夜明け前
ボクの一生が決まったのは、あの日だったような気がする。
でも、何があったわけじゃない。
きっと、昨日と同じようなありふれた日だったのだろう、みんなには。
あれが始まったのは、夜明け前頃だったと記憶する。
あれ…。
あれと言っても、そう、口じゃ表現できない、不思議な感覚。
むしろ、気づいた、と言うべきかもしれない。
それは地上にポッカリ空いた穴。
みんなが地上の世界にいるのに、ボクだけ穴の中にいる。
穴の底からみんなを見上げている。
みんなは?
みんなは穴があるなんて気が付いていない。
まして、穴の底にボクが落っこちたままだってことに気が付くはずもない。
そう、だから、ボクが孤独なのも仕方がないと諦めていた。
でも、違った。みんなは穴の存在に気が付いている。分かっている。
だって、穴の傍に来そうになると、なんだかんだ言って、そこを避けていくじゃないか。
ボクはそこにるんだよ。ああ、もうすぐじゃないか。あと一歩、そのまま歩いてくれたら、もう、ボクの真ん前のはず。
なのに、誰かが、あ、忘れ物した! とか、用事を思い出しちゃった! とか、さも当然のように、穴を避けていく。避けるだけじゃない、遠ざかっていく。
ボクはここだよ。ここにいるよ。
昨日、そう、あの夜明けを迎えた前の日、ボクはみんなのほうへ近付いていった。誰も来ないんだったら、ボクが行くしかないじゃない!
同じだった。潮の引くように、みんな、さーと引いていく。引き遅れた潮は、浜辺の端っこで慌てて、そうして水溜りになり、渦を巻き、やがて砂に吸い込まれていく。陽光に蒸発していく。
残ったのは痕跡だけ。みんながいたという余韻だけ。木の葉が一枚と、空っぽのビニールの袋と、潮騒の音だけ。
そこには穴が開いている。一緒には居られないから、せめてボクにその穴に潜れっていうこと? 穴で戯れていろっていうこと?
たださえ、穴の底から狭い狭い空を見上げるばかりのボクが、またみんなの作った穴に埋まれっていうこと?
姉ちゃんが来た。ボクの世話をしてくれる。誰もが他人行儀なのに、姉ちゃんだけは違う。姉ちゃんは橋だ。ボクとみんなとをつなぐ橋なんだ。
ねえ、みんな、この子と遊んでやってよ。
ああ、姉ちゃんはどうしてそんなに勇気があるんだろう。みんなが毛嫌いしているボクを、そのボクをみんなに売り込んでくれる。ボクだってみんなの仲間の輪に入りたいんだって、入って、みんなとはしゃぎたいってこと、分かってくれる。
一人で居るのは好きじゃないんだ。穴の中にいるのは、生まれつきで、どれほど抜け出したくて足掻いたか、どれほど夜毎に泣き暮らしたかしれないんだって、もしかして、姉ちゃん、気が付いていたんだろうか。
ボクは臆病者。自分が一人ぼっちだってことに気が付きたくないほどに。
泣くときは、惨めだから忍び泣く。しくしく泣く。布団の中で、ね。
だから、父ちゃんにも母ちゃんにも姉ちゃんにもボクが泣き暮らしていることは内緒のこと。誰も知るはずがないんだ!
でも、姉ちゃんは隣で寝てるんだものね、気づかないわけがないんだって、間抜けなボクはずっとずっと後になって気づいたのさ。ボクは自分のことで一杯で、まわりのことに、それどころか姉ちゃんの気遣いにさえ、気づかないできたのだった。
あの日、姉ちゃんは、近所の兄ちゃんたちと喧嘩したらしい。
らしい、だけで、誰も教えてはくれない。姉ちゃんも黙っている。
それでもいつかしらみんなの雰囲気や言葉の端々で、鈍感なボクだって分かってくるものさ。
ボクは、この子は、こいつは、みんなと同じなんだって? 同じじゃないさ! どう見たって違うじゃないか!
