雪の帰り道
小学生になって二年目のある雪の日の夕方だった。姉がバッグを肩に背負って玄関を出ていった。
ちょうどボクが遊びつかれて帰宅したのと入れ違いになった。
なんとなく澄ましたような、他人の顔。
こんな時間に何処へ。雪だって降ってるのに。
「かあちゃん、ねえあん、何処、行ったの」
ねえあん、というのは、ボクの姉を指す呼び名。ねえちゃんとも言えなくて、妙に半端な呼びかけになっていた。
「ん? 塾」
かあちゃんは、台所で洗い物をしていて、見向きもしないで言う。
「じゅく?」
闇の中に消えていった姉の背中。
牡丹雪が足跡をやんわり消していこうとする。
ボクは、急に不安になって、ねえあんのあとを追いかけた。
不安。というより、おいてけぼりを食らったような気がしたのかもしれない。
ねえあんにボクの知らない世界がある!
それが我慢ならなかったのかもしれない。
「じゅく」
ボクは、呪文のようにその言葉を繰り返しながら、姉のあとを追い続けた。
街灯のお陰で、ねえあんが曲がり角を左へ消えていくのがちらっと見えた。
雪にこぶりながら、ボクは必死になって追いかけた。
アノラックのフードに雪の花びらが当たって、耳元でさらっさらっという乾いた音がする。
闇夜から、ふんわり落ちてくる雪が、ボクの体にぶつかる瞬間だけ、擦れるような小さな音を立てる。雪の降る中、傘を差しながら、ずっとその音だけに耳を傾けながら歩くのが好きだ。傘に雪が溜まったら、傘をグルグル回して雪を降り飛ばして、同じことを繰り返す。
幻想でも夢でもないんだよ、ボクらは本当に天から舞って来たんだよと告げているようだ。
でも、今はそんな場合じゃない。
ねえあんが何処へ行くのか、確かめなくちゃ。
何処かの石の門柱のある家の前でねえあんに追いついた。
「どこ、行くが?」
「塾だちゃ。」
「じゅく?」
「そろばん塾」
ねえあんは、息を弾ませて聞きただすボクに、いつものように淡々と答える。せっかちなボクとはまるで性格が違うのだ。
しばらく、門前で佇んで、雪が溶けて頬を伝うボクを見つめていたけど、そのうち、黙って「じゅく」とやらの中へ入っていった。
そこにはボクには窺い知れない世界があるようだった。玄関には所狭しと色とりどりの何足もの長靴が見えた。
中に入って、「じゅく」で何をやるのか、確かめたかった。
でも、臆病なボクにはそんなことはできない。
ボクは、ただ、すごすごと雪の中を帰るしかなかった。ねえあんも、遠くなってしまった…。
頭の中では、保育所時代の思い出が蘇っていた。
春先だったろうか、何処かの原っぱでみんなが草野球をして遊んでいる。
そんなみんなを隅っこで眺めているボク。
醜いと言われた自分。鏡の中でゆがんだ顔をもっとゆがませ、おどけてみせるのが好きな、ひとりぼっちの自分。
いつか、ボクも、みんなの仲間に入れるだろうか。そんな日が来るんだろうか。
みんなの歓声が耳に痛い。はしゃぎまわる姿が眩しい。
そのうち、ボクは、いつものように、ひとり、はぐれて石ころなど蹴って立ち去っていくんだろう…。
そう思っていたら、不意に背中を叩かれて、我に帰った。
そこにはねえあんがいた。
「何、しとんがいね。」
「ううん、なんも。」
「みんなと遊べばいいがないが。」
そんなことができるくらいなら…。喉まで文句が出掛かっていたけれど、言葉に詰まるばかりで、ただ、「いいがやちゃ!」と言うのがやっとだった。
そうしてどれほどの時が過ぎただろうか。
不意にボクの足元にボールが転がってきた。
拾おうとしたら、ねえあんが横取りした。
そして、びっくりするほど大きな声で、
「ねえ、あんたらち、この子も混ぜてやってよ!」と言うではないか。
ねえあんはボクを立たせ、肩に手を置いていた。
