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2006/01/22

たき火

「ただいまー」
 玄関でそう、叫んでも薄暗い廊下の奥はシーンと静まり返ったまま。
 ランドセルを玄関の隣の座敷に放り投げて、家の裏手に回ってみた。
 昨夜、降った雪が日中の天気に溶けてしまって、納屋や土間の隅っこに点々と残っているだけ。
 田んぼにもまだらに雪が残っていて、なんだか田んぼが真っ黒に見えてくる。

 あれ、誰もいない。
 父ちゃんは仕事だから仕方ないけど、ねえあんもおかんもいないのはどうして?

 仕方なく、仏間の裏のぬかるむ砂利道を駆けて、ボクらのたまり場へ向かった。
 だけど、そこにも誰もいない。
 いつもはいるはずの近所の兄ちゃんは、今年の春は中学に上がるとかで、遊んでられないなんて。
 お父さんの都合もあって、中学は他所の県だとかって…。

 他のみんなは、何処へ行ったんだろう。
 また、みんなして何処かに集まってゲームしてる?

 ボクは原っぱの隅の土管に腰掛けて、暮れていく空を眺めていた。
 そのうちに、きっと誰か来る。

 でも、ボール遊びも何もできそうにないほど暗くなっても、とうとう誰も来なかった。
 ひとりぼっち。おいてけぼり。

 そうだよな。ボクなんかいなくたって、みんなそれぞれに楽しみがあるんだ。
 
 じゃ、ボクにはどんな楽しみがあるんだろう。
 遊んでもらうのが楽しみなのに、相手にされなかったら、ボクは途方に暮れるだけだ。
 
 ああ、なんてボクってつまらない奴なんだろう。いなくたって、みんな大丈夫なんだ。
 みんな…、あっちを向いている。そっぽを向いている。

 ボクは土管に腰掛けていて、すっかり腰が冷えてしまった。
 ボクは動きたいんだ。ただ、わーわーって、やりたいんだ。
 
 すると、原っぱの隅に木の柵の残骸が落ちているのが見えた。
 土管から降りて、拾い上げてみる。
 それはちょうど刀ほどの長さの棒っ切れだった。
 いい。刀だ。

 ボクは宙を切ってみた。
 ビュッ! ビュッ!
 いい音だ。
 でも、味気ない。
 ボクは土管を叩いてみた。
 カーン、カーンと耳に痛いほど音が響く。

 でも、音はすぐに消えていく。宵闇が音を飲み込んでしまうみたいだ。
 ボクは木偶の坊の自分を感じていた。
 ボクは遊んでもらわないと何もできない奴なんだ。
 ボクだけじゃない、みんなも。
 そう、兄ちゃんがいなくなったら、ボクらはみんなバラバラになってしまう。

 空を見上げてみた。空っぽすぎるような気がした。何もないんだ。石を思いっきり投げても、何処へも届きゃしない。誰も拾ってくれない。誰も、コラーと叱ってもくれない。投げたボールは、最初は勢い良く飛ぶけど、そのうち地面にパンッて落ちて、あとはトントンと転がり、やがて在り場所も分からなくなる。
 一人じゃ、誰も投げ返してなどくれない。

 ボクはたまらなく退屈になって、棒っ切れを放り投げてしまった。
 いいんだ。投げやりなのはボクにお似合いなんだ…。

「おい、危なかろがいね!」
 
 あれ? 兄ちゃんの声だ。どうして兄ちゃんがここに。今頃、勉強に忙しいんじゃ?

「そうだよ。こんなもん、投げる奴、あるがかよー」
 チー坊の声だ。
 そう言いながら、棒っ切れを拾い上げた。
「そやちゃ、そうやちゃ!」
 カースケの声も混じってる。

 ああ、みんなの声だ。
 声だけじゃない、宵闇の中からみんなの姿が浮かび上がってきた。
「なんだ、こんなところで、何、やっとんがいね」と兄ちゃん。

 兄ちゃんの顔がちょっとにやついている。
 ああ、今にも泣き出しそうなボクの気持ちが見透かされた?
 ボクには返す言葉が見つからなかった。

「よお、どうだよ、みんなでたき火、しないか」
「たき火?」
「そうさ、たき火さ。ヨッチがさ、お前のかあちゃんと一緒に柿の木の枝を落としてたがやし。」
 兄ちゃんはねえあんをヨッチと呼ぶ。二つ、ねえあんが年下なんだ。
「あれ、今から燃やすんだって。」とチー坊。
「そうよ。どうせなら、お前んとこのドラム缶で燃やすより、たき火のほうが楽しかろがいね。」
 ボクが返事もしないうちに、
「おい、カースケ、チー坊、みんなしてヨッチのところへ行ってさ、枝、貰って来い。」
 と兄ちゃん。
 貰って来いとは、とにかく持って来いってことだ。
「枯れ枝とか木のきれっぱしがあったら、何でも持って来いよ。あ、それと新聞紙か何かもな。マッチも、誰か、せしめて来られや!」
 
 とうとう原っぱに枯れ枝の山ができた。あっという間だ。
 ねえあんまでが柿の木の枝だけじゃ足りないと、原っぱでせっせと枯れ枝集めしていたんだ。
 ねえあんが兄ちゃんを見る目。

