ボクの金閣寺
冬の北陸特有の鉛色の空だった。
分厚い雲が垂れ込めていて、庭に出て北東の空を見ても立山連峰は見えない。
夏の白銀に輝く、天空の襟首を飾るような巨大な屏風も、北陸の冬の空にはすっかり凍えてしまっている。
皮肉だ。夏よりはるかに純白な衣装に身を飾っているというのに、姿がまるで見えないなんて。
そうか、今は遠くの空より一面に降り積もった眼前の雪を見ろ、ということなのか。
雪の眩しさに目が瞑れてしまえ、ということなのか。
ああ、どうでもいいようなことばかりが頭に浮んでくる。
憂鬱なのだ。
何か鬱屈したものが蟠(わだかま)っている。
暗い情の河が堰き止められて、今にも溢れてしまいそうなのを感じる。
こんな時は、何もかも吐き出してしまうことだ。
不意に目頭が熱くなるのを感じた。
無様な姿を見られたくなくて裏の納屋へ回ってみた。
そこには古びた藁束が積まれたままになっている。遠い昔、冬の間、隣の土間で作業した名残だ。
藁の長靴。藁の縄。籠。莚。草鞋(わらじ)…。
藁で作った沓(くつ)なのに、どうして「わらじ」は草鞋なのか。草鞋って書いてあったら、思わず「ぞうり」って読み間違えてしまいそうだ。
どうせ、中国伝来の漢字に日本語を当て嵌めたんだろう。
そういえば、誰かがメキシコでも「わらじ」で通用するって言っていたっけ。
「わらし」…。「わらの足」の略に違いないと、いつだったか勝手に決め付けていたこともあった。
何百年も昔、日本人の誰かがメキシコに渡り、伝えたのだとか。
まだ、しつこくどうでもいいようなことばかりが頭に浮んでくる。
自分に向き合いたくないのだろう。
あの日、オレはむしゃくしゃする気持ちを持て余していた。その日も雪だった。雪に家が埋まっていた。積もった雪の山にトンネルを開けて出入りしていた。
学校にはうんざりしていた。何もかもが関心の外だった。
授業には全く興味が持てなかった。
分かる人、手を挙げて。
授業参観の日、先生が生徒たちを見回し、問いかける。
確か、前の日にも同じ質問をしたのだった。練習してあったのだ。
みんな元気良く手を挙げる。
オレは…、あの日のボクは、手を挙げなかった。
他にも誰か手を挙げない奴がいたのかどうか。
ボクには周囲を見回す勇気などなかった。
質問されたのは分かったけれど、答えは分からない。
先生の言葉が遠くで渦を巻き始め、やがて教室中を埋めていく。
ボクは窒息しそうだった。
息も絶え絶えだった。
ボクは口でしか呼吸ができない。
手術の失敗で鼻から肺へ通じる喉の弁の何処が塞がれて、鼻呼吸ができないのだ。
恥ずかしがり屋のボクは、授業中、口を薄く開けて呼吸している。
最初のうちはいいけれど、しまいに苦しくなってくる。息が苦しくて体が火照ってくる。思いっきり口を開けて息したい。
何が苦しいって、息を吐けないのが苦しい。胸の中どころか体中に汚れたガスが充満している。
息を吐かないと、今にも破裂しそうだ。
張り詰めた風船だ。破裂させるにピンもいらない。
ますますガスがたまっていく。爆発するまで、あと数十秒…。10秒、3、2、1……。
でも、授業は続く。時計をチラッと見たら、まだ半分も授業が続く。
体が真っ赤なのか、それとも真っ黒なのか分からない。意識が遠退きそうだ。
先生の言葉がはるかにはるかに遠くなる。
それとも、ボクが消えてなくなっていくのだろうか。
不意にボクは気が付いた。
そうだ、みんなが手を挙げている最中に、どさくさに紛れて口を開ければいいんだ。
みんな、ハイ、ハイって、やっているんだから、ボクも手を挙げて、そうしてハイ! ってやって、そうして大息を吐けば、吸えばいいんだ。
名案だ。
どうしてこんな簡単な方法に今まで気がつかなかったのか。
ボクも周囲の勢いにつられたようにして、ハイと手を挙げた。
拙かった。
タイミングが悪かったのだ。
先生はボクを指したのだ。
遅れて手を挙げたから、目立ってしまったのかもしれない。
先生の嬉しそうな顔。
出来の悪いボクが父兄の、母のいる前で、みんなの見ている前で答えようとしているのだ、喜ばないわけがない。
指されたボクは、驚いた。窒息しそうで体がカッカしているのが、一気に凍て付いてしまった。
立つしかない。
でも、立って、ボクはどうしたらいい。
質問の言葉が宙に浮いている。ふわふわ教室中を彷徨っている。
でも、ボクの頭の中にはやって来ない。つかめない。
ボクは、俯いて、さりげなく息を継ぐ。
質問より、生きることが大事……。
違う。苦しさから逃れたいだけだ。
授業どころの騒ぎじゃないのだ。
ボクは立っていた。
