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2005/12/24

勘違い

 バスン! バスン! バン! バシ!

 仕事の帰り、何処かの公園の脇を通りかかったら、何かが地面を叩くような音が聞こえてきた。
 音のするほうへ目をやると、中学生だろうか、数人の男の子たちが古びたビルのコンクリートの壁を使ってミニバスケットをやっている。どうやら、3on3での対戦らしい。
 近く取り壊される予定なのか、ヒビが幾筋も入っているビルが鉄板で覆われている。鉄板の上がちょうどバスケットのゴールの高さというわけだ。
 そう、公園じゃなくて、路上でバスケットに興じているのだ。
 ボールが弾ける音が冬の空気を鋭く軋ませる。アスファルトの路面を伝った振動が行きすぎようとする中年男の心臓にまで響いてくる。
 バスケット…。
 ふと、遠い日の思い出が蘇ってきた。

 遠い日のことで、幾つかのシーンだけが脈絡もなく浮かんでくる。
 体育館の中のコートの隅っこで立ち竦んでいるボク。
 あの日、どうしてボクは立っていたんだっけ。
 疑問形にしている。
 分かっているくせに。

 ボクは、あの日の午後。ある光景を目にした。 
 ボクの好きなあの子が下駄箱の並ぶ部屋に入り込んでいく。
 下駄箱に真っ白な手紙を入れている。
 こっちからは見えなくたって、何をやっているかくらいは、分かろうというものだ。

 自分でも思い出せないのだけど、ボクはその日、あの子が学校の玄関脇の下足箱のある部屋にやってくるのを知っていた。

 盗み聞きした?
 分からない。覚えていない。
 覚えているのは、眩しいほどに真っ白な体育の服装を着ていたあの子のことだけ。どのクラブにも所属していないボクとは違って、あの子は卓球部の選手でもあり、マネージャーもやっていた。
 そして、ボクのライバル…のあいつもクラブ活動に勉強にと、花形だった。同じ中学生とはとても思えない、男のボクが見ても格好いい奴。
 でも、ボクは密かにライバルって思っていた。ボクだけは。
 とうとうあの子、奴に想いを告げるんだ。
 ボクが、ぼんやりしている間に、何もかもが終わってしまう。
 あの子があいつを好きなのは、ボクだけは知っていた。それは、ボクだけの秘密だった。
 
 あの子は、周囲を見回して、誰もいないのを見透かして、立ち去っていった。辺りを眺めた時、一瞬、目が合ったような気がした。気付かれたかと思った。
 大丈夫だった。あの子は何事もなかったように、消え去ってくれたのだ。

 気のせいか、あの子のホッペがいつもより赤かったような。冬のせいだったのだろうか。

 記憶では既に薄暗くなっていたような気がする。ちょうどクラブ活動に熱がこもる時間帯で、体育館以外は、校内は怖いほどに寂しい。職員室もひっそりしている。

 ボクは柱の陰から下駄箱のほうへ静かに歩いていった。心臓がバクバクしていた。
 一体、何を仕出かそうというのか、自分でも分からなかった。
 分かっていたけれど、何も見えなかった。
 見ると、入りきらなかったのか、それともあの子が焦っていたのか、手紙の端っこが下駄箱から少し、食み出している。

 ボクは、気が付いたら手紙を手にしていた。

 ボクは、ただ、あの子の手紙を読みたかったのだ!
 
 真っ白な封筒をセーターの中に忍ばせて、最初はゆっくりと、けれど、玄関を出たらもう我慢がならなくて、校門に向かって夢中になって逃げた。
 近所の家の屋根に数日前だったかに降った雪が宵闇の中で蒼白く輝いていた。街灯が黒っぽくなりかけた道を透明な青に染めている。

 ボクは走った。吹き寄せる風に頬が刺されるようだった。刺されて、破裂しそうな胸が本当に弾けてしまうかと思った。

 手紙の中身を今ではまるで覚えていない。忘れてしまった…のだろうか。思い出したくないのだろうか。
 分からない。分からないことだらけだ。
 覚えているのは、真っ赤なハートのマークと、宛名が書いてなかったことだけ。
 でも、名前が書いてないことが、余計にボクを嫉妬させた。名前なんか書かなくたって、想いを寄せる相手はあなただけと言っているように思えたのだ。
 
 そうして、次に覚えているのは、学校の裏山の傍にある小さな公園のこと。
 日曜日だったのだろうか。
 ボクは、児童公園の中のブランコに揺られているセーラー服姿のあの子を見たのだった。
 いや、違う、一人でいるあの子を見るために来たのだった。
 いや、それも違う。うまくしたら、やつの変わりにボクが…。

 不思議なのは、あの子の傍に手紙が忍ばせてあった相手の奴ではなく、他の奴が立っていたことだった。
 どうして奴が来なくて、あのボクと同じくらい成績も悪ければ運動だってダメな、身長だってボクと競っているような、あのちんけな奴がそこにいるのか。
 格好のいいあの奴が来ないのは、当然だ。デートをあの子が手紙で申し込んでいたとしても、奴が知るわけもないし。

 でも、じゃ、あいつがあの子の傍にいるわけは?