「盛大にやるぜ。みんなで原っぱで遊べるのも今年限りやしな。中学へ上がったら、勉強しろって、うるさくてさ。たき火で豪勢に祝おうぜ。」
 
 何を祝うのか分からないけど、ボクはワクワクしていた。
(叱られるんじゃないの)なんて問いは、喉の奥に飲み込んだ。

 すると、まるでボクの疑問が聞こえたかのように兄ちゃんが、
「へん、どうせ、叱られるのはオラやちゃ。どうってことないさ。誰か来たら、みんな、逃げな」
 ボクには兄ちゃんが頼もしくてならなかった。兄ちゃんはボクらのボスなんだ。ヒーローだ。

「それにしても、集めすぎたかな。これじゃ、キャンプファイアーだぜ。ま、いっか。記念のパーティだ! さ、始めるぞ。マッチはどうしたがよ?」
 まるでその言葉を待っていたかのように、ヨッチが、ねえあんがマッチを兄ちゃんに渡そうとする。
「ヨッチ、お前、燃せ!」
「えっ」と、一瞬、たじろいだけど、ねえあんは素直に従った。
 マッチを擦り、新聞紙に火を点ける。
 闇の中にねえあんの横顔が浮かび上がった。兄ちゃんがねえあんの仕草を見守っている。
 そうじゃない、ねえあんの顔を見ている。
 ボクは、やっと、そうかと気づいた。たき火は口実だったんだ。兄ちゃんがねえあんを呼ぶための…。
 もしかして、兄ちゃん、ねえあんのことが好きなんじゃ…。
 もしかして、ねえあんも、兄ちゃんのことが好きなんじゃ…。

「おーおー、燃えてきたぜ。燃え上がってくるぞー。いいなー、こうだちゃ。こうでなくっちゃな。」

 カースケもチー坊も、オレンジに燃え上がる炎を見て興奮している。
 ねえあんも、兄ちゃんも、そしてボクもたき火に見入っていた。
 冬の寒空に真っ赤な炎が一人、立ち向かっているみたいだった。
 ああ、ボクにもあの炎が欲しい。
 でも、もしかして炎が欲しいって思ってるのは兄ちゃんかも。

 カースケもチー坊も、たき火に蹴りを入れる真似をしている。
「ちきしょー、敵は手ごわいぞ!」
 ゲームでもしてたんだろう。たき火を敵に見立てているんだ。

 みんなの顔が紅潮している。
 みんなの気持ちが一つになっている。
 
 なのにボクは訳もなく寂しかった。みんな燃えて灰になってしまう。消えていってしまう。燃えるだけ燃えたら、灰が残るだけなんだ。
 兄ちゃんは他所の県に行っちゃうし、ねえあんは塾とか付き合いとかで忙しくてボクの相手などしてくれないし、カースケもチー坊もファミコンとかに夢中になっている。

 燃え盛るたき火を前にボクは、まるで闇夜に取り残されたみたいな気分を味わっていた。
 でも、違う。寂しいのは兄ちゃんのはずだ。打ち明けられないで去っていく。ヒーローのくせして、弱気なんだ。
 ねえあんだって…。

「あー、くそ! サツマイモか何か、ありゃよかったがに。失敗したー。」
「何か、探して来よか?」と、ねえあん。
「なーん、いいがやちゃ。そう、思っただけだちゃ。」
「思っただけけ?」
「いいが。」
「ホントにそれでいいがけ。」
「いいがって言っとろがいね!」
 兄ちゃんは、怒ってヨッチを睨む。閻魔様の顔。
 ねえあんの顔がこわばってる。
 でも、二人とも段々、表情が崩れていって、ついにはまるで泣きべそをかいているようになって…。

 パチ、パチ!
 たき火はますます勢いを増して燃え上がっていた。
 燃えている。けれど、燃えたあとには灰が残る。みんなチリヂリバラバラになってしまう。今日の日は二度と来ない。
 いっそのこと、たき火の中に飛び込んじゃえばいい。枯れ枝を灰にするんじゃなくて、自分が灰になっちゃえばいい。
 ボクはそう思った。
 でも、そう思っただけだった。

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2006/01/16

落句拾遺1-1

 改めて…明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。
 以下、正月前半の我が収穫です。リンクは、お邪魔して句をひねって記したサイト、あるいは我が季語随筆サイトです。
 句は、句単独で味わえるのが望ましいけれど、前後の脈絡が分かればもっと深く味わえる。
 でも、ここでは句だけを掲げます。
 句作りを初めて一年と半年になる…けど、一向に成長の跡が見えない! なんて言わないで、まあ、高みからゆとりの心で詠んでみてね。
 では、いざ!

