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2006/11/04

悪夢ですらなかった!

 ある朝のことだった。目覚めた瞬間、あることに気付いた。
 あの日、どうしてお袋が不意にオレに向って呟くように、「万引きだけはしちゃダメながんぜ、雄介」と言ったのか、その理由が分かったのだ。
 あの日、どうしてお袋がそんなことを今更オレに言うのか怪訝(けげん)に思っていた。
 あの日、父母とオレとは三人で久しぶりにテレビを見ていた。
 その時の番組は常習的な万引き犯や、横行する万引きに多くの店が苦しんでいる実態をドキュメント風に特集していた。
 オレに「万引きなど、しちゃいけない」ってのは、テレビを見てのお袋の感想なのだろう。
 きっとそうに違いない。
 オレはそう、自分に言い聞かせていた。
 
 でも、普段、テレビを見て感想など言わない人なのだ。
 まして、テレビ番組の内容に引きずられるようにしてという形であれ、オレに意見するなんて、まるでお袋らしくない。
 親子だもの、お袋の言葉や語調に何か単なる感想に留まらないものがあるのは、オレには分かる。

 何か意見をするとき、決して直接には言わない。
 遠回し。仄めかし。気付き。
 それが我が家の習い。

 でも、どうしてそんなことを言うのだろう。
 オレが万引きなどをする奴だと、お袋が仮初にも思っている? 
 父はその時は黙っていたが、その雰囲気で父も暗黙の内に同じ意見をオレにしたかったのだということが<分かった>。
 それに、そもそもテレビ番組の選択には煩(うるさ)い父なのだ、他に父の興味を惹く番組があったのに、殊更、つまらない、地味な番組を選んで、じっと観ていたってこと自体も不可解だ。

 でも、どうして。
 オレが万引き?

 それから何ヶ月が経ったろうか。
 ある日、目覚めた瞬間、オレは思い当たることがあることに、気付いたのである。

 そうか、あのことか! あの行為が勘違いされたのだ!

 それは、テレビで万引きの特集を放映する前日か前々日のことだった。
 オレはお袋に貰ったデパートの商品券を手に街中のデパートへ向った。
「自分はもう、何も買いたいものはないがやし、せっかく、姉(ねえ)ちゃんに貰った商品券だけど、使う当てもないし、雄介、使われや」
 姉ちゃんとは、オレの姉のことだ。
 オレの父母の家庭が乏しい年金だけで暮らしていて、生活に窮していることを知る姉は、時折、こっそり援助してくれている。
 直接、おカネという形を採らない。惣菜の類いを作って持ってきたり、珍しいお菓子があるからと言っては持ってくる。時には着るものも、何かに事寄せてプレゼントする。
 父母の家の庭に採れる、ナスやタマネギやダイコンなどを貰っているから、そのお礼、なんて言いながら、その倍返しをしているわけだ。
 
 一方、オレはいい年をしていながら零落の限り。本当なら長男のオレが父母の生活の面倒を見なければいけないのに、自分の生活で手一杯。
 借金を返す…、せめて借金の額を増やさないってのがせいぜいなのである。
 これも若い頃、田舎の家庭のことなど顧みないで遊びまわっていたツケが回ってきたのだと、自分では納得はしているけれど、肝心の時に無力な自分が情けなくてならない。
 そんなオレの窮状も姉は知っている。
 さすがに直接はオレに援助などしないけれど、オレが田舎に帰ってきた折には、食事に誘ったり、田舎を去る際にはお土産など呉れたりする。

 そして、姉がお袋へ渡している商品券も、お袋が元気で動き回れる時は、バスに乗って繁華街にあるデパートへ行き、必要なもの、買いたいものを得るために使っていた。
 それが、今では体の自由が利かなくなっている。
 車椅子がないと動けない。
 父が車を運転できるわけでなし、そもそも我が家には車なんてない。
 父がお袋の代わりにデパートへ行くって手もありえるが、お袋が欲しいものなんて、父には見当も付かない。
 それに、建前上は、お袋が姉にこっそり貰っていることになっているから(その事実は知っているけれど)、父が商品券を手にデパートへ行くなんてことは、形としてありえないわけである。
 