 …ああ、何もかも分かっているくせに。
 自分のあまりの醜さに思い出すことさえ、躊躇っている。

 ボクは、他の奴に想いを寄せるあの子が憎たらしくて、そうしてデートをぶち壊したくって、奴に来ないようにするだけじゃ、飽き足らなくて、ボクが一番嫌いだった、あのちんけな奴にデートの日時のことを教えたのだった。
 なんてこと、したんだろう。

 ボクは、公園の隅っこからあの子と奴の様子を伺っていた。

 なんだって奴なんかに教えたんだ。あの子が一人でいるところを偶然を装って通りかかればそれでいいじゃないか。
 でも、手遅れだった。ちんけな奴がにやけた顔をしてあの子を見下ろしていた。
 ブランコの音がギーギー鳴っている。
 あの子の胸の悲鳴のような、切ない泣き声のような。
 
 ごめんよ。こんなマネ、するつもりじゃなかったんだ。
 魔が差したんだ。

 胸が張り裂けそうだった。電柱のかび臭いような匂いが頬っぺたに擦り込まれそうなほど、ボクは柱にしがみついていた。立っていられないような気がしていたのだ。
 今すぐ出て行って、そうして彼女に謝ろうか。そうすべきだ。そうだ、今なら、まだ間に合う…。
 
 そんな勇気など、ボクにあるはずもなかった。

 せめて、彼女にその場を立ち去ってほしかった。
 ボクが先に消え去るわけにはいかないような気がしていた。
 せめて最後まで成り行きを見守っておくんだ…。

 すると、信じられないような光景が目に飛び込んできた。
 なんと、あの子がブランコから立ち上がったかと思うと、二人はにこやかな表情を浮かべて、肩を並べ公園を後にするじゃないか!
 二人が公園の角に消えていく最後の瞬間、あの子がボクのほうを見やったような気がした。まさか、奴ったら、ボクのことを教えたんじゃ…。

 でも、違う。好きな人っていうのは、どんな角度から眺めても、遠くから眺めても、その人の視線の先に自分が居るって、つい思ってしまうものなのだ。齢を重ねた今ならそんな虫のいい、ちょっと悲しい錯覚が人間はしてしまうってことが理解できる。

 なんてことだ!
 どうなってんだ?!
 奴じゃなくて、あいつでも良かったってことなのか。
 何がなんだか分からなかった。
 
 置いてけぼりを食らって、ボクはしばらくは呆然としていた。気が付いたら、あの子が座っていたブランコに腰掛けていた。揺らしてみると、鉄の鎖がギーギーという音が鳴る。ボクはいつまでも音に聞き入っていた。

 その翌日だったろうか。
 朝、憂鬱な気分で教室に入ったら、いきなりあの子がそこにいた。背中を向けているけれど、晴れやかな表情を浮かべているのがはっきりと分かる。
 教室はいつものようにガヤガヤとうるさい。見ると、窓際にいる奴も他の誰かと談笑しながらも、ボクのほうをチラッと眺めては、にやにやしている。
 ボクはチクショウーと思った。
 勘に過ぎないけれど、あの子はもう、ボクの仕業を知っているんだ。奴がバラシテしまったんだ。覚えてろ!
 
 それにしても、不思議なのはあの子の表情だった。格別、ボクを怒っているふうではないのだ。
 ボクのことなんか、どうでもよくって、それより奴と仲良くなれたことが嬉しいのだろうか。
 奴?! 一体、どっちの奴だ。あのチンケな奴か。それとも、あっちの花形クンか。
 
 ボクには事情が何も分からない。ボクの手の届かないところで物語がドンドン進行している。話の筋を周囲のみんなは知っているけれど、そう、知らないのはボクだけ。

 悶々とした一日が終わった。クラブ活動に行く奴らは、さっさと教室を後にしている。その日は、ボクが掃除の当番だった。あの子もだったのだろうか、彼女も一緒に掃除している。掃除が終わったらすぐに卓球部へ行くつもりなのだろう、テキパキと黒板拭きもバケツの水の入れ替えもやっている。そうなんだ、この甲斐甲斐しい彼女が好きなんだ!
 いいんだ。ボクは。彼女と、今、一緒に掃除している。それだけで十分じゃないか。
 一生の思い出になるってものさ!

 やがて掃除を済ませた彼女は、部室のほうへ向かった。
 ボクは、学校に用事など何もないのに、帰るに帰れないでいた。
 自分には関係ないこととはいえ、あの子がどっちの奴と仲良くなったのか、それを確かめないことには帰るに帰れない!