悴む手ワンちゃんの背で暖めて   06/01/02

花札に興じる声の今はなき   January 02, 2006
歌留多して決まって最後は口げんか
歌留多より花札よりも餅がいい
読初と居眠りだけが生活だ
読初のはずが気が付きゃはっと覚め

息をする音のみ友の冬の夜   06/01/03

雪深き襖の裏の人恋し   06/01/03

餅食って腹にもたれて寝正月   06/01/05
犬抱けば邪魔にされての不貞寝かな   06/01/05

生きている音の響きの懐かしき   January 05, 2006
音と音重ねる時の終わりなく

初鏡覗き見る我睨む君   January 06, 2006
初鏡見る見るうちの他人顔
化粧して初めて心寛(くつろ)げる
はがれない化粧を素顔と君の言う
初鏡想い描く人誰でしょか
目の奥の瞳さえもが鏡張り

帰り来てドアを開けるも寒の内   06/01/07
からんじゃう絡んで欲しくて冬の道   06/01/07

粥作る母の姿も湯気混じり   06/01/09

春探す吐息の白さ見つめつつ   06/01/10

賀詞交わし手を握っての年初め   06/01/10

嫁が君見たはずなれど夜目が君   January 14, 2006
嫁が君かく呼ばれても君は君
嫁が君居れば邪魔だしなきゃ寂し
嫁が君招かれざるを知って出る?

寂れゆく町と共に我も生く   06/01/15

元朝を椅子で迎えて日の目見ず   January 15, 2006

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2006/01/15

冬 の 灯 火

此の恐しい山蛭は神代の古から此處に屯をして居て、人の來るのを待ちつけて、永い久しい間に何のくらい何斛かの血を吸ふと、其處でこの蟲の望が叶ふ。其の時はありつたけの蛭が不殘吸つただけの人間の血を吐出すと、其がために土がとけて山一ツ一面に血と泥との大沼にかはるであらう、其と同時に此處に日の光を遮つて晝もなほ暗い大木が切々に一ツ一ツ蛭になつて了ふのに相違ないと、いや、全くの事で。

 俺はふと、泉鏡花の高野聖の一節を思い出していた。昔は泉鏡花を毛嫌いしていた。そのくせ、何度となく鏡花の作品を読み直していた。難癖をつけてやるんだと自分に言い聞かせて。全く、若気の至りと言うのも恥ずかしい。
 でも、御蔭で、思わぬときに鏡花の小説の一節が口を突いて出たり、そうでなくとも、印象的な場面がまるで自分の経験かのように脳裏に浮かび上がってくる。
 なんだ、ミイラ取りがミイラに…のたとえじゃないけれど、俺は鏡花の世界をずっと彷徨ってきただけじゃないか。一歩どころか半歩も食み出すことが出来なかった。俺が鏡花を訳もなく毛嫌いしていたのは、もしかしたら彼の世界に何か同質なものを感じていたからなのか。奴のおどろおどろしい世界。血と黒い虫と山蛭と…。

 そうだ、俺は中学の頃、初めて鏡花の小説を読んだ時、既にこの日を予感していたのだ。俺はどんなに頑張っても鏡花の手の内から飛び立つことはできない、と。
 俺が早々と文学を捨てたのも、奴の世界を乗り越えるなど出来ないと悟ったからではないか。決して、奴の文学が紛い物だと思ったせいではない。けれど、俺は、奴の小説など認めないと懸命に、依怙地になって思い込んできた。
 俺が女の体を求めたのは、俺が臆病だったからかもしれない。数々の女を抱き、そして捨ててきたのも、俺は人生を鏡花より知っていると自惚れたかったからに過ぎない…のでは。捨て去る苦味と快感を得るためだけではなかったのか。

 そして今も目の前には、何処で拾ったのかさえ覚えていない女が横たわっている。際限もなく責め苛んだ挙げ句、俺はへとへとになって青い天井を見上げている。女は、女の奴は…スヤスヤと寝入っているではないか。
 俺は一体、女を責めたのか、それとも狐に化かされただけなのか。馬鹿にだけはされたくない。女になど蔑まれたくない。どうして女って奴は、終わりがないのだ。俺が我慢の極で行き果てた時、女が微かに笑ったのを俺は決して見逃しはしなかった。奴は笑った。何を笑った? 俺の愚かさをか。
 あの安らかな眠りはどうだ?! まるで俺が優しい男であるかのようじゃないか。俺が女を愛したかのようじゃないか。ホトが腫れぼったくなるほどに弄くったのに、俺は途方に暮れている。行き場を失って、何をする当てもなくなっている。凶暴なほどの欲望の滾りが尽き果てると、後に残ったのは魂の抜け殻となった木偶の坊の俺だ。

 部屋の明かりを消した。

 すると、暖炉に見せかけた暖房装置から溢れるオレンジ色の光が部屋一面を満たした。俺の肩や胸を染め、女の横顔を温めている。窓のカーテンの隙間から青白い光が漏れ込んでいる。
 ふと、路地裏のスナックの前に立つ女の姿を思い出した。俺より先に出たのだ。店で声をかけたけれど、曖昧な笑みを浮かべるだけで、すぐに席を立ってしまった。振られたのだと思っていたのに。
 軽く促すと女は黙って俺についてきた。北の町の者だと女は言っていた。雪は既に小降りになっていた。雪の道を歩いた。どうして女は俺について来るのだろう。ついて来たらダメだと言ってやりたい。でも、言えなかった。澄んだ紺碧の空は雪明りに溶け込んで何処か幻のような雰囲気を与えてくれた。そう、これは本当のことではない。夢の世界の出来事なのだ。雪が醸し出す冬の灯火は、俺に実感を与えてくれない。ああ、また、同じことを仕出かしそうだ。誰か止めてくれないか…。

