ヒトはいかにして人となったか
別窓では、やや妄想の気味のある<学説>が繰り広げられます。
間違っても、由緒ある説として引用などされないように!
チンパンジーなど、お猿さんたちがHが大好きなことは知られている。こればっかりは体力の差もあり、人は全く敵わない。自慰の回数でもHの回数でも、太刀打ちなど論外である。人がマリファナや催淫剤などを使ったって、Hの量も快楽の度も、たかが知れている(という)。
ところで、しかし、お猿さんたちと人が違うのは、Hの質であり、Hへの思い入れ(想像、妄想、etc.)であろう。
小生は、若い頃、お猿さんの活躍ぶりを眺めながら、当時自身も若かったこともあり、何故、お猿さんはあんなに凄いのだろうと感嘆したことがある。そしてある日、閃いたのだった。
といっても、思いついた着想というのは、極めて平凡なもので、きっと多くの方も(特に男性?)一度は想像されたビジョンなのではないかと思う。
それは、昔、チンパンジーの中で、とてつもなく助平な奴がいて(しかも、それはカップルっだったと思う)、そいつは、チンパンジーの仲間が通常行う営為を遥かに越えたHの天才だったのだ。
奴(奴等)は、通常のバックスタイルや正常位だけでは飽き足らず、しかも、単なるピストン運動に終始することに満足することなく、二匹が互いに性的快楽の限りを尽くしたのではなかったか。
つまり、奴等は、ペニスと膣との摩擦だけではなく、ある日、互いの体表を愛撫することに、また、異様なる視覚から互いの体の交わる光景を眺めることに、思いもよらない快感の領野があることに気づいた(感づいた)のだ。
すると、奴等は互いの体表を、心行くまで快楽の泉の源としてとことん追究し始めたのである。
奴等は、性の狩人となったのだ。
そうしてあまりに互いに体の表面の愛撫と慰撫の心地よさに溺れたため、気がついたら体毛が擦り切れてしまったのである。
また、体位に関しても、並みのチンパンジーなど足元にも及ばない可能性を追究したのであった。バックや正常位を堪能し、横向きから斜めから逆立ちから宙返りから、正面衝突から、草原を(水辺を)駆け巡りながら、可能性の限りを追ったわけである。
彼らは寝転がってHをするだけではなく、仕事(餌を採集するなど)をしながらもHを欠かさなかった。つまり、立って片手は餌に手を伸ばしながらも、もう片方の手はしっかり相手を愛撫することを忘れなかったわけだ。Hは全身をフルに使ってやるものと性的本能が奴等をして使役していたのだ。
気がついたら彼らの身体は、通常のチンパンジーとはまるで違う形態に変貌していた。
まず、体毛がすっかり擦り切れ肌が露出していた。身体が四足の奴等と違って、体位の可能性の限界を尽くしえるため、特に長時間の立位でのHに耐えられる体であることを求められている中で、まさに二足歩行たる人類に既に一歩踏み出していることを知ったのである。しかも、Hへの想像力は、二足歩行となって頭蓋の成長の自由度を既に得ていた頭(脳)を爆発的に膨張させ進化させたのである。
奴等は快楽を得た。が、孤独だったに違いない。なんといっても、そんな容貌魁偉な(裸で立ちっ放しのサル!)仲間など、圧倒的に少数だったに違いないから。しかし、奴等は断固、Hを追究するチャレンジ精神は失わなかった。というより新たに得た快楽の楽園は、孤独を癒すにはあまりある耽美の世界だったし、もう、後戻りなどできなくなっていたのだ。
そうしたエリートは、やや寂しげに、しかしバラ色というよりピンク色の未来に希望を抱きつつ、チンパンジーの群れとは別れを告げ、新たな集団を作ったのだ。 なんといってもスケベ心と繁殖力は旺盛だったし、そうした性のエリートに追随し真似する仲間も少なからずいただろう。
そうしてヒトは人になったのである。
← テレンス・W・ディーコン著『ヒトはいかにして人となったか―言語と脳の共進化』(金子 隆芳訳、新曜社) 元はといえば、本書を読んで書評エッセイを綴っていたのだが、なにゆえなのか、小生の妄想魂に火がつき……。
二足歩行の開始については、サバンナ説から水棲説(アクア説)に引き続き、それらに負けず劣らずお笑い種の自説を紹介した。つまりは、チンパンジーの中の、天才的にH好きなサルが、性の倒錯した世界(あくまでチンパンジーの仲間からしたら異常なのである)に耽溺した結果、気がついたら裸のサルになり、且つ、あらゆる体位の可能性を試行錯誤した結果、肢体の自由度がチンパンジーたちに比して遥かに増大したのだと述べた。
この性的快楽の世界への飛躍、性の楽園への常時接続の実現には、いかに天才的に助兵衛なサル君であろうと、相当に苦しい試練もあったはずである。まず、雄にしてみれば、通常チンパンジーの雄でもH度は満点であり、日に何十回もHが(つまり性的興奮状態、肉体的局所の屹立状態が)可能なのだし、一旦、自慰を覚えると死ぬまで局所への変質的摩擦を止めることはない。
つまりは雄は、Hに関して瞬間的に燃え上がり、瞬間的に快感を得る約束があり、ということは、何も前戯などなくなって構わない単純な機構レベルにありがちなわけである。相手の雌が誰だって(多少は、互いに選びっこはするだろうが)構わない。
が、ここである天才的な性的可能性の探求者たる雌は、はたと閃いたのである。ある可能性に気づいたのだ。何も局所でなくなって、快感の余地は十分にあるじゃないか、と。局所は何も局所にあるのではなく、身体中に広がっているのだと(最初は、お腹から脇腹、脇の下、太もも、背中…と、徐々に広がっていったのだろうが)。それには、瞬間的な快感の成就に逸る雄を制しなければならない。これが至難なわざであり、大きな越えるべき山場だったことは、想像に難くない。