 体育館へ向かった。板張りの体育館では、サッカー部の連中がバスケット部の連中とバスケットをやっていた。冬になると、雪で校庭がグジャグジャになってしまうので、例年、体育館の使用が春から秋までとは違う使い方になってしまうのだ。
 すし詰めというと大袈裟だけど、とにかくいろんなクラブの奴らが入り乱れて練習しているのである。

 いた! 奴だ。やっぱり、うまい。憎たらしいほど光って見える。
 あの子は…。いない。
 じゃ、あっちの奴と一緒? まさか。
 ボクは、ごった返す体育館の隅をボールや動き回る運動部の連中の間を縫ってステージ裏へ向かった。用具類を仕舞う裏手の一角に卓球部の部室が、無理やりという感じで設置されているのだ。 

 いた! あの子だ。ボクのあの子だ。
 帰宅部のボクは、いつものように、あの子の練習する姿、みんなの世話をする眩しい姿をチラッとでも見てから帰ることにしているので、部の連中も、一瞬、またか、という顔をするが、すぐに無視してくれる。
 あの子もそうだった。
 いや、そうじゃなかった。
 いつもと違って、ボクを見て、にこっ、とする。

 どうしてボクを見て、微笑を浮かべるんだろう。
 ボクの無様な仕打ちをあざ笑っているふうにも思えない。
 
 でも、訳の分からないボクは、そのうち居たたまれなくなって、すぐに卓球部の部室を去った。
 もう一度、奴の姿を見ていくか。ボクには眩しいだけの、憎たらしいほど格好いい奴を。
 あんな花形だったら、負けたって、彼女が盗られたって仕方ないしな…。

 ボクは、奴の姿を目に焼き付けようと思った。奴とボクとの違いを目に痛いほど感じておくんだ。そうしたら、諦めが付くってもんだ…。

 バスン! バスン! バン! バシ!
 
 奴の姿はなぜか見かけなかったけれど、目まぐるしい動きがそこにはあった。運動音痴のボクには、到底、マネのできない展開の速さ。
 ボクの住む世界とはまるで違う世界がそこにある…。
 
 どれほどの時が経ったろうか、気が付くと、背後に気配を感じた。
 奴だった。それも、二人の奴が並んで立って、ボクをニヤニヤしながら眺めている。
 最初に口を開いたのは、どっちの奴だったか覚えていない。

「ちきしょー、持てる奴が憎たらしいぜー」

 ボクは、なんのことだか、さっぱり分からなかった。
 
「あの子、お前に告白したんだってな」

 何の話か見えないボクは、キョトンとしているしかなかった。

「あの子、お前の下駄箱に手紙を入れたんだってな」

 バスン! バスン! バン! バシ! どやしつけられるようなバスケットボールの音がますます胸に響く。

「それにしても、お前、せっかくのラブレターをオレに見せるんだもんなー、参ったぜ」

 二人はにやにやしている。

 それでも、ボクは話が見えないままだった。

 えっ、あの手紙、あの子が奴に出したんじゃないの?

 ボクは呆然と立ち尽くしているしかなかった。

 それから何十年も経つというのに、未だに女房がオレに言うのだった。
「あんたに出したラブレターを人に見せるんだもんねー。せっかくあんたに分かるように手紙、入れといたのに、私、焦っちゃったわよ。公園で事情が分かって、安心したけどねー。」
 そういって女房はガハハハと笑うのだった。

 路上の3on3の音が、オレは何処か女房の笑い声とダブって聴こえるのだった。
 

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2005/12/19

落句拾遺12-1

凍てつく夜電熱器の灯頼もしく     12/6

月の舟星屑散らし満ち欠けん    12/8

目に冴えし三日月なれど澄まぬ恋    12/8

冬支度万全なれどダルマかも   12/8

月の舟星屑散らし浮き沈む    12/10

レノン忌に掻き消されての真珠湾    12/10

旅の宿ししなべ突いて狩の宿        12/10
あの猪(しし)がこの鍋なのか狩の宿     12/10

ネギ畑お願い今日も根切らせて     12/11

庭先に宝の山があるじゃない!     12/11
土の香の残りしネギを喰うてみる    12/11
土の果に海の果併せネギトロだ    12/11
父母の手の汗さえ添えて上る葱     12/11
畑とは大地の海と思えとか      12/11

目を閉じて心に扉の夜寒かな     12/12

冬の蛾や友を求めて迷いしか     12/12
冬の蛾の悠々として壁を這う      12/12
冬の蛾やもし蝶だったら御免なさい    12/12
冬の蛾や訪れしは蜘蛛か我か      12/12
冬の蛾や冬の蚊の座を狙うのか      12/12

屏風立つ彼方の夢を誘うよに      12/13
屏風越し手が出る足も出る       12/13
折りたたむ屏風の裏の置手紙     12/13
屏風越しのはずの恋の忍びがたき     12/13

手を出せば届くと誘う冬の月     12/15

闇よりも深き淵かと君が恋     12/15

かんじきの立てし雪音ただ聴けり    12/16

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2005/12/14

銀箭(ぎんぜん)