 やがて俺達は、濁ったピンク色のネオンサインの燈る宿に入った。
「わたしだって…」そう、女が言ったのは、どの辺りを歩いていた時だったろう。
「あなただけじゃないの…」
 一体、どういう意味で言ったのか俺には分からない。呑めないはずの酒に俺は誑かされていた…とは思いたくない。雪より白い肌に俺は呆気なく溺れた。灯りを煌煌と照らした部屋で、俺は得たいの知れない虫けらを追いまわした。俺の脳髄に張り付くナメクジのような虫。それとも俺の背中に棲み付いて離れない蛭。女の腹を嘗める舌は、まるで俺のものではないようだった。ガキの頃にドラッグに嵌った時に見た、蕩ける肉片だった。脳髄がツーンと痺れていた。耐え切れないほどの快感。気が狂うほどの恍惚。この世の悦楽の極。やがて垂れ滴ったその肉の塊から白く輝く骨が突き出てくる。俺は裂けて砕けた骨の切っ先となっていた。尖った刃は女の白い肌を辺り構わず辿りつづけた。雪の原を走るウサギ。俺は自由な獣。果てしなく広がる雪原になんというあどけない足跡なのだろう。

「なんて可愛い獣!」と叫んだのは、俺じゃなく女だった。
「俺を可愛いだと!」
「あんたは初心なのよ」
 怒った瞬間、別の一節が俺の肉を引き裂くかのように噴出してきた。もう、やめてくれ!

凡そ人間が滅びるのは、地球の薄皮が破れて空から火が降るのでもなければ、大海が押被さるのでもない、飛騨國の樹林が蛭になるのが最初で、しまひには皆血と泥の中に筋の黒い蟲が泳ぐ、其が代がはりの世界であらうと、ぼんやり。

 女の体は俺には森なのだ。真っ白な闇の森。昼も夜もない、妙に生暖かな大地。草、木、虫、魚、馬、猿、蛭、女…。俺はとうとう俺のやるべきことをやってしまった。俺は鏡花に嫉妬していた。まるで鏡花に勝つには女を引き裂くしかないように。白い肉。血の海。脂と髪の粘ったスープ。滅びなければならない。地球が壊れなければならない。血と泥の海の中に虫けらのように人間どもが泳ぐのでなければならない!

 気が付くと、女は何事もなかったかのように立ち去り、俺は末期の夢の変幻する天井を眺めていた。


[ 二箇所ある引用は、「泉鏡花を読む」の中の「高野聖」からのものです。ありがとうございます。

 03/02/03 22:24創作即某サイトアップ。03/02/08 ホームページアップ。06/01/15ブログサイトアップ。]

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2006/01/11

ずる休み

 朝、目覚めたら喉が痛い。
 風邪?!
 ああ、用心してたのに、とうとう引いちゃったか。オレの風邪は喉から始まる。そこから頭や額が痛くなり鼻水が出始め、文句なしの風邪引きさんである。
 その気になれば会社へ行けないこともない。デスクワークだけど、それほど人と接することもないし、マスクさえしていれば、今日一日はやり過ごせそう。
 でも、残業は…。
 残業だけはしたくない。
 そうはいっても、ノルマがある。終わらないと帰れない。体調不良だと、能率が悪そうだし、うまくいって十時か。
 会社の雰囲気は残業を断るなど論外だ。え、お前、帰るの? みんな、やってんだぜ、お前だけいい思い、するってえのか!
 だけど、今日はとうとうオレも切れてしまった。残業手当もないのに、ノルマだからって、こう連日じゃ、バカみたいだ。
 オレは休む。
 断固、休む。
 電話すべきだと思ったけれど、それも面倒になり、携帯電話で会社にメールした。
 風邪を引いたので本日は休ませてもらいます。
 文面はそれだけ。
 
 断固休む…。今は一人暮らしなので自分が決めたら、それが決定だ。ああ、自分の意思で行動が決定できる快感。
 オレはふと、ベッドの中でガキの頃のことを思い出していた。
 あれは、オレが小学校の三年か四年生の頃のことだ。夏休みの印象も濃かったから、九月だったろうか。

 ボクは寝床の中でモンモンしていた。
 どうしようか、迷っていた。
 いくべきか、でも、休みたい。
 学校へ行くには時間がない。
 さっき、おかんに起こされたのに、それからもグズグズしていたし。

 気持ちは決まっていた。
 今日は行かん! 行かんがやちゃ!
 なんてこと、おかんに言えるはずもない。
 だから、布団を頭からかぶって温もりの中に閉じこもっている。

 襖からおかんの顔が覗くのを今か今かと待っている。
 休むって、どうやっておかんに言ったらいいのか…。

 学校でのことが頭の中でワンワンしている。
 でもボクは、そのことさえも目に布団を掛けて思い浮かばないようにしている。
 思い出したくない。
 まして、あれがきっとこれからもずっと続くだなんて信じたくない。
 でも、きっと続く。ずっとずっと続く。

 ボクが学校でそんな目にあっているなんて、おとんにもおかんにもねえあんにも言えない。
 自分だって信じられない。
 何がなんだかさっぱり分からない。

 おかんには頭が痛いって言おうか。
 ああ、本当に頭が痛くなりそうだ。

 ガタ! と襖が大きく開かれた。
 たーすけ! 何やっとんだいね。起きられんがいね。
 
 ねえあんだ。ねえあんはボクと一緒の部屋で寝ている。とっくに起きて、中学へ行く格好になっている。
 おかんに言われてきたんだろう。
 そのねえあんとも、来年からは別の部屋で寝ることになっている。もう、中学生だから、ボクと一緒じゃ嫌だって、ごねたらしい。
 