立っているだけだった。
何も分からなかった。
世界が真っ白だった。
ボクの頭の中のように、世界中が空っぽになっていた。
沈黙があった。時間が止まっていた。
先生がボクを見つめている。みんながボクを見つめている。父兄のみんなも。
息を潜めるのは、こんどはボクじゃなく、まわりのみんなだなんて、皮肉だ。
お袋はあとで先生に呼び止められて注意されたらしい。授業をまるで聞く気がないのですね。授業中も窓の外ばかり見ています。やる気のなさが一番、問題です。
お袋は、ボクが炬燵の中で転寝(うたたね)している最中に、近所の小母さんに愚痴っていた。
いつものことだ。
だから、お袋もボクに何も言わない。
口癖のように、一人、呟くのは、早生まれだから…。
確かにそうだけれど……。
他に慰めようがないのだから仕方がない……。
雪明りが眩しかったってことは、あの日はもう宵闇が迫っていた頃合だったろうか。
家の前の雪の山を攀じ登り、裏の納屋へ。
半分腐ったような藁の山の谷間にドラム缶が置いてある。灯油だ。
ドラム缶の傍には、予備のポリ容器がある。底の方に灯油が。
持参した空き缶に灯油を注いだ。
冷たい空気に灯油の臭いが漂う、ような気がする。何処か饐えたような不思議な臭い。
ボクはポケットから持ってきたマッチを取り出した。
今日こそ、試してみるのだ。
ポリ容器の灯油を傍にある空き缶に注ぐ。
マッチを擦る。
ダメだ。火が点かない。
風のせいではないようだ。
マッチがしけっている?
ボクは何本もマッチを擦ってみた。
そうしてやっとマッチに火が点いた。
ボッという音が聞こえたような気がする。
誰も見ていないから大きく口を開けて息をしていいはずなのに、何故か息を潜めている。
胸の高鳴りが苦しいのは、どうしてなのだろう。
息を凝らしてマッチの火を見る。
綺麗だ。どんな明かりより綺麗だ。雪明りに負けないくらい目に沁みる。
でも、呆気なくマッチの火は消えてしまった。
見惚れている場合じゃないのだ。
今日という今日は試してみるつもりじゃなかったのか。
ボクは、今度は三本のマッチを一度に擦った。
やった!
すぐに燃え上がる。そのマッチを空き缶の灯油に翳(かざ)してみる。
ダメだ。やっぱり燃えない。
愚かなボクも、同じ失敗を繰り返したくない。
そんなことはとっくに承知だ。
この前は藁屑を灯油の上に積み重ねて、その藁に点火しようとしたけど、うまくいかなかった。藁が湿っているんじゃ、燃えるはずもないってことに気がつくのに、何度、同じ試みをしたことか。
ボクはポケットからくしゃくしゃに丸めた古新聞を引っ張り出した。
灯油の溜まった缶の上にソーッと紙くずを置く。浮かべるように。
そして、マッチを擦る。無論、数本を纏めて擦るのだ。
ボクはただ、目の前で灯油の燃え上がる様子を見たいだけだった。
何もかもがうまくいかない、出来の悪いボク。
せめて灯油くらい、点火に成功したっていいはずだ。
ボクは近所の小父さんに灯油は簡単には火が点かない。石油ストーブで灯油が燃えるのは、芯があって、灯油をガス状にしているから燃えるんだって教わった。
だったら、紙くずを灯油に浸しておけば、紙が燃えるその勢いで灯油に火が移っていくはずじゃないか。
ボクは、頭の片隅にテレビで観たドラマの映像がちらついていた。お寺の小僧が金閣寺を放火するって奴だ。
でも、ボクにはそんなクソ度胸などない。灯油さえ、燃やすことができたら、それでいい。
裏の納屋の四角い空き缶がボクの金閣寺なのだ。
炎上する金閣寺になるはずなのだった。
でも、古新聞が燃えるばかりで、灯油には一向に火の手が回らない。
ボクは失望した。
灯油さえ、燃やすことが出来ない。
あれだけストーブで赤々と燃え上がる灯油なのに、マッチの火じゃ、ダメなのか。
それとも、ボクじゃ、ダメなのか。
灯油までボクをバカにしている!
すっかり暮れてしまっている。ボクもグレテしまいそうだ。
胸の蟠りが募るばかりだった。
当時のボクに、納屋の缶に溜まっている灯油はすっかり変質した古臭い灯油だと気づくはずがなかった。
ボクは意気消沈して家の中に戻った。
すっかり夕餉の用意が出来ていた。
その夜は鍋だった。炬燵を取っ払って、茶の間で鍋だ。
炭がキンキンに燃え上がっている。
でっかい鍋でお湯が煮え立っている。
今度は、ボクは、誰もいないときに炬燵の炭で灯油を燃やしてやるんだ。
ボクにだって男の意地がある!
胸の中で密かに誓いを立てながら、ボクは鍋料理を見ていた。
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