ボクは絶え入りたいほど恥ずかしかった。
ねえあん、何、言うんだよ、やめとけよ…、なんてことさえ、言えない。
「うん、いいよ。」
呆気ないほど、簡単だった。
ねえあんは、ボールをボクに渡してボクの背中を押した。
ボクは、その日、日の暮れるまでみんなと遊び興じたっけ。
それだけのことだった。
でも、ポンと背中を押すねえあんの手の感触が忘れられないのだった。
どうしてそんなことを今、思い出したのか…。
はっと、気付いた。ねえあんが違う世界に行ったら、ボクはまた独りぼっちになるから…、それが怖いから…、だからねえあんを必死になって追いかけたんだ、と。
「じゅく」からの帰り道。ボクは途方に暮れていた。
そうだ、いくらなんでも、もう、ボクはねえあんなしでも友達を作れなくっちゃいけないんだ。今更、ねえあん、ねえあんっていう年でもないんだ。
そう思うと、必死になって追いかけてきた自分が恥ずかしくてならなくなった。
そうだ、ねえあんはねえあんだ。ボクはボクなのだし。
雪は降りやまない。牡丹雪が粉雪に変わってきて、フードの隙間から耳へ鼻の穴へ、目の中へ容赦なく降りかかるのだった。
道の両脇へと掻き分けられた雪の道を、ボクは呆然と眺めていた。
これから、一体、どうしたらいいだろう。
何も見えないじゃないか!
それでも、地の世界を埋め尽くす真綿の絨毯の上を、夢見心地で歩いていった。ついさっき、駆けてきた足跡は、とっくに消えていた。
ねえあんとの思い出も消えていく。「じゅく」にねえあんが消えていったように。
真っ白な雪が降り積もっているというのに、道の先は真っ暗だった。
闇の空から白い魔物が舞い降りてくる。なにもかもがうずもれていく。
頬をまた溶けた雪が雫となって流れ落ちて、今度は喉元へと流れ込んでいった。
冷たい!
そうなんだ。この冷たさが本当なんだ。
なのに、なぜか、妙に開放されたような気がした。白い絨毯の道を歩く。足跡を掻き消す天の道。あるのは、弾むような息遣いだけ。
ボクは、ハーと思いっきり息を吐いてみた。すると、吐息は自分でも驚くほど、真っ白なのだった。
一瞬、雪さえも消えてしまう。
雪より白い吐息!
吐息が、いつだったか、かあちゃんの言っていた「たましい」って奴に見えた。
そうだ、ボクには、「たましい」があるんだ。その気になったら、いつだって口から吐き出してみせることができる!
その日、ボクは、バカみたいに何度も立ち止まっては、大息を天に向かって吐きながら帰った。
きっと、今日という日のことは、一生忘れないだろうな。
雪の帰り道。一人ぼっちの影。
違う。ボクと「たましい」との二人ぼっちの道なのだ。
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コメント
ふふ、覗いてよかった・・、新作でしょうか?
方言がきいてますね、「ねえあん」って呼び名もいい。
家族のちょっとした風景や 少年が成長をみせる小さな きっかけや出来事・・
こういうの いっぱい読みたいな~。
そうそう「いつか来た道」にも何か私なりの
コメントを・・と思っているのですが ・・
そのうち、ね。
投稿: なずな | 2005/12/12 19:55
なずなさん、こんにちは。
新作です。久しぶりに連休だったので、季語随筆以外にも書く時間が作れたのです。
なーんということのない、ドラマもない小品。でも、こうした日常の積み重ねの先に、気が付いたら、子供の自分からはずっとずっと遠いところに来ている自分を見出してしまう。
その日その日は、その日の思いで胸が一杯だったりするのだけど。
猫モノも書いてみたいな。
投稿: やいっち | 2005/12/13 02:13