 んんー…。
 ボクは何も言えないでグズッている。
 
 どうしたがいね。風邪でも引いたがけ。頭、痛いがけ。

 う、うん…。
 ボクは嘘が言えずに、あいまいに返事するしかなかった。

 ふーん、じゃ、かあちゃんにそう言うよ。

 ああ、おかんとかおとんに問いただされたら、どうしよう。
 目を覗き込まれて風邪け、なんてきかれたら、どう答えたらいいんだろう。

 すると、ねえあんが風邪薬と水を持ってきた。
 これ呑んで、寝とられって。
 あとで、おかゆ、持ってくるからって。
 わしは行くからね。
 ボクはねえあんっ子だ。なにもかも、ねえあんに頼っている。頼りすぎて、自分がねえあんがいないと一人じゃ何も出来ないことに気づいていないほどだ。
 きっと、ねえあんがおかんにうまく言ってくれたんだ…。

 呑みたくはなかったけれど、ねえあんが持ってきた薬を水と一緒に飲んだ。白い粉が口に入りきらなくて、口元が苦くなる。
 なのにまだ薬が残っている。
 ボクは残った薬を敷布団の下にまいて、そうして掛け布団をバタバタやった。

 そこへおかんがやってきた。プンといい香り。急にお腹が空いていたことに気づいた。
 
 薬、飲んだがけ。
 
 う、うん。

 頭、痛いがけ。

 ああ、おかん、手を額に当てる…。
 まずい!

 熱はそれほどじゃないがね。

 喉が…。

 喉、痛いがけ。
 卵のおかゆ、持ってきたから、無理にでも食べられ。
 食べて寝とりゃ、なおるちゃ。

 ボクはおかんが部屋を出て行くのを目を閉じたまま待っている。
 うまそうにすするわけにいかないし。

 おかゆ、うまかった。なおさら腹が減った。
 ああ、おかゆだけじゃ足りない! 

 おとんがねえあんと一緒に外に出ていく気配がする。
 おかんが台所で何かやっている。
 あとは、家の中は静まり返っている。

 何が何だか分からない。学校へ行って、おはよう! と言うと、みんなおはようって返事を返してくれるのに、ある日から、さっぱり返事が来なくなった。男の子は前と変わらなかったけど、女の子は全員、つんと澄ました顔をして目をそらすようになった…。
 気のせい?
 でも、気のせいじゃなかった。本当にみんな、女の子は挨拶しても知らん顔なんだ。
 
 ただ、そんな中、一人だけ、ボクの挨拶に返事してくれる女の子がいた。ミーちゃんだ。
 それなりに可愛い子。
 でも、ボクには他に好きな人がいる。ミーちゃんはタイプじゃないんだ。
 そのミーちゃんは妙にボクに付きまとう。積極的で、ボクが何処へ行っても現れて、ボクたちが仲良しだってことをみんなにアピールしようとする。
 ボクにはそう思えた。
 ああ、そんなの困る。ボクにはなっちゃんがいるんだ。なっちゃんに誤解されたら困るじゃないか!

 ボクはミーちゃんから逃げるようになった。特に、そう、学校でフォークダンスを全員で踊ったことがあって、順繰りに男の子と女の子が手をつなぐことになる。すると、順番がやってきた。みーちゃんとボクが手をつないで踊る。一瞬のことだ。我慢すればいい。
 ところがミーちゃんはボクの手を離してくれない。いつまでもしっかり握って、とうとうボクはミーちゃんに引きずられていった。
 恥ずかしかった。
 同時に屈辱的だった。
 好きでもないのに、どうしてあんな真似をするんだ!
 怒り心頭だった。吐き気さえ覚えていた。
 
 それ以来、ボクはミーちゃんを敬遠するようになった。さんざん逃げ回って、これだけやったら、いくらミーちゃんでもボクの気持ちが分かるだろうと期待した。
 それだけじゃない。気の小さいボクだったけれど、なっちゃんに近づくようにした。ボクがなっちゃんを好きだってことを、口じゃ言えないけど、態度で示した。
 
 そうして、あの日がやってきた。そう、女の子が全員、朝や帰りの時の挨拶をしても、ボクをシカトする。あの、なっちゃんまでもが!

