勘違い
バスン! バスン! バン! バシ!
仕事の帰り、何処かの公園の脇を通りかかったら、何かが地面を叩くような音が聞こえてきた。
音のするほうへ目をやると、中学生だろうか、数人の男の子たちが古びたビルのコンクリートの壁を使ってミニバスケットをやっている。どうやら、3on3での対戦らしい。
近く取り壊される予定なのか、ヒビが幾筋も入っているビルが鉄板で覆われている。鉄板の上がちょうどバスケットのゴールの高さというわけだ。
そう、公園じゃなくて、路上でバスケットに興じているのだ。
ボールが弾ける音が冬の空気を鋭く軋ませる。アスファルトの路面を伝った振動が行きすぎようとする中年男の心臓にまで響いてくる。
バスケット…。
ふと、遠い日の思い出が蘇ってきた。
遠い日のことで、幾つかのシーンだけが脈絡もなく浮かんでくる。
体育館の中のコートの隅っこで立ち竦んでいるボク。
あの日、どうしてボクは立っていたんだっけ。
疑問形にしている。
分かっているくせに。
ボクは、あの日の午後。ある光景を目にした。
ボクの好きなあの子が下駄箱の並ぶ部屋に入り込んでいく。
下駄箱に真っ白な手紙を入れている。
こっちからは見えなくたって、何をやっているかくらいは、分かろうというものだ。
自分でも思い出せないのだけど、ボクはその日、あの子が学校の玄関脇の下足箱のある部屋にやってくるのを知っていた。
盗み聞きした?
分からない。覚えていない。
覚えているのは、眩しいほどに真っ白な体育の服装を着ていたあの子のことだけ。どのクラブにも所属していないボクとは違って、あの子は卓球部の選手でもあり、マネージャーもやっていた。
そして、ボクのライバル…のあいつもクラブ活動に勉強にと、花形だった。同じ中学生とはとても思えない、男のボクが見ても格好いい奴。
でも、ボクは密かにライバルって思っていた。ボクだけは。
とうとうあの子、奴に想いを告げるんだ。
ボクが、ぼんやりしている間に、何もかもが終わってしまう。
あの子があいつを好きなのは、ボクだけは知っていた。それは、ボクだけの秘密だった。
あの子は、周囲を見回して、誰もいないのを見透かして、立ち去っていった。辺りを眺めた時、一瞬、目が合ったような気がした。気付かれたかと思った。
大丈夫だった。あの子は何事もなかったように、消え去ってくれたのだ。
気のせいか、あの子のホッペがいつもより赤かったような。冬のせいだったのだろうか。
記憶では既に薄暗くなっていたような気がする。ちょうどクラブ活動に熱がこもる時間帯で、体育館以外は、校内は怖いほどに寂しい。職員室もひっそりしている。
ボクは柱の陰から下駄箱のほうへ静かに歩いていった。心臓がバクバクしていた。
一体、何を仕出かそうというのか、自分でも分からなかった。
分かっていたけれど、何も見えなかった。
見ると、入りきらなかったのか、それともあの子が焦っていたのか、手紙の端っこが下駄箱から少し、食み出している。
ボクは、気が付いたら手紙を手にしていた。
ボクは、ただ、あの子の手紙を読みたかったのだ!
真っ白な封筒をセーターの中に忍ばせて、最初はゆっくりと、けれど、玄関を出たらもう我慢がならなくて、校門に向かって夢中になって逃げた。
近所の家の屋根に数日前だったかに降った雪が宵闇の中で蒼白く輝いていた。街灯が黒っぽくなりかけた道を透明な青に染めている。
ボクは走った。吹き寄せる風に頬が刺されるようだった。刺されて、破裂しそうな胸が本当に弾けてしまうかと思った。
手紙の中身を今ではまるで覚えていない。忘れてしまった…のだろうか。思い出したくないのだろうか。
分からない。分からないことだらけだ。
覚えているのは、真っ赤なハートのマークと、宛名が書いてなかったことだけ。
でも、名前が書いてないことが、余計にボクを嫉妬させた。名前なんか書かなくたって、想いを寄せる相手はあなただけと言っているように思えたのだ。
そうして、次に覚えているのは、学校の裏山の傍にある小さな公園のこと。
日曜日だったのだろうか。
ボクは、児童公園の中のブランコに揺られているセーラー服姿のあの子を見たのだった。
いや、違う、一人でいるあの子を見るために来たのだった。
いや、それも違う。うまくしたら、やつの変わりにボクが…。
不思議なのは、あの子の傍に手紙が忍ばせてあった相手の奴ではなく、他の奴が立っていたことだった。
どうして奴が来なくて、あのボクと同じくらい成績も悪ければ運動だってダメな、身長だってボクと競っているような、あのちんけな奴がそこにいるのか。
格好のいいあの奴が来ないのは、当然だ。デートをあの子が手紙で申し込んでいたとしても、奴が知るわけもないし。
でも、じゃ、あいつがあの子の傍にいるわけは?
