とうせんぼ
ボクはあの人に会いに行った。
まだ暗いのに、ふと目覚めた。
ここは何処?
そうだ、ボクは、大学生になって初めて帰省し、家の奥の部屋に寝泊りしていたのだった。
胸がわけもなく高鳴っていた。
苦しいほどの鼓動。
せっぱつまっている。
会いにいかないといけない。
分かったのはそれだけだった。
フトンをはぎ、こっそり家を出た。
春の朝。
寒いのか暖かいのか分からない。
家の庭の梅が昨日から咲き始めている。
でも、街灯の光を避けるように、固く閉じたままの蕾も見える。
真っ暗だった。月も星もない夜明け前。
家の裏の街灯がなかったら歩く気になれたかどうか。
どうしてこんな時間に家を出る?
もう少し、待ったら?
それでも足は止まらない。
行くしかない。
あの人に会いに行くしかない。
でも、ボクはあの人の住む町が何処にあるのか知らない。
一体、どっちへ向かえばいいのか…。
とにかく山のほうへと向かう。
まるで坂道を転げるように足はそっちへ向かう。
ボクの気持ちなんかそっちのけで何かがボクを導く。
小高い丘のような山。朝日が背後から昇り始めている。
陽が山並みの輪郭をきらめかせている。
あの人はあのふもとにいる、のか。
ボクは大きな河を渡った。長い長い橋を越えて。
収まっていた胸の動悸がまた高鳴り始めた。
近い証拠だよとでも告げるように。
でも、見知らぬ町のとある一角でボクは途方に暮れた。
この近くにいる。この近くにあの人の家がある。
この近くにあの人がいる!
分かっているのに、ボクは、途方に暮れている。
ボクはどうしたらいいのか。
ボクは明け染めていく町の中で立ち尽くしていた。
すると、犬を連れた女の子の姿が見えた。
犬と一緒だけど、あんな小さな女の子が一人で散歩だなんて、大丈夫なんだろうか。
声を掛けたかった。でも、見知らぬボクが声を掛けるわけにはいかない。
ただただ女の子の後姿を見送るだけ。
無事に帰ることを祈るだけ。
そう、あの人の無事を祈るように。
やがてあの子は町角に消えてしまった。
ボクには何も出来ない。
あの人にボクが無力だったように。
それにしても、あの子、消える間際、犬の背に乗っていたような…。
まさか、そんなはずは…。
「お兄ちゃん、あっちよ」
いきなりだった。背中から女の子の声が聞こえた。
振り返ったら、そこにはさっき消えたはずの犬がいるじゃないか。
いるのはゴールデンレトリバー犬だけ。女の子はいない。
「誰? 誰がボクに声を掛けたの?」
ゴールデンレトリバーは、ただ近くの電柱の根元を嗅いでいるだけ。
気のせい?
でも、確かに女の子の声が聞こえたのだ。
ボクにはあっちがどっちなのか分からない。
途方に暮れるばかりだった。
仕方なく、歩き出そうとした。
すると、犬がボクをとうせんぼする。
犬はボクと同じくらいに大きい。追い払うのも怖い。
ボクは立ち往生してしまった。
「そっちじゃないの、こっちなの?」
また、後ろから女の子の声が聞こえた。
ボクは犬が声を出したのじゃないと分かって安心した。
女の子、かくれんぼしてるんだな。
イタズラな子。
でも、振り返ると、誰もいない。
裸の桜の幹の陰に誰かいるような気がした。
それとも、誰かの家の庭の御影石の後ろに。
いない! 誰もいない!
目を凝らしてみても、人影のない、寂しい町並があるだけ。
「だめね。あたいが教えてあげる!」
また、声が背中から聞こえた。
振り向いてみると、さっきいた犬の姿はない。
だけど、今度は女の子がいた。
「教えてあげるって、ボクの行き先、知ってるの?」
「ウン」
「でも、知らない人についてっていいの」
「いいの。知らない人じゃないもの。」
ボクは女の子の顔をジッと見た。
全く知らない子だ。会ったことなどないはずだ。
なのに、女の子は平気でボクの目を見つめていた。
そしてくるっと背を向けると、さっさと歩き出した。
ボクのあの人の家を知っている? どうしてあの子が?
疑問は膨らむばかりだった。
でも、女の子のあとをボクは黙ってついていくしかなかった。
女の子の歩く先には常緑の木々が鬱蒼と生い茂った森が見えた。
一体、何処へ向かうのか。
どれほど歩いたろうか。
女の子特有の細い髪の毛が揺れる。背中が汗に濡れ始めている。ふくらはぎの肉付きがいい。
ふと、女の子がホントは大人の女なのではないかと思える。
けど、間違いなく女の子だ。あの目、あの髪、あの足、あのお腹、そしてあの声。
ああ、あの声。絶え入る間際の…。
気が付くと、遠くに見えたいたはずの森の真っ只中にいた。
「ここよ。」
「えっ、ここ?」
ボクは周囲を見回した。思い当たるものなど何もなかった。忘れていた何かが蘇ることもなかった。
「覚えてないの?」
ボクは返事のしようがなかった。
「そうよね。ここはあなたのお父さんがわたしを…。」
「えっ? ボクの父さんがキミを? キミをどうしたの?」
女の子は、ボクをジッと見つめるだけだった。
「あそこにある祠、覚えててね。十五年前よ。」
それだけ言うと、背を向けて、また、歩き出した。
女の子の背を眺めながら歩くしかなかった。眺めているうちに背中が段々大きくなるような気がした。
終いには眼を女の背が覆いつくすほどに感じられた。汗の匂い。化粧の匂い。
そして黒い血の匂い。
ボクは思い出されてきた。そうだ、昔のボクはあの森に行ったことがある。誰かを誘い込んだことがある。そして終わったあと、埋めてしまった!