 その商品券が母を介してオレに渡ってきたというわけである。
 オレにだって意地がある。田舎の両親に仕送りができないまでも、少なくともこの期に及んで父母に援助などされてたまるか!
 それでいて、オレの懐具合は切羽詰っていた。仕事は開店休業状態が続いていた。自転車操業というのか、ただ動き回っているだけと言っても過言ではなかった。
 お袋が貰った商品券をオレが使う!
 誰がそんなことを!
 
 それでいて、商品券を手にデパートへ向うオレがいた。

 オレは古びた自転車を駆りながら、何を買うべきか、全くアイデアが浮ばなかった。
 お袋がこれで何か、必要なものを買いなさい、なんて言うから、後を押されるようにして家を出てきたけれど、頭の中は全く動いてくれなかった。
 自分のものを買うべきか、お袋や父のものを買うべきか。
 それとも、台所が火の車なのだし、貯蔵できる食料品でも買ったほうが、よほど有効な使い方なのではないか。

 考えはまったく纏まっていなかった。
 姉は、我が家に来た折に、どういう話の脈絡でだったか、もう、秋だし、秋物のシャツなんて買ったら、なんて俺に向かってというわけではないが、言っていた。
 それは示唆であると同時に、そのように勧めているのだということは痛いほど分かった。

 確かにオレの着ているモノは、新しいものでも買ってから数年、中には十年以上も昔、買ったか貰ったか(姉に!)した衣料品がほとんどだった。靴だって踵も磨り減り、色も褪せて、公の場所に履いて行くのは気恥ずかしいようなもの。
 日頃、口に入るものしか買わないことに決めているのだ。
 正直、不要不急のものは買えないのだけれど。
 下着でさえ、磨り減っていて、透けて見える。
 
 デパートで久しぶりに秋物のシャツでも買うか。
 
 けれど、オレにはデパートは鬼門だった。
 あまりに商品が豊富すぎて目移りする。
 眩暈が起きそうになる。
 館内の明るさに圧倒される。
 数多いデパートガールの視線が気になる。
 紳士服の数々を見て回る…けれど、値段に圧倒される。
 値札の桁が違う!

 オレは紳士服の階を逃げるようにして立ち去った。

 向った先は、デパートの書籍コーナーだった。
 デパートの書店など、あるだけだというものだということは、世間知らずのオレだって知っている。
 まして、商品券で今更、本を買ってどうする!

 オレの目は泳いでいた。つまらない本ばかりが並んでいて、気を惹くものがない。その前に、本を買うためにきたんじゃないという気持ちもある。
 
 この書籍売り場での、買うような買わないような、不審な行動が万引きと誤解された?
  
 そんなことはないはずだ。オレは、本に関してはプライドがある。どんなに本を大切に扱うか。大切な蔵書とするには、万引きなどで得るなんて論外なのだ。

 買うべきか否か。迷った挙句、訳の分からない本を買ってしまった。カネが有り余っていたって買うはずのないような本を手にレジに向っていたのだ。
 選択の余地がなかったとはいえ、オレは打ちひしがれる思いで一階へ降りていった。
 
 一階には化粧品コーナーが大きく取ってある。出入り口へ向うには、化粧品のコーナーを抜けるしかないのだ。
 化粧品などに興味はなかった。お袋に、小物か化粧品でも?
 オレに、どうやって選べというのか。
 お袋がどんな化粧品を使っているか、オレが知っているはずがない。
 
 その時だった。ひしがれるようにして玄関口へ向っていたら、綺麗なチラシを見つけた。化粧品の宣伝のためのチラシで、色使いも豪奢なら、モデルとなっている女性も選びぬかれている。
 
 そう、オレは、デパートに入って化粧品コーナーを抜け、エスカレーターのほうへ向う際に、そのチラシを目にしていたのである。
 欲しい!