 そんな中、ミーちゃんだけがにこやかに挨拶を返す。

 ボクは嫌だった。ミーちゃんだけと挨拶を交わすなんて嫌で嫌でたまらなかった。
 挨拶をするなら、みんなとしたい。
 
 ボクは決めた。ミーちゃんとは挨拶しない。みんなが挨拶するようになったら、ミーちゃんとも挨拶くらいはするって。
 思えば、ボクが一人で考えて決断したなんて、生まれて初めてのことじゃなかろうか。ねえあんにも、一言も相談していない。
 
 ボクの思惑は空回りした。
 ボクの気持ちでは、みんなが挨拶してくれるようになったら、ミーちゃんとも挨拶すると決心していたのだけど、何日もボクがミーちゃんの挨拶にシカトしていると、とうとうまるでボクがミーちゃんだけに挨拶しないような評判が立った(もしかしてミーちゃんが流した?)。
 他の女の子たちどころか、男の子までが、ボクをシカトするようになった。それはボクがミーちゃんを理由もなく毛嫌いしているから、ということらしかった(でも、誰もそんな説明などしてくれない)。

 ボクはみんなと平等に公平に挨拶したいだけなんだ。朝や下校時の挨拶じゃないか。
 
 気が付いたら、ボクはミーちゃんに意地悪する偏屈な男の子ということになってしまった。
 孤立していた。誰とでも気兼ねなく挨拶するようにしたい。女の子がみんなで、示し合わせたようにして朝も下校時もボクの挨拶を無視する、そんな真似を早くやめて欲しかっただけなんだ。
 でも、そんなボクの思いは意味を成さなかった。
 ボクがミーちゃんをシカトしている、という事実だけが現実だとみなされた。

 ボクにも意地があった。あの日、突然、ミーちゃん以外の女の子がボクの挨拶に返事しなくなったのは、女の子たちの(ミーちゃんの働きかけでの)計算があったんじゃないか。
 他の女の子は冷たい。そんな中、ミーちゃんだけ、ボクに暖かい。
 そうしてボクとミーちゃんを近づけようというコンタン。
 
 ああ、でも、ボクの勘違いかもしれない。何か他に理由があって、ミーちゃん以外の女の子が挨拶を交わしてくれなくなったのかもしれない。
 違う。やっぱり、ミーちゃんとボクをくっつけようというサクリャクに決まっている!
 ただ、証拠が何もない。ボクの見当違いだと言われたらお終いだし。

 気が付いたら、クラスの中でボクは一人ぼっちになっていた。 
 そこまでいっても、ボクは意地を曲げることはできなかった。見掛けだけミーちゃんと仲良くなって、そうしてやがてみんなと元通り仲良くなる。そんなダサンは見え透いていて、シャイなボクに到底、無理な話だった。
 みんなが前みたいにさりげない挨拶を交わすようになったら、そしたらミーちゃんとだって、挨拶する。それがボクの最低限の意地であり(だって、仕掛けてきたのは女の子たちのほうじゃないか。折れるのは、仕掛けたほうじゃないとおかしいだろう!)、ボクの男としてのプライドでもあった。
 
 ボクは頑固過ぎるんだろうか。

 冷蔵庫のような学校の雰囲気。最初は登校時・下校時の挨拶だけの問題だったのが、日常会話もまるでなくなっていた。
 ミーちゃん…。
 ミーちゃんのことなんて、どうでもいい。タイプじゃないんだし。肝心のなっちゃんまでがボクを毛嫌いするみんなの仲間になっている。
 違う! そうじゃないんだ!
 なんて、言う機会もありそうになかった。
 そして、とうとう小学校を卒業するまで誰ともよりを戻すことはなかったっけ。

 ボクは、あの朝、限界に来ていたんだと思う。内気なボクには気持ちを誰かに打ち明けるなんて、死んでもできない相談だった。
 気持ちが誰かに知られるくらいなら、それこそ死んだほうがましなのだ。それがボクなのさ!

 おかゆを食べて、ますますお腹が減った。寝床の中で空きっ腹を抱え、これからもえんえんとハッポウフサガリ日々が続くことを胸に痛いほど予感して、ボクは頭が痛かった。

 そのうち、ボクはとうとう我慢がならず起き上がって、おかんのところへ行こうとした。
 すると、そこへおかんがやってきた。手にはおかゆとボクの大好物のバナナが載った盆が。
 寝ててもお腹、空くがやちゃね…。
 割烹着を着たかあちゃんが去っていく。
 一人になってボクは口をもぐもぐさせていた。
 ああ、もう、考えるの面倒になっちゃった!

 それでも頭の中は勝手にふくれちゃう。
 どうしたらいいんだろう。
 ボクにはどうする知恵もない。ねえあんも来年は別の部屋に移る。
 ボクは一人で道を決めないといけない。
 でも、このドンくさいボクに道などあるはずがない。
 ハッポウフサガリの藪の中を行くだけなんだろう…。

 そんな自分でも半ばは信じていなかった予感が的中してしまったことを今では明晰に理解している。
 ボクはボクの予言者だったのだ。
 オレはそれを理解している。
 今日は断固、休む。自分にできる反抗は、それだけしかない。今日一日休むというこれだけのことが限界。
 それでもいい。少しはオレも成長したってことなんだろうし。

 

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2006/01/01

兄ちゃんの姫始め

 ボクと兄ちゃんは六つ年が違う。兄ちゃんがそろそろ小学校に上がろうかという頃、ボクが生まれたらしい。ボクは自分が生まれた日のことは覚えていない。母ちゃんに聞いたら、母ちゃんも知らないという。姉ちゃんに聞いたら、バーカ、覚えてる人なんているわけないじゃんて、笑われてしまった。
 悔しい。兄ちゃんにバカにされるのも癪だけど姉ちゃんに笑われるなんて絶対、我慢ならない。

 そのボクも小学校に上がった。これで立派な社会人の仲間入りだと誇らしく思っていたけど、学校へはいつも姉ちゃんが一緒。ボクはもう一人立ちできる年頃だというのに、本当に悔しい。
 ボクの力を誰も認めていないんだ。

 学校の行き帰りは危ないからって、先生も母ちゃんも近所のニイチャンも言う。
 行き帰りが危ない? みんな何も知らないんだ。一番危ないのは家の中だってことを。家の中なら、いつ誰もが不在の時間となるか、ボクも知っているし、近所の連中だって知っている。
 犯罪は夜、行われる? とーんでもない。白昼堂々さ。
 大体、ボクだって、さんざん悪さしちゃったし、これからだってするよ!
 ま、悪さだから宣言することはないけど、止められないんだよね、これが!