 遠い遠い昔の話である。私が未だ小学校にやっと上がった頃の話だ。もう、四十年の昔になる。
 ついさっきまでのカンカン照りの天気が嘘のような不意の雨に見舞われた。ボクと妹は、慌てて神社の境内の社に逃げ込んだけれど、青いシャツもパンツも下着までがスッカリ濡れてしまった。妹も全身がびっしょり濡れている。
 見上げると、空が真っ暗になっている。そのうち、雷も鳴るに違いない。ボクは雷は怖くない。でも、妹の奴は雷って奴が大嫌いだという。
 嫌いというより、とにかく怖いらしい。ボクには何が怖いのかさっぱり分からない。あんなの空が光ってるだけじゃないか。ちょっとゴロゴロ鳴っているだけじゃないか。
 別に強がっているわけじゃなかった。それどころか、ボクは雷とか台風とかが大好きなのだ。テンペンチイって奴が生じると、世の中のみんなが大騒ぎする。もしかしたらその騒ぎようが好きなのか…と思ってみたけれど、そうでもない。
 空とか海とか山とかに異変が起こると、ただただワクワクしてしまう。大地が生きてるって感じがしてしまう。
 一度、学校の仲間にそんな感じを話したら、変な顔をされたので、今はボクの本音を黙っている。そうか、怖がるのが普通なんだと、みんなの態度から学んだのだ。人様の前では、そこそこに怖がり、そこそこに平気を装っている。
 内心は、雷が鳴ると授業中でも外に飛び出して、雷鳴轟く中、土砂降りのグラウンドを走り回りたい気持ちで一杯になってしまう。

「兄ちゃん、怖いよー」妹はそう、呟いたまま、震える体をボクに押し付けて、体を丸めているばかり。
 妹の白いシャツもびっしょり濡れている。顔をボクの膝に埋めているので、妹の背中がやけに大きく感じられる。その背中は、濡れた薄い半透明の布切れを被せたようで、妙に生々しくボクには持て余し気味になってしまう。
 夕立に過ぎず、小一時間も雨宿りしていれば、雨も雷も峠を越すはずだった。なのに、空はますます暗くなる一方だった。さすがにボクも途方に暮れてきた。
 実を言うと、ボクは豪雨や雷や疾風には平気なのだけど、夜の闇が怖いのだった。こればっかりはボクにはどうしようもなかった。別に奇異な現象ではないし、日常の当たり前の風景に過ぎないのに、暗くなると足が竦んでしまう。闇夜に正体の知れない灯りが浮かんだりすると、狐火か、それとも人魂かと思われてならなくなる。
 ボクは内心、妹を置きざりにして、暗くならないうちに家に逃げ帰りたかった。
 雷よ、早く去れ!
 妹とは違う理由で、雷雨の早く過ぎ去るのを待ち望んでいた。

 さすがにいつしか雨は小降りになってくれた。雷鳴も稲光も過ぎ去って行った。
「ほら、起きろよ」
「もう、大丈夫、兄ちゃん?」
「うん、行っちゃったみたいだよ。」
「じゃ、目を開けるね」頭を起こしながら、お河童頭の妹は薄目をしてみせた。
「大丈夫だよ。行っちゃったってば」
 妹は、やっと大きく目を開いた。
妹の髪も服も体も、そして瞳も濡れていた。ボクはその時の妹の目が可愛くてならなかった。
「さあて、雷も消えちゃったし、帰るか。」
「うん」
「あんにゃ、うちの方角、どっちか分かるか?」
「うん!」そう言って、妹は、早く内に帰りたいのか、ボクの手を引いて歩き出した。しめしめである。ボクは闇夜が怖くて先になって歩けそうになかったのだ。
 今度はボクのほうが、薄目になって妹に手を引かれて歩き出した。妹は無邪気に、ただ一心にボクの手を引っ張るだけだった。

 その日の夜のことだった。
ボクがそろそろ寝ようとして、便所から妹が先に寝ている寝床の部屋に向おうとしたら、親父とお袋が何かひそひそと話しているのに気づいた。普段は隣近所にも響くような声で喋る父母なので、ボクはビックリした。何かボクか妹に聞かれては困る話なのだろうか。
 ちょうど、その頃、童話を読んだか、それとも誰かのを聞いたかで、人さらいとか、貧乏していると子どもを売り渡す家もあるという知識が仕込まれたばかりのボクだった。ボクは、根拠もなしに、まさか…、もしかして…、ボクか妹を売り渡す算段をしているんじゃないかという疑いを抱いてしまった。
 しかし、父母は、ボクが囲炉裏の間と仏間の間の柱の陰にいることに気づいて、すぐに話を止めた。
 ただ、ギンゼンという言葉だけがボクの耳に残っていた。

 ボクが盗み聞きを咎められたような気がして、身動きが出来ないでいると、
「何、しとんがけ。早く、寝られま」とお袋が言った。
 その声で、やっとボクは動けた。その場を去ってもいいと許可を受けた気分だった。

(何をこっそり話してたのか…。ギンゼンって何だ…。それともギンセンだったっけか。でも、ギンセンにしても、意味が分からない…。ん? それともキンセンだったかもしれない…。)最初は濁った発音だと思っていたのに、キンセンという言葉が思い浮かぶと、間違いなくキンセンだと思わてきた。
(やっぱり、そうなんだ。キンセン、金銭、おカネ…、ボクか妹をおカネが欲しくて…、それで…、売り飛ばすんだ!)