違う、それはボクじゃない。ボクのせいじゃない。やったのはボクなんかじゃなくって、違うボクだ。
逃げたくてたまらなかった。今なら逃げられる。今なら女の子を振り切ることもできる。
けれど、足は勝手に動くのだった。女の子のあとに付いていくのは運命だった。目覚めた瞬間から決まっていたことだったのだ。
世界は時計仕掛けなのだ。ボクは定められた運命を生きているに過ぎないのだ。急な坂を転げるようにあの深い森へ、深い淵へ、深い闇へ堕ちていくしかないのだ。
ボクは真っ赤に明け切った空を見上げようとした。煮えたぎるように萌える紅い花を求めた。大地の精の出現を夢見た。
だめだ、そっちへ行っちゃ、いけないんだ。
が、声にならない。声が出ない。息するのも辛い。喘ぐような、掠れた音が喉の奥で反響しているだけだった。
ひくひくする。涙が鼻の奥から喉へ流れ込む。
また、同じことをやってしまう。幾度、同じ過ちを繰り返したらオレの気が済むのか。
声が裏返るとボクはオレになる。オレが姿を現す。オレは世界を睥睨する。世界とは土。世界とは風。世界とは海。世界とは空。
世界とは目の前のお前だ!
オレはお前に向かっていた。行く手をさえぎられた女の子が弱々しげな笑みを浮かべていた。恐怖するのも忘れていた。世界が仮面を被ることがあるとはいたいけな女の子に分かるはずもない。
仮面を剥ぐ。それはお前を剥き出しにすること。自分が剥き出しになること。世界が和解すること。純なる時の誕生に立ち会うことだ。
オレはそのためにここに来たのだ。
そうだ、あの町角だったら、お前はまだ逃げられたのだ。なのに、とうせんぼされたお前はオレに手を引かれて森の奥へと来てしまった。お前の守り神のワンちゃんは、一足お先に逝っている。お前の到来を待っている。腰を下ろし、尻尾を振って、目は無邪気に笑みを浮かべて。
まるで今、そこにいるお前のようだったよ、末期の奴は。
ああ、あの人は何処にいるのだ。お前はあの人の行方を教えてくれるはずじゃなかったのか。なのに、一層深い闇へとオレを導いただけじゃないか。その報いは受けるしかない。
オレはあの子を下にしていた。あの子の目を見ていた。
覚えている。そうだ、間違いない。あの日、あの時、あの場所でみた父の目だ。父さんは、あの日、この森であの子を。
ボクは物心も付いていなかった。それをいいことに、父さんはあの子を。
あの子は神隠しにあったようにその日を最後に消えてしまった。行方を知っているのは父さんとボクだけなのだ。
オレはあの子の目に見入ったままだった。目は刃となってあの子を突き刺していた。笑みは消えていた。命さえ消えかかっていた。知らぬ間にオレの手があの子の喉輪を締め付けていたのだ。
嫌だ、オレはこんなことをしたいんじゃない。
「じゃ、どうして?」
オレはあの日のことを掻き消したいだけなんだ。
「あたしが死んだら、あなた、助かるの?」
分からない。オレはもう堪えられないだけなんだ。
喉輪を締め付けるほどにオレの逸物が猛り立っていた。一切のタブーが破られている。一線を越えた瞬間、世界はパンドラの函の蓋が開いたように、花咲く野になっていた。オレンジ色の菜の花が咲き誇っていた。オレは菜の花畑を見るのは死者ではなく、死者を見送る者なのだと初めて気が付いた。そうでなかったら、三途の河原の様など、誰が伝えられようか。末期の時を自覚した目に菜の花が咲くのだ。
女の子の首が捻じ切れそうだった。
もう、自制などできるはずもなかった。溢れ出す欲情がオレの体を溺れさせ息を奪い、煮えたぎる紅い海の底に沈めようとしていた。女の子の口や目や鼻から血が漏れ零れてくる。
いよいよだ。最後の時だ。どうにもならない。どうなろうと構わない。一切が許されるのだ。一切のモノの箍が緩みきっているのだ。漲る情熱に敵うモノなどこの世にあるはずがないのだ。
その瞬間だった。黒い影が動いた。見ると、犬が飛び掛ってきて、愉悦の末期をとうせんぼするかのようにオレを押し倒したのだった。
「お前は、もう、死んでいるんじゃ…。」
見ると、女の子の姿は消えていた。森の樹木だって一本もない。
犬はオレの上に圧し掛かった。妙に生暖かな体が気持ち良かった。
でも、犬はやがてボクの上に跨って、オシッコをシャーシャーと気持ちよく飛ばしているのだった。
オシッコをしているうちに段々、犬は熊に姿を変えていった。
熊! どうして?!
ボクは目覚めた。
跳ね起きた。フトンの上のパンダの縫いぐるみがごろごろ転がった。
下のほうが熱い! 濡れている。
ああ、18歳にして、寝しょんべんだ!
パンダの縫いぐるみなんかと寝るんじゃなかった。
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コメント
ボクもの、オレもの・・・
「ボケもの」もあるんですね(^。^)
なるほど、こういう分類だったんですね~。
投稿 なずな | 2006/03/08 01:05
「ボケもの」…小生の大好きな路線です。
「ボケもの」の原点(?)は以下の作品です。感想、欲しいなー:
「ふでおろし」
http://homepage2.nifty.com/kunimi-yaichi/essay/hudeorosi.htm
投稿 やいっち | 2006/03/08 08:28