 実を言うと、ボクにはもう一人、ニイチャンがいる。
 こっちのニイチャンは、ボクの兄ちゃんより三つ年上だ。ボクの兄ちゃんはボクをガキ扱いする。ランドセルを背負って通うボクを、無事で帰ってこいよ、なんてニヤニヤしながら言ったりする。
 その点、あのニイチャンは大人だ。ボクを一人前に遇してくれる。最後は自分で身を守るんだ、なんて真面目な顔をして忠告してくれる。
 身を守る知恵も力もない奴から最初に犠牲になっていくのさ…、とも。

 ボクだって、ガキじゃないんだ。何処にどんな危険があるか母ちゃんや先生たちよりは知っているのさ。

 さて、小学生となり、最初の冬休みも半ばが過ぎていた。
 年が明けて遊び呆けていたボクも、そろそろ遊びのネタに困っていたある日、ボクは耳寄りな情報をゲットした。兄ちゃんがひめはじめするというのだ。
 ひめはじめ…。
 ああ、なんてなまめかしい響きだろう。大人の世界の匂いがプンプンする。真っ暗闇の空にオレンジ色の光がパーと燃え上がるみたいだ。溜まったオシッコが出口を見失い逆流して頭の中に溢れ返り煮え滾っているみたいだ。

 小学校へ上がるという春のある夜、ボクは兄ちゃんに内緒話をされたことがある。
 それは兄ちゃんが保育所に通っていた頃のこと。
 兄ちゃんの夏休みも終わりの頃、ニイチャンが近所の悪ガキ連中を家に集めたことがあった。お盆の夜で、父ちゃんも母ちゃんも町内会の世話とかで家を出払っていた。
 ガキ連中の中には、男の子も集まっていたし、勿論、兄ちゃんもいたし、近所の女の子も呼び集められていた。姉ちゃんもいた! 
 夜中になって女の子たちが寝静まった頃、それは始まった…。
 でも、何をするわけでもない。ただ、寝ている女の子たちの布団をはぎ、着ている浴衣を脱がし、懐中電灯で秘められた部分を照らし出すだけだ。
 そんなわけがないと思って、兄ちゃんの目をじっと眺めたら、ま、指で割れ目ちゃんをなぞってみただけだよ、あんなに深そうな裂け目なのに、指は中に入らなかったよ、なんて、言い訳がましいことをぶつぶついう。物足りなかったのだろうか。それとも、ホントはもっと凄いことをやったのだろうか。
 ボクには分からなかったのは、女の子たちは寝ていて気づかなかったのだろうか、ということだ。気づいていたに違いない。でも、気づかないふりをしていたに違いないんだ。
 ああ、でも、これはボクの意見なのか、兄ちゃんがそう言い張っていたのか、今となってははっきりしない。

 ボクも大きくなったら、そんな祭りに参加できるのかな。疼くような思いでボクはその日を待ちわびた。
 でも、もうニイチャンはそんな悪さをする年頃は過ぎていた。
 兄ちゃんは悪さの音頭取りをするようなタイプじゃない。そもそも祭りの夜だろうと、子供たちだけの集まりを許すような雰囲気は町から消えている。
 ボクは肩透かしを食らったような気分だ。なんのために今日まで辛抱したというのだ!

 あれ、なんの話だっけ。
 そうそう、兄ちゃんがひめはじめするという噂だ。ボクは、その噂を姉ちゃんから仕入れた。兄ちゃんは隠し事をできない人間なんだ。特に兄ちゃんには妹に当たる姉ちゃんには、その浮かれた、でもどこか不安そうな表情で何かあると睨まれ、とうとう白状させられたのだ。
 その話をボクは姉ちゃんから教えられた、というわけだ。
 
 兄ちゃんがひめはじめする。
 一体、何をするんだろう。今更、中学生になって、夜、何処かに女の子を集めて懐中電灯で気になってならない部分を照らす、なんてわけもないだろう。
 大体、兄ちゃんがそんな計画を作るセンスがあるわけもない。
 姉ちゃんが兄ちゃんから探り出したところによると、どうやら段取りをニイチャンがつけたらしい。
 だったら、分かる!