 ボクは寝床で散々考えた挙げ句、自分の推理に間違いがないと確信してしまった。
(内はそんなに貧乏だったっけ。確かに食べるものというと、田圃や畑で採れるものばかりで、何処かの店で買ったようなものは、めったに食卓に並ばない。御飯に味噌汁。味噌汁の具は、ダイコンとかジャガイモとか、ワカメとか、チボイモとか、フキとか、キャベツとか…。おかずというと、やっぱりダイコンにニンジンにナスにキュウリにイチゴにレタスに…。おやつというと、トウモロコシとかサツマイモとか、スイカとか、ジャガイモだ。そういやたまにキュウイもあったな。近所の家じゃ、しょっちゅう出前を取るのに、内じゃ、お袋が風邪を引いて倒れでもしないかぎり、出前なんて考えられない。そうか、内は貧乏だったんだ。そういや、親父は倹約しろよの一点張りだし…。今まで気付かなかったボクがバカだったんだ…)
 眠れないままに、今日の夕方の一齣を思い出されていた。父母の寝室からは、何か啜り泣きのような、悲鳴のようなお袋の声が微かに聞こえてくる。しまいに、親父がお袋をしかりつけているのか、親父の呻き声さえ、洩れ聞こえてきたのだった。
(そうだ、ボクが妹を置きざりになんて、考えるからいけなかったんだ。そんなボクだから、お袋だってうんざりして、家にはそんな子は置けないと考えたんだ…。闇が怖いだなんて、妹を捨て去るのと、どっちが大変なことか、もっと考えるべきだったんだ…。でも、ちゃんと我慢して一緒に帰ってきたじゃないか…、なのに…)
 その夜はボクはとうとう一睡もできなかった。

 翌朝だった。ボクは覚悟を決めて囲炉裏の間に坐った。既に食卓には朝から食べきれないほどの御飯やオカズが並んでいる。
(今日が最後の日だから…、だからせめてご馳走を並べてくれたんだ…)
 何も知らない妹が哀れだった。
(いや、妹は別に悪くないんだ。悪いのはボクだけなんだ。何処かへやられるとしたら、それはボクだ。仕方ないよな…。)
 しかし、朝食の時間はいつもの通り、何事もなく淡々と過ぎていった。妹は朝は目覚めが悪いので黙ったままなのは、いつも通りだし、お袋が台所と囲炉裏の間を頻繁に往復しながら、あれこれ喋るのもいつも通り。親父は、お袋の話を聞いているのか聞いていないのか、ボクには分からないのも、いつも通り。「どうした、おまえ、今日はやけに静かじゃないか」
 来た! とうとうその時が来た!
 ボクは掠れがちな声を絞って話した。
「何か話があるがじゃないけ?」
「話だと。何の話だ?」
 さすがに親父も話しづらいのかもしれない。
「だって、夕べ、キンセンがどうしたとか…」
「キンセン? 何だ、そりゃ。おい、かあさんや、わし等、キンセンの話なんてしたっけ、夕べ」
「キンセン? なーんも。」ダイコンのお漬物を運びながら、お袋は返事した。
 が、台所へ向おうとして、ふと、足を止めた。
「ああ、ギンゼンじゃないの。」
「ギンゼン? ああ、あの話か」
 ドキ! やっぱり、そうだ。親父とお袋は、ボク(たち)を…。謝るしかないと思った。
「夕べは御免。もっと早く帰るつもりだったがやけど、雨が」
「そうだよ。ギンゼンって、雨のことながよ」とお袋。全然、ボクの話を聞いていない。
「ギンゼン、雨?! どういうこと?」
「夕べね、凄い雷雨が突然、来たでしょ。でね、ラジオでね、夕べみたいな凄い夕立をギンゼンって言うんだって、やってたのよ。ギンは銀でしょ。銀色ね。つまり雨ね。で、ゼンって、難しいけど、火箭(ひや)というか、火箭(かぜん)のゼンのことなのね。火矢ね。よく時代劇の映画とかで、飛ぶらしいんだけど。つまり激しい雨脚を、銀の矢に見立てたわけね。洒落た表現があるのねって話をしてたがんぜ。分かったけ?」
「分かった…」
 狐に抓まれた気分だった。
(本当? 誤魔化してんじゃないが?)