同じよ! 仲間よ! 言葉をうまく喋れないなんて、どうってことないじゃない! 顔が変だって、どうってことないじゃない!
姉ちゃんは一人でみんなと絶望的な戦いをした。で、負けた、らしい。
そう、ボクに分かるのは、らしいってことだけ。
真実なんて、誰も知らない。姉ちゃんだって、当時は小学校に上がったばかりで、夢中だっただけのようだし。
近所のガキ仲間の中に起きた波は、ただの細波だった。一瞬にして大海の波に呑まれていった。
いや、姉ちゃんは勝ったのかもしれない。
ある日から、みんなの様子が変わったし。ボクは仲間の輪に加わったようだし。
違う、加わった真似をしただけ。
ボクだって懸命だった。姉ちゃんに不毛な苦労をさせるわけにいかない?
そんな殊勝なことを考えるガキじゃない。
ボクは、仲間になったと思い込みたかっただけなのさ。金魚のウンコになったのさ。
それでも、世界の端っこに居所を見つけたような気がしたし。
ボクは…。ボクはというと、鳴門の渦潮に呑まれるばかりだった。渦は海にあるものって、みんなは思い込んでるんだろうな。
でも、ボクには渦はそこらじゅうにあるもの。渦を巻いて風が全てを吹き飛ばしていく。何もかもを遠ざけていく。渦を巻いて地が裂けていく。ボクを呑み込んで地の底へ引きずり込んでいく。
空の高みの眩しさと、地の底の闇の温みとがボクの全て。
あの夜明け前、ボクは何に気が付いたんだろう。
とにかく、ボクは何かに気が付いてしまった。
ボクは決めた。ボクのために姉ちゃんまでが孤立しちゃう。そんなこと、許されない。許すわけにいかない。
ボクはだから決めたんだ。姉ちゃんは姉ちゃん、ボクはボク。
ボクは、独立する。ボクのために誰も犠牲になる必要なんて、ない!
ボクは、あの夜明け前を最後に泣くことをやめた。
泣くことをやめると決心した。
布団を引っかぶって、そうして体を縮めて、蓑虫になった。貝の身になった。世界とボクは分かれた。ボクはボクだけの無意味を生きる。
世界は、そう、どうぞ勝手にやってくれ! だ。
そう、思った瞬間から、ボクはずっと楽になった。人へも世界へも、風にも木にも、あの空にも、海にだって、山にだって、別れを告げたのだ。
想うタネが一切、消え去ってしまった。沈黙があるだけだった。哀しみも喜びも消え去った。闇さえ遠ざかってしまった。あれほどボクに寄り添っていた闇だったはずなのに。
永遠の穴が開いているだけ。空っぽ。
空っぽさえもない。ボクは何も感じない。
そうしてボクは、あの日から幸せになった。何一つ、わずらうことなどないのだから、これほどすばらしいことがあるだろうか。何一つ、人と分かち合うものがない、この幸福を誰に告げよう!
あれから、あの夜明け前の瞬間から、何年が経ったろうか。
数年? 十数年? 数十年? 同じことだ!
透明なパイプの中をボクは今も滑っている。滑らかだ。ざらざらしたところなど、何一つない。手応えなどない。
はるか遠くに光明が見える。眩しい光の点が迫っている。穴の底の底に近付いているってことなんだろうか。
全てはもうすぐ終わる。至福の時も終わる。
ああ、あの夜明け前に覚えた不思議な感覚。空白感としか言いようのない、眩暈のしそうな、金属音が遠くで鳴っているような、それとも風が唸っているだけのような、限りなく透明な感覚。
ボクはあの感覚に魅入られてしまったのだ。
この世を失っても、世界を手放しても、世界に見放されても、あの不可思議な感覚の魅力には勝てない。
それにしても、ボクは一体、何処にいるんだろう。
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