…ああ、何もかも分かっているくせに。
自分のあまりの醜さに思い出すことさえ、躊躇っている。
ボクは、他の奴に想いを寄せるあの子が憎たらしくて、そうしてデートをぶち壊したくって、奴に来ないようにするだけじゃ、飽き足らなくて、ボクが一番嫌いだった、あのちんけな奴にデートの日時のことを教えたのだった。
なんてこと、したんだろう。
ボクは、公園の隅っこからあの子と奴の様子を伺っていた。
なんだって奴なんかに教えたんだ。あの子が一人でいるところを偶然を装って通りかかればそれでいいじゃないか。
でも、手遅れだった。ちんけな奴がにやけた顔をしてあの子を見下ろしていた。
ブランコの音がギーギー鳴っている。
あの子の胸の悲鳴のような、切ない泣き声のような。
ごめんよ。こんなマネ、するつもりじゃなかったんだ。
魔が差したんだ。
胸が張り裂けそうだった。電柱のかび臭いような匂いが頬っぺたに擦り込まれそうなほど、ボクは柱にしがみついていた。立っていられないような気がしていたのだ。
今すぐ出て行って、そうして彼女に謝ろうか。そうすべきだ。そうだ、今なら、まだ間に合う…。
そんな勇気など、ボクにあるはずもなかった。
せめて、彼女にその場を立ち去ってほしかった。
ボクが先に消え去るわけにはいかないような気がしていた。
せめて最後まで成り行きを見守っておくんだ…。
すると、信じられないような光景が目に飛び込んできた。
なんと、あの子がブランコから立ち上がったかと思うと、二人はにこやかな表情を浮かべて、肩を並べ公園を後にするじゃないか!
二人が公園の角に消えていく最後の瞬間、あの子がボクのほうを見やったような気がした。まさか、奴ったら、ボクのことを教えたんじゃ…。
でも、違う。好きな人っていうのは、どんな角度から眺めても、遠くから眺めても、その人の視線の先に自分が居るって、つい思ってしまうものなのだ。齢を重ねた今ならそんな虫のいい、ちょっと悲しい錯覚が人間はしてしまうってことが理解できる。
なんてことだ!
どうなってんだ?!
奴じゃなくて、あいつでも良かったってことなのか。
何がなんだか分からなかった。
置いてけぼりを食らって、ボクはしばらくは呆然としていた。気が付いたら、あの子が座っていたブランコに腰掛けていた。揺らしてみると、鉄の鎖がギーギーという音が鳴る。ボクはいつまでも音に聞き入っていた。
その翌日だったろうか。
朝、憂鬱な気分で教室に入ったら、いきなりあの子がそこにいた。背中を向けているけれど、晴れやかな表情を浮かべているのがはっきりと分かる。
教室はいつものようにガヤガヤとうるさい。見ると、窓際にいる奴も他の誰かと談笑しながらも、ボクのほうをチラッと眺めては、にやにやしている。
ボクはチクショウーと思った。
勘に過ぎないけれど、あの子はもう、ボクの仕業を知っているんだ。奴がバラシテしまったんだ。覚えてろ!