 とにかく、それからも何事もなく過ぎ去ったのだから、最初は親父達を疑っていたボクも、そのことは次第に忘れていった。
 ただ、どうしても、引っ掛かることがあった。それは、じゃ、どうして、そんな話をヒソヒソ声でしなくちゃいけなかったかということだった。いつも通り、大声で喋ればいいじゃないか、そんなこと。内緒にする話でもあるまいに。ボク達が寝ていたって、平気で大声で喋る二人じゃないか。

 それから何年してからだったろうか。親父達がひそひそ声で喋ったわけが、或る日、不意に分かった。そうだ、二人は、今夜はやるぞ! オレの銀箭が飛ぶぞ! という話をしていたんだ。
 だから、ついつい、声を顰めてしまったんだ!


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2005/12/12

雪の帰り道

 小学生になって二年目のある雪の日の夕方だった。姉がバッグを肩に背負って玄関を出ていった。
 ちょうどボクが遊びつかれて帰宅したのと入れ違いになった。
 なんとなく澄ましたような、他人の顔。

 こんな時間に何処へ。雪だって降ってるのに。
「かあちゃん、ねえあん、何処、行ったの」
 ねえあん、というのは、ボクの姉を指す呼び名。ねえちゃんとも言えなくて、妙に半端な呼びかけになっていた。
「ん? 塾」
 かあちゃんは、台所で洗い物をしていて、見向きもしないで言う。
「じゅく?」
 闇の中に消えていった姉の背中。
 牡丹雪が足跡をやんわり消していこうとする。
 ボクは、急に不安になって、ねえあんのあとを追いかけた。
 不安。というより、おいてけぼりを食らったような気がしたのかもしれない。
 ねえあんにボクの知らない世界がある!
 それが我慢ならなかったのかもしれない。
「じゅく」
 ボクは、呪文のようにその言葉を繰り返しながら、姉のあとを追い続けた。
 街灯のお陰で、ねえあんが曲がり角を左へ消えていくのがちらっと見えた。
 雪にこぶりながら、ボクは必死になって追いかけた。
 アノラックのフードに雪の花びらが当たって、耳元でさらっさらっという乾いた音がする。
 闇夜から、ふんわり落ちてくる雪が、ボクの体にぶつかる瞬間だけ、擦れるような小さな音を立てる。雪の降る中、傘を差しながら、ずっとその音だけに耳を傾けながら歩くのが好きだ。傘に雪が溜まったら、傘をグルグル回して雪を降り飛ばして、同じことを繰り返す。
 幻想でも夢でもないんだよ、ボクらは本当に天から舞って来たんだよと告げているようだ。
 でも、今はそんな場合じゃない。
 ねえあんが何処へ行くのか、確かめなくちゃ。

 何処かの石の門柱のある家の前でねえあんに追いついた。
「どこ、行くが?」
「塾だちゃ。」
「じゅく?」
「そろばん塾」
 ねえあんは、息を弾ませて聞きただすボクに、いつものように淡々と答える。せっかちなボクとはまるで性格が違うのだ。
 しばらく、門前で佇んで、雪が溶けて頬を伝うボクを見つめていたけど、そのうち、黙って「じゅく」とやらの中へ入っていった。
 そこにはボクには窺い知れない世界があるようだった。玄関には所狭しと色とりどりの何足もの長靴が見えた。
 中に入って、「じゅく」で何をやるのか、確かめたかった。
 でも、臆病なボクにはそんなことはできない。
 
 ボクは、ただ、すごすごと雪の中を帰るしかなかった。ねえあんも、遠くなってしまった…。
 
 頭の中では、保育所時代の思い出が蘇っていた。
 春先だったろうか、何処かの原っぱでみんなが草野球をして遊んでいる。
 そんなみんなを隅っこで眺めているボク。

 醜いと言われた自分。鏡の中でゆがんだ顔をもっとゆがませ、おどけてみせるのが好きな、ひとりぼっちの自分。
 いつか、ボクも、みんなの仲間に入れるだろうか。そんな日が来るんだろうか。
 みんなの歓声が耳に痛い。はしゃぎまわる姿が眩しい。
 そのうち、ボクは、いつものように、ひとり、はぐれて石ころなど蹴って立ち去っていくんだろう…。

 そう思っていたら、不意に背中を叩かれて、我に帰った。
 そこにはねえあんがいた。
「何、しとんがいね。」
「ううん、なんも。」
「みんなと遊べばいいがないが。」
 そんなことができるくらいなら…。喉まで文句が出掛かっていたけれど、言葉に詰まるばかりで、ただ、「いいがやちゃ!」と言うのがやっとだった。
 
 そうしてどれほどの時が過ぎただろうか。
 不意にボクの足元にボールが転がってきた。
 拾おうとしたら、ねえあんが横取りした。
 そして、びっくりするほど大きな声で、
「ねえ、あんたらち、この子も混ぜてやってよ!」と言うではないか。
 ねえあんはボクを立たせ、肩に手を置いていた。

