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2007/01/20

ピアノの音は悪魔の囁き

 何処からかピアノの音が聴こえて来た。
 着想が浮んでこれから書き出そうとした矢先だった。
 オレは部屋にいる時は、本を読むにも、何かを書くにも、絶対の静寂を求める。
 無音の空間こそが絶対なのだ。
 心臓の音さえ、掻き消したいほどだ。

 音を消し去るため、古い冷蔵庫のコンセントを引き千切ったこともある。
 昔、安アパートに住んでいた頃は、天井裏に毛布やボロ布を敷き詰め、壁一面に本や雑誌や空き箱を積み重ねた。
 足りるはずがないから、そこら中から適当なブロックを拾ってくる。六畳間が、気が付いたら棲息する空間が二畳もない。
 でも、満足だった。
 外部の音を遮断できたのだ。
 
 が、そこにピアノの音!

 あの日、オレは、その音の出所を探すため、血相を変えてアパートを出ていった。
 ピアノの音は目に見えない悪魔の囁き。オレの神経を玩ぶ天使の悪戯。
 誰かがオレに悪意を抱いているに違いない。オレがここに居て、絶対の時空を確保しようと懸命なのを知悉しているのに違いないのだ。
 しかも、奴はただ、弾いているだけ。
 ピアノの音は青い空を渡って、まっすぐオレの耳元へ、匕首となって突き刺さる。
 
 見つけた!
 オレは、その家の周囲を何度も巡った。
 オレの空間を侵すな。オレの時間を汚すんじゃない。不快なピアノの音など響かせるんじゃない!

 けれど、ピアノの音は、素知らぬ顔をして青い空を貫き通し、ついには凍て付いた氷の世界に変えていく。
 オレは怒り心頭となっている。血が頭の中で沸騰している。奴を殺るか、オレが死ぬか。
 二つに一つだ。

 すると、突然、その家から女が現れた。
 女の目がまっすぐオレを捉えた。

 オレは…、オレは逃げた!

 ……そしてオレは死んだ。
 オレは敗れたのだった。
 惨めだった。
 オレのどこが悪い。オレが何をしたというのか。
 なのに、裏返された皮膚を情け容赦のない陽光に炙られ、神経がズタズタに切り裂かれ、オレは一人、敗れ果て、この世から消え去った。
 オレはもうこの世にはいないのだ。
 そう思うしかない。オレは地獄にいる。地獄の責め苦を味わっている。理不尽な罪科で苛まれている。
 不条理。
 
 そしてオレはあの町を去った。
 流れ流れてこの町へ来た。壁の厚さだけを基準に棲む部屋を捜し求めて。

 そう、オレはピアノを本当は愛しているのだ。
 だからこそ、紛い物のピアノを許すことはできないのである。
 
 しばらくは平穏だった。
 が、夏の暑さが遠い夢のように思え始めた頃、悪夢が再来した。
 そう、また、ピアノの音が聞こえ始めたのだった。

 オレは二度目の死を覚悟するしかないのか。
 
 違った。
 今度、この町で聞こえてくるピアノの音は、まるで透明な闇の宇宙に煌く真珠の粒だった。
 数知れない真珠の粒が連なり、あるいは輪を描き、あるいは一瞬の閃光となった。
 ピアノは玲瓏な音の玉となって闇に浮んでは消えていく。天空のビーズ玉。
 分厚い壁を軽々と透かして来る不思議な素粒子。
 不可視の微細な水晶の粒たち。
 闇の川の瀬音。
 
 眠れる美女の白い肌を転がる氷の欠けら。溶けて流れ伝う水。細く空いた唇から垂れる愛液。胸に滲む汗。額に張り付く髪。
 ピアニッシモの旋律。
 ピアノはオレの琴線を掻き鳴らしている。
 鼓膜を貫いて、オレの脳髄を直に愛撫している。
 オレの孤独な宇宙を真珠の玉で満たそうとしている。
 
 オレはえも云えぬ心地よさに酔い痴れていた。
 否、今にも酔いそうな自分を感じ、恐れ戦いていた。
 オレの神聖なる静謐な時空が壊れてしまう。
 時空が裂けてしまう。外の空気が浸潤してくる。
 
 繭玉の中のオレが剥き出しにされそうだった。怖いのだった。
 遮断された時空が晒されてしまう。
 青白い皮膚が陽光に焼かれ焦がされてしまう。

 けれど、逆らうことはできそうになかった。
 何かが体の中で弾けてしまったのだ。
 胸の奥、腹の中、とぐろを巻く腸(はらわた)の何処かが蠕動し始めていた。
 
 オレはふらふらと外へ出た。
 久しぶりの外…。
 違う。まるで初めて外気に接するような戦慄の時を迎えていた。

 胸の高鳴りは苦しいほどだった。
 どうにもならない。なるようにしかならないのだ。
 今度という今度は罪を犯してしまうかもしれない。
 自分にはどうにも制御できないのだ。
 ここに居るのは、自分ではない。
 もう、オレなどではないのだ。
 
 空が血肉のように赤く染まっていた。
 夕焼けなのか朝焼けなのか、それすら分からなかった。
 それとも、滾る血が世界を染めているだけなのか。
 
 ピアノの音がますます高くなってきた。
 近い!
 ピアニッシモの旋律がオレの神経を慰撫し愛撫している。背筋を舐(ねぶ)るように、それとも脇腹をやんわり撫で上げるように鳴っている。

 気が付くと、何処かの町を歩いていた。
 町並みに気のせいか、何処かしら、懐かしい面影が感じられる。
 Déjà vu…、デジャヴ…、既視感…。
 オレは、ただ導かれるがままにとある家の玄関の前に立っているのだった。

 いつだったか、こうして立ったことがあったような……。

 ああ、ダメだ。このままだと、今度こそ、我慢がならずに殺ってしまうかもしれない。
 オレの静寂を奪った奴は誰であろうと許すわけにはいかないのだ。

 ふと気が付くと、ピアノの音が鳴り止んでいるのだった。

 もしや、オレの殺気を察したのか。

 そのときだった、ドアが開き、女が姿を現した。

 あの時の女ではないか!

 女は、口を開いて何か言った。
 ようこそ、と言ったような気がした。

 ようこそ?
 
 私はあなたを知り尽くしたいの。
 あなたの琴線を知り尽くしたいのよ。
 今度こそ、逃がさないわ!
 
 そしてオレは連弾の夜に落ちたのだった。
 

参考:
ピアノの音
雨音はショパンの

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コメント

よく分かるよ。
切り口は違うけど、やっぱりやいっちゃんだね。
でも、ちょっと消化不良気味?
まあ、今後のことだね。
ナイス、トライ!

投稿: 志治美世子 | 2007/01/20 02:55

コメント、ありがとう。
最近はほのぼの系を意識的に創作しています。想像はお任せって奴です。

投稿: やいっち | 2007/01/20 09:18

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