来を諦めている風にも思えないのだが。
どうしてそんな奴等がいるのか…?
ほんの一度だけ、裕太は、そうした奴等の一人に、どうして君は、平然と学校生活を送れるの? と訊ねたことがあった。
問われた奴は、(何を愚かなことを)とでも言うように、裕太を冷然と見下ろすだけだった。
(失敗した! 今の言動は記録されてしまって、内申書に反映されてしまうに違いない…。なんてバカなことを聞いてしまったんだ、ボクは!)
一方、何故か先生方は、のんびりとした日々を送っている。誰が見ても、のほほんと働いているとしか思えなかった。そりゃそうだ、採点という面倒な仕事から解放されたのだから。
それに、校長先生を初め学校側の人たちも、そんなに血眼になって生徒を指導したり観察しているとは思えないのだった。
愛想笑いの陰で、こっそり、覗き見しているのではと勘ぐってみても、やはり、先生方のお気楽ぶりは疑いようがないのだった。
何故、先生方も校長先生も、お気楽で居られるのか。
実は、そこには訳があった。
内申書の内容は、つまり進路は、親の学歴や閨閥と会社の優劣や株価、そしてなんといっても親の資産の大小と学校への寄付金の多寡、政権与党への貢献度などで入学した時点で全てが決まっているのだった。
つまり、親の身元調査が入学当初に行われ、その結果で内申書は自動的に記入されていくシステムになっていたのだ。
だから、先生方は、先生の振りを装えばそれでいいのだった。生徒は生徒らしく、しおらしくしていればそれで十分なのだった。いや、少々なら虐めや万引きや授業中の居眠りやトイレでの粗相もOKなのだった。ほとんど放任状態だったのだ。
が、そんな裏の事情を知る生徒や父兄はごく少数だった。
知っているのは、制度作りに携わったほんの一部の与党の政治家や利害関係者、つまり、制度を作った時点での勝ち組みの連中だけだったのだ。
裕太ら圧倒的大多数の生徒や父兄等は、疑心暗鬼のままに、私生活さえもガラス張りにされてしまったような生活を送るのみだった…。何をどうすればいいのか分からず、ただ闇雲にいい子になろうと懸命だった。
その実、どんなに必死に頑張っても無駄さ、とエリートたちは嘲笑わらっているのだった。
裕太や多くの生徒たちは、疑心暗鬼の念で日々汲々とするのみだった。
ただ、祐太は思った。昔の学校生活って楽しかったろうな、と。
(04/01/31作)
| 固定リンク
「ナンセンス小説」カテゴリの記事
- 昼行燈91「我が友は蜘蛛」(2024.06.25)
- 赤い風船(2014.11.30)
- できたものは(2014.11.10)
- 自由を求めて(2014.09.29)
- 片道切符の階段(2013.11.20)
「駄文・駄洒落・雑記」カテゴリの記事
- 雨の中をひた走る(2024.10.31)
- 昼行燈123「家の中まで真っ暗」(2024.10.16)
- 昼行燈122「夢…それとも蝋燭の焔」(2024.10.07)
- ローンライダー(2024.10.02)
- 断末魔(2024.10.01)
コメント