 ボクは絶え入りたいほど恥ずかしかった。
 ねえあん、何、言うんだよ、やめとけよ…、なんてことさえ、言えない。
「うん、いいよ。」
 呆気ないほど、簡単だった。
 ねえあんは、ボールをボクに渡してボクの背中を押した。

 ボクは、その日、日の暮れるまでみんなと遊び興じたっけ。

 それだけのことだった。
 でも、ポンと背中を押すねえあんの手の感触が忘れられないのだった。

 どうしてそんなことを今、思い出したのか…。
 
 はっと、気付いた。ねえあんが違う世界に行ったら、ボクはまた独りぼっちになるから…、それが怖いから…、だからねえあんを必死になって追いかけたんだ、と。

「じゅく」からの帰り道。ボクは途方に暮れていた。
 そうだ、いくらなんでも、もう、ボクはねえあんなしでも友達を作れなくっちゃいけないんだ。今更、ねえあん、ねえあんっていう年でもないんだ。

 そう思うと、必死になって追いかけてきた自分が恥ずかしくてならなくなった。
 
 そうだ、ねえあんはねえあんだ。ボクはボクなのだし。
 
 雪は降りやまない。牡丹雪が粉雪に変わってきて、フードの隙間から耳へ鼻の穴へ、目の中へ容赦なく降りかかるのだった。
 道の両脇へと掻き分けられた雪の道を、ボクは呆然と眺めていた。
 これから、一体、どうしたらいいだろう。
 何も見えないじゃないか!
 それでも、地の世界を埋め尽くす真綿の絨毯の上を、夢見心地で歩いていった。ついさっき、駆けてきた足跡は、とっくに消えていた。
 ねえあんとの思い出も消えていく。「じゅく」にねえあんが消えていったように。
 真っ白な雪が降り積もっているというのに、道の先は真っ暗だった。
 闇の空から白い魔物が舞い降りてくる。なにもかもがうずもれていく。
 頬をまた溶けた雪が雫となって流れ落ちて、今度は喉元へと流れ込んでいった。

 冷たい!
 そうなんだ。この冷たさが本当なんだ。
 なのに、なぜか、妙に開放されたような気がした。白い絨毯の道を歩く。足跡を掻き消す天の道。あるのは、弾むような息遣いだけ。

 ボクは、ハーと思いっきり息を吐いてみた。すると、吐息は自分でも驚くほど、真っ白なのだった。
 一瞬、雪さえも消えてしまう。
 雪より白い吐息!
 吐息が、いつだったか、かあちゃんの言っていた「たましい」って奴に見えた。
 そうだ、ボクには、「たましい」があるんだ。その気になったら、いつだって口から吐き出してみせることができる!
 その日、ボクは、バカみたいに何度も立ち止まっては、大息を天に向かって吐きながら帰った。
 きっと、今日という日のことは、一生忘れないだろうな。
 雪の帰り道。一人ぼっちの影。
 違う。ボクと「たましい」との二人ぼっちの道なのだ。

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2005/12/06

落句拾遺11-1

「雅句駄句拾遺」と自称しておりますが、段々あちこちで書き散らしている句を拾いきれなくなっています。
 一部、12月作のものも含まれています。
 多くの句は訪れた先の掲示板に書き込んだもの。先方様の句や日記の文を載せ、小生の寄せたコメントを付して句を掲載すれば、それぞれの句の味わいも随分と違ってくるのですが、なかなか事情が許しません。

2005_12060064

← 6日朝、多摩川の陸橋上にて。あまりに明け初めの空が美しくて、信号待ちの間に慌てて撮った。 

 ともあれ、落穂拾いは自分でやらなくっちゃね、ということで、せめて、即興で詠み書き込んだ句の数々を拾い集めておくわけです。
 落語なんて芸能があるけど、落句って芸能がここで生まれるかもね?!
 ということで、今回から表題を落句拾遺に改めます。気分一新! 中身、旧態依然!

 では、雅句駄句落句のオンパレードの始まりだ!

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鍵は何処探した挙げ句部屋の中(November 02)

桃割れの先が急かれる秋の夜(November 04)

稲孫観し我が心にも生えるかと(November 06)

立冬やピザを食べたら立腹だ…じゃない、満腹だ!(November 07)

桃青と背中合わせの無精かも(November 10)

秋の夜網から漏れて蚊帳の外(November 13)

大根は煮ても干してもうまいんだ!(November 14)

 抜け落ちし髪を集めてカツラかな
 抜け落ちし髪を並べて供養せん
 木の葉髪見入る鏡の眩しかり
 犬猫の体毛を真似よ木の葉髪
 冬の日を木の葉髪にて知るならん
 木の葉髪梳くお前見る我怯え
 木の葉髪梳くいようなし櫛いらず
 抜けるなら頭髪避けて木の葉髪
             (November 19)