それにしても、不思議なのはあの子の表情だった。格別、ボクを怒っているふうではないのだ。
ボクのことなんか、どうでもよくって、それより奴と仲良くなれたことが嬉しいのだろうか。
奴?! 一体、どっちの奴だ。あのチンケな奴か。それとも、あっちの花形クンか。
ボクには事情が何も分からない。ボクの手の届かないところで物語がドンドン進行している。話の筋を周囲のみんなは知っているけれど、そう、知らないのはボクだけ。
悶々とした一日が終わった。クラブ活動に行く奴らは、さっさと教室を後にしている。その日は、ボクが掃除の当番だった。あの子もだったのだろうか、彼女も一緒に掃除している。掃除が終わったらすぐに卓球部へ行くつもりなのだろう、テキパキと黒板拭きもバケツの水の入れ替えもやっている。そうなんだ、この甲斐甲斐しい彼女が好きなんだ!
いいんだ。ボクは。彼女と、今、一緒に掃除している。それだけで十分じゃないか。
一生の思い出になるってものさ!
やがて掃除を済ませた彼女は、部室のほうへ向かった。
ボクは、学校に用事など何もないのに、帰るに帰れないでいた。
自分には関係ないこととはいえ、あの子がどっちの奴と仲良くなったのか、それを確かめないことには帰るに帰れない!
体育館へ向かった。板張りの体育館では、サッカー部の連中がバスケット部の連中とバスケットをやっていた。冬になると、雪で校庭がグジャグジャになってしまうので、例年、体育館の使用が春から秋までとは違う使い方になってしまうのだ。
すし詰めというと大袈裟だけど、とにかくいろんなクラブの奴らが入り乱れて練習しているのである。
いた! 奴だ。やっぱり、うまい。憎たらしいほど光って見える。
あの子は…。いない。
じゃ、あっちの奴と一緒? まさか。
ボクは、ごった返す体育館の隅をボールや動き回る運動部の連中の間を縫ってステージ裏へ向かった。用具類を仕舞う裏手の一角に卓球部の部室が、無理やりという感じで設置されているのだ。
いた! あの子だ。ボクのあの子だ。
帰宅部のボクは、いつものように、あの子の練習する姿、みんなの世話をする眩しい姿をチラッとでも見てから帰ることにしているので、部の連中も、一瞬、またか、という顔をするが、すぐに無視してくれる。
あの子もそうだった。
いや、そうじゃなかった。
いつもと違って、ボクを見て、にこっ、とする。
どうしてボクを見て、微笑を浮かべるんだろう。
ボクの無様な仕打ちをあざ笑っているふうにも思えない。
でも、訳の分からないボクは、そのうち居たたまれなくなって、すぐに卓球部の部室を去った。
もう一度、奴の姿を見ていくか。ボクには眩しいだけの、憎たらしいほど格好いい奴を。
あんな花形だったら、負けたって、彼女が盗られたって仕方ないしな…。
ボクは、奴の姿を目に焼き付けようと思った。奴とボクとの違いを目に痛いほど感じておくんだ。そうしたら、諦めが付くってもんだ…。
バスン! バスン! バン! バシ!
奴の姿はなぜか見かけなかったけれど、目まぐるしい動きがそこにはあった。運動音痴のボクには、到底、マネのできない展開の速さ。
ボクの住む世界とはまるで違う世界がそこにある…。
どれほどの時が経ったろうか、気が付くと、背後に気配を感じた。
奴だった。それも、二人の奴が並んで立って、ボクをニヤニヤしながら眺めている。
最初に口を開いたのは、どっちの奴だったか覚えていない。
「ちきしょー、持てる奴が憎たらしいぜー」
ボクは、なんのことだか、さっぱり分からなかった。
「あの子、お前に告白したんだってな」
何の話か見えないボクは、キョトンとしているしかなかった。
「あの子、お前の下駄箱に手紙を入れたんだってな」
バスン! バスン! バン! バシ! どやしつけられるようなバスケットボールの音がますます胸に響く。
「それにしても、お前、せっかくのラブレターをオレに見せるんだもんなー、参ったぜ」
二人はにやにやしている。
それでも、ボクは話が見えないままだった。
えっ、あの手紙、あの子が奴に出したんじゃないの?
ボクは呆然と立ち尽くしているしかなかった。
それから何十年も経つというのに、未だに女房がオレに言うのだった。
「あんたに出したラブレターを人に見せるんだもんねー。せっかくあんたに分かるように手紙、入れといたのに、私、焦っちゃったわよ。公園で事情が分かって、安心したけどねー。」
そういって女房はガハハハと笑うのだった。
路上の3on3の音が、オレは何処か女房の笑い声とダブって聴こえるのだった。
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