雄を雌の身体中への愛撫に向かわせなければならず、また、そうすることが愉しいことであると感得させなければならないのだ。性的官能の成就の直前に、自制して相方を性の沃野へと導かねばならなかったのだ。
(逸る雄を調教するという)この大きなハードルを越えるための努力に敬意を払うべきだろう。
さて、この性の前戯と後戯の快楽の発見は、体毛の喪失と相関しているだけではない。実は、それらは、匂いや言葉の発見とも深く関わっているのだ。
体毛の次第次第の喪失は、実は匂いの可能性の発見とも深く相関している。つまり、体毛が薄くなることで、従来は体毛にこびり付いて離れなかった強烈な不快な匂いが薄れ、それと同時に、性的刺激に満ちた匂いが天才的Hサルの脳髄を直撃しはじめたのである。
裸のサルに近づくにつれ、特に雌の助兵衛なさる姫は、裸の肌から発する匂いがオスを強烈に捕らえて放さないことを発見してしまったのである。そして、魅惑的ではあるが、やや単調である土臭い汗の堆積から発する匂いよりも、微妙で変化に富む多様なる匂いの世界、体の方々から発する匂いか体臭か肌の温もりなのか見分け難い香りが、オスを引っかけるにはもってこいの道具・武器であるとしってしまったのである。
また、雌は同時に声の魅力をも発見した。Hの際、あるいはHにオスを誘い込む際、あるいは日々の関わりと交わりの中で、声を多様に変化させることがオスを支配し、ひれ伏させるのに預かって大なることを知ったのだ。
Hの際のアーとか、オーとか、やや原始的な叫び、咆哮と言うべき叫びが、やがてアハーンとか、ウフーンとかに音韻的変化を帯び始めたのだ。ア行などの吼え声的音から、Hを繰り返す中で、ア行にHの色合いが混ざって、ハ行の発声が可能になったのである。英語でいえば、Help Me! と、けたたましく今でも吼えるところのヘルプ行の発声が可能になったわけだ。
この音韻的多様性の肥大傾向は、以下同様で発展していったものと考えていい。
つまり、音韻の多様性はオスを繋ぎ止める至上の手段でもあったのだ。さまざまな音の変容が、その都度、雄をさまざまに雌の意のままに動かしめる結果となり…、雌は雄への影響力の行使の上での魔法の武器を手にしたのだ。その声が耳に残って離れないオスどもは、やがてメスへの性の奴隷と化したのである。
さて、このようにして、Hの快楽のあくなき探求は、体位の可能性の探求に繋がり、やがて体の外見の変化に繋がり、性の快感の極致は恍惚なる天上世界への賛美と希求に繋がり、そのことが、常時立位への本能的必要に繋がっていったのだ。さらには言葉の原初の萌芽に繋がったのである。
一言で言うと、性の快楽の追求というのは、五感の徹底した洗練に他ならないということである。それは単に肉体的快感の惑溺に止まるものではなく、折悪しく雌が雄に、あるいは雄が雌に逸れている間であってさえも、互いの絡み合いの楽園的境地を追い求めるために、想像力の発達が動機付けられもした。性も常在戦場なのであり、いつでもHを、というわけだ。先述したように、性の常時接続の達成である。
さらに、世の諸賢、世の助兵衛族の皆さんなら分かるように、性の倒錯的想像の肥大と耽溺は、風景をも一変させたのである。一晩中の性の快感の可能性の探求の挙げ句の明け方に見る夜明けの眩しさ。陽光が黄色く変色しているではないか。
感覚的多様性と可能性の肥大は、見るもの聞くもの匂うもの触れるものの全てを違う目で見ることを可能にしたのだ。葉っぱは単に食べるためのものではなく、隠すものとして利用可能なのだと知ったのだし、青い空は二匹で見上げれば、その青が更に鮮烈に目に映るのだったし、水も土も木々も単なる道具的次元のものから、何かもっと神々しいような、実用性を越えた新鮮な姿、生き生きと生きる喜びを賛美し鼓舞し共感しているかのように、この世のすべてが見え始めたのである。
無数の神経網は、ありとあらゆる絡み合いと結び合いを展開していった。生き物としての生存に有用だろうが無用だろうが、そんなことはお構いなしだった。絡めるものなら、どんな部位にだって絡む。二重に三重に絡み結び合い、雁字搦めになっても、まだ絡むことをやめず、今では二進も三進もいかないほどに脳髄は肥大してしまったのである。
そこまで肥大した頭蓋は、もはや四足という獣の格好では、頭が移動や運動の邪魔になる。邪魔な頭は、それではと上へ上へ、つまり体全体の上においやられ、気がついたら二足歩行に至っていたということなのだ。二足歩行というのは、人類のHの快楽の過剰なまでの探求の結果なのである。
天上天下唯我独尊。その唯我とは、Hへの執念に他ならなかったのだ…。
→ 島泰三著『はだかの起原―不適者は生きのびる』(木楽舎) 本書を含め、新しい知見を得ていたら、新たな妄想を逞しくしていたかもしれない。
[注]拙稿「『ヒトはいかにして人となったか』(蛇足篇/及び補足)」より。この拙稿は、元々は、書評エッセイ「ディーコン著『ヒトはいかにして人となったか』」から妄想的駄文部分の抜粋である。
書評エッセイとしてはちょっと揣摩憶測というか妄想の度が過ぎたので、この創作の館に封じ込めるものである。
気が向いたら下記など参照:
「立川流つまるところは火と水と」
「「はだかの起原」…シラミから衣類の誕生を知る?」
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