 兄ちゃんがそわそわして落ち着かない。心、ここにあらず、だ。
 いよいよその日が近づいている証拠だ。
 姉ちゃんもボクに目配せする。ボクが兄ちゃんの隠し事を知っていると言うのは姉ちゃんとボクとの秘密だ。ボクも姉ちゃんも素知らぬ顔をしている。
 その日が今日だ、というのは滑稽なほど明らかだった。放課後、一端、家に戻ったけれど、今から塾へ行くという。ちゃんと英語と数学のテキストの入ったバッグも肩に担いでいる。
 でも、ノートも筆記用具も机の上に置きっ放しなのを姉ちゃんは見逃さない。
 姉ちゃんは、兄ちゃんが出かけた後、兄ちゃんの後を追った。ボクも一緒だ。行き先は、何処だろう。
 後を追ってみると、行き先はどうやら塾らしい。変だ。本当に塾へ行くんだろうか。テキストを突っ込んだだけのバッグだし、勉強にはならないはずなのに。
 それでもやはり兄ちゃんは塾へ入っていった。やっぱり今日は塾?!
 塾といっても、民家の一階を塾にしている。塾がある日は、襖が取っ払われていて、玄関から八畳の間とさらに奥の四畳半の仏間が見通せるようになっている。
 ところが、その日に限っては、様子がまるで違う。まず、玄関の戸が閉まっている。ただ、鍵は掛けられていないようで、戸が小さく開いている。隙間から覗くと、玄関には兄ちゃんの脱いだ靴だけがポツンとあるのが見える。他には見当たらない。下足箱には家の人の靴しか入っていないはずだ。
 家の中が薄暗い。シーンと静まり返っている。
 兄ちゃんは?
 兄ちゃんの靴がある以上は、中に入ったのは間違いないはず…。

 取り払われているはずの襖は閉まったままだ。八畳の左脇の階段も、階段下の縁側に面する廊下も、雨戸が閉められていて、隙間から僅かに忍び込む一条の日の光が薄闇を濃くしているようだった。

 兄ちゃんは何処へ行った。塾はやってないのか。
 すると、姉ちゃんは玄関の戸に張ってある紙を指差した。本日は事情があり休みます。
 誰も来ていないということは、今日の休みは事前に通知されていたということだろうと姉ちゃんがボクに言う。

 どうする?
 入ってみようよ。開いてるんだし…。兄ちゃんの靴だってあるんだし…。
 
 ボクと姉ちゃんは家の中に入っていった。塾が開かれるはずの八畳の間を覗こうと、襖を開けてみた。やっぱり、誰も居ない。電気だって灯っていない。人気がない。
 でも、不気味だった。兄ちゃんが居るはずなんだ。人っ子一人いないなんてはずはないんだ!

 八畳の間を過ぎ、奥の四畳半へ続く襖も開けてみた。仏壇があるだけ。
 しばらくはキツネに抓まれたような気分だった。静けさが一層、深まったような気がした。
 すると、階段がギーと小さく鳴った。
 足音だ。誰かが降りてくる。
 固唾を呑んで見守っていると、それは兄ちゃんだった。
 なーんだ、やっぱり居たんじゃない!

 でも、表情が硬い。あの間抜けな兄ちゃんではなかった。
 しかも、足音は一人分だけじゃない。
 その後に、もう一人が続く。
 ニイチャンだ!
 なんだ、兄ちゃんは塾だと言っておいて、実はニイチャンと合う算段だったんだ。
 でも、ひめはじめは?!

 ボクらの呆然とした顔を見て、ニイチャンはニヤッと笑った。
 そして、ようこそ、われわれの姫始めの舞台へ、と言う。
 
 えっ、ここがひめはじめの舞台。
 どういうこと。
 姉ちゃんは逸早く直感したようだった。
 でも、もう、遅かった。兄ちゃんが姉ちゃんの後ろに立っている。前にはニイチャンだ。
 
 お前も参加するかと、ボクを見遣るニイチャン。

 意味が分からなかった。
 ボクが参加するって、どういうこと。
 兄ちゃんがボクを黙って押しやった。
 お前は出て行け!
 出て行けって、どういうことさ、なんて、口の中で言うだけだった。
 兄ちゃんのあんな鬼の形相は初めて見た。
 姉ちゃんは凍りついたように立ち尽くしている。

 ボクは訳も分からないままに玄関の外に追いやられた。
 玄関に鍵が下りる音がした。

[参考にならない参考:]
 題名は「姫始め」だけど、「ナンセンス小説」と、全くジャンルの違う掌編に、「姫始め」があります。

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落句拾遺12-2

 年始にはお袋と一緒に郷里の雄山神社に初詣するのが常だったが、一昨年からそれも途絶えてしまった。お袋がとても歩ける状態ではなくなったのだ。
 それでも、昨年の夏、なんとか車に乗ってもらい、姉と三人で神社のある町にある親戚の家へ。往きも帰りも神社の脇を通った。
 けれど、神社の境内の前の道を走りすぎただけ…。
 小生なりに思うところがあったが、お袋の感慨も一入(ひとしお)だったのではなかろうか。

 遠い日の思いも通う山の道      元旦

年の瀬の慌しさも他人事     12/18

冬座敷隙間風だけ居座って
冬座敷主なしとて泣かんとき
冬座敷縁側さえも襖陰
冬座敷お盆と年始が活躍時
冬座敷襖の陰の人影か 
             (December 19, 2005

銀河ゆく孤影見つめる目の熱く      12/19

葛湯呑む手のぬくもりも忘れずに
遠い日の葛湯の湯気の目に温(ぬく)し
             (December 20, 2005)

煤払い禁煙こそが先決だ      (December 21, 2005

降る雪に綾なす色もはかなくて
        望月照らす花の野恋し
             (2005/12/27

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