 チラシなど、どうでもいいようなものだが、デパートまで来て、買うものが見当たらなかったオレは、せめてチラシだけでも得たいと思った。
 躑躅(つつじ)色というのか、それとも、薔薇色(ばらいろ)、いや、あれこそが臙脂(えんじ)色と表現すべき色に思えた。チラシは紙質も贅が凝らされていた。表面の光沢が一層、豪華さを際立たせていた。
 しかも、幾重にも織り込まれているので、チラシの中を開いて覗いてみたいという欲求が掻き立てられる。

 化粧。現実と非現実のあわいを自在に往還する不可思議の術。
 
 オレは平積みにされていたチラシを化粧品コーナーを立ち去る間際に手に取った。
 そうして、手にしていた買い物袋の中へサッと放り込んだ。
 男が、そんな化粧品のチラシなどを手にする…。そんな姿を見られるのが恥ずかしくもあったのだ。
 
 その瞬間、近くにいた誰かの視線を感じた、気がする。
 ロマンスグレーの髪の男とその妻だったろうか。チラッとオレの仕草を見たようだが、すぐに目を逸らし、見てみぬ振りを決め込んだ。
 オレにはそのように思えた。

 そう、目覚めた瞬間、あることに気付いたこととは、この一瞬の場面のことだった。
 それ以外に思い当たる節はオレには思い浮かばないのだ。
 
 オレは徹底して孤立した生活を送っている。誰も友と呼べる者がいない。誰もオレの人間性を裏書きしてくれる人などいない。東京では、尚更、オレは他人と関わらない生活を送っている。
 そんなオレが、一旦、何かの折に誤解などされようものなら、誰がオレのために弁解などしてくれるだろうか。万が一にも噂が立ったなら、その火の手は一気に周囲を嘗め尽くしてしまい、オレは孤立どころか、風前の灯と化してしまう。

 オレは用心に用心を重ねて暮らしているのだ。誤解されないよう、誤解どころか、他人に一切、関心自体、抱かれないよう、ガキの頃から見につけた隠遁の術を駆使して、息を潜めるようにして暮らしているのだ。
 
 万引きをしないのは勿論、誤解の余地のありそうな行動は一切、慎んでいる。
 オレは誰とも関わりを持つことなく、消え去っていく。
 それだけで十分、満足なのだ。

 なのに、お袋は、オレに「万引きをするな」と意見する。
 ああ、お袋はオレを万引きをするような奴だと思っていたのか。生活が苦しいからと、人様のモノを盗るような真似をするやつだと思っていたのか。
 オレは蓑虫。オレは貝。
 中身はブヨブヨの軟体動物。
 デパートの中では仮死状態となり、棺の中に閉じこもっている。

 だからこそ、蓑を厚くしている。界の蓋を固く閉ざしている。誰にも容喙されることのないよう、介入の口実を与えることのないよう、自分を徹底して厳しく律している。風波の立つことのないよう、息さえ潜めている。存在をこの世から消し去っている。
 風にさえ気付かれることなく来たり、影さえ寄り添うのを躊躇う日々を送っている。
 そのオレが、万引きだと!

 が、所詮は悪夢だった。しかも、目覚めてからの悪夢なのだった。
 誤解にしろ、デパートで<万引き事件>があったことをお袋らがどうして知るはずがある。事件にすらなっていない。そもそも何も起きてはいなかったのではないか。

 そう、何もなかったのである。

 胸につっかえてきたモノは一体、何だったのだろう。
 目覚めた瞬間、気付いたこととは一体、何だったのか。

 ああ、悪夢。
 しかも、目覚めてからの悪夢!
 悪夢ですらない悪夢!

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