髪を切る残り少なさ呪いつつ(11/20


途切れ行く音色を追えば秋の夜
          淋しさ募り揺れる月影
貝殻を拾い集めて海を見る
       手にしは海の精と思われて
群れ集うカモメ眩しと潤む目よ
          孤影と旅の果て無き彼方
              (11/23)

 木枯しや我が子悲しと聞こえけん
 息をのむそのまま止めて息絶える
 木枯しを知らずひねもすのたりかな
 木枯しやわが身打つとて吹くのかね
 木枯しは町を清める?埃増やす?
 木枯しに人掃き寄せられて年暮れる
 木枯しに舞い散る葉に髪思う
 木枯しに吹き寄せられしわが身かも
 木枯しに我が煩悩も飛べばとて
                 (November 26)


君は誰聞く野暮さえも募る秋(11/27


月影を追いつつ惑う我なるや
         雪より白き花追うごとく
              (11/27

猫なれば寝そべる場所に迷うかも(11/27

若い頃は何も考えず食べたいだけ呑みたいだけ呑めた、それが今じゃ、カロリーが気になって気になって…。
食べるだけ呑むだけ嬉し遠い日よ(11/27

茶の花の秘めたる想い熱からん(11/27


陽だまりを拾って歩く空眩し(11/27
猫ならぬオイラにゃー拾えぬ陽だまりさ(11.28)

柊の花のあれども姿なく
柊の花の香追って葉に泣いて
柊の花にも負けている我か
柊の花のようには生きられず
柊の花の咲く木の頑固なり
              (November 28)

語るよりただ思えとぞ紅葉散る(11/29)

枯木立犬無き我が家映しけり(12/4)

冬の日や吐く息の白さ変わらざり(12/5)

降る雪に足の掬われ空仰ぐ(12/06
梳きし髪闇の河とて渡るかも(12/06

氷輪に孤影映して山の道(12/06)
                 (「氷輪」とは、「冷たく輝く月」)

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2005/12/04

いつか来た道

 どこを歩いているのか分からないでいた。遠い昔、気が遠くなるほどに遠い昔、一度だけ歩いたことのあるような道。薄闇にかすかに浮かぶ竹垣の家の曲がり角が、なんとなく見たことがあるような気がする。

 そうだ、ガキの頃に、追いかけっこか鬼ごっこをしていて、必死になって逃げる際に、あの角から出っ張っていた竹か、それとも竹垣から突き出ていた松の枝だったかにセーターの袖が引っ掛かってしまって、一瞬だけど身動きできなくなって、懸命にもがいていたんだった。
 あの時、鬼に追いかけられていた。鬼ったって、近所の兄ちゃんだったはずだけど、なんだかホントに鬼のように思えた。掴まったら食べられてしまう、お寺かどこかで見た地獄に落ちた悪人のように魔物たちにパックリ呑み込まれてしまう、でなかったら閻魔様のところに引き摺られていって、お前はなんて悪い子なんだと、怖い顔で睨まれてしまう…。
 鬼ちゃんの、じゃない、兄ちゃんの足音が聞こえる。今、思えば、兄ちゃんは、わざとゆっくりと追い掛けてくる。簡単には追いついたりしない。だから慌てる必要なんてなかったんだけど、そんなことがあの時のボクに分かるはずもない。
 ボクは泣きそうな思いでセーターの袖口を引っ張った。裂けようが穴が開こうが、そんなことはどうでもよかった。だけど、焦れば焦るほど、毛糸が絡まって毛玉みたいになって、しまいにはボクは本当にワーワー泣き出してしまった。
 どれほどの時間、泣いていたのだったろう。気がついたら、日が落ち始めていた。周囲はシーンと静まり返っている。誰もいない。日中はともかく夜ともなると、誰も通らない道。
 ふと、袖の辺りを見遣ると、裂け解れた毛糸が毛玉になってダラリとぶら下がっている。けれど、もう、何処にも絡まってなどいない。
 そうだ、ボクは無我夢中で力任せに逃げようとして、どうしても解れなくて、とうとう気力が萎えて、ホントは何処へも逃げられるのに、へたり込んでしまっていたのだ。
 秋口で、寒くはないはずだけど、でも、背筋がゾクゾクし始めていた。
 鬼ちゃんは、じゃない、兄ちゃんは、どうしてボクを捕まえてくれなかったんだろう。他に獲物があったからなのか。
 薄闇の竹垣の道。街灯などあるはずもなく、ボクの大嫌いな小父さんの家の窓から溶けたアイスクリームのような、だらしない灯りがそこらに垂れ零れているだけ。あの時、空に月とか星とか見えたっけ。

 オレは、何処とも知れない道を歩き続けていた。馴染みのあるような、でも、よそよそしい道。あの時のオレはどうしてあんなにも必死に逃げたのか。今では分かっている。そうだ、鬼ちゃんのあの性癖のせいなのだ。兄ちゃんは、獲物を捕まえたら、何処かの藪に連れ込んで、なんだか訳の分からないことをする。ボクは、その光景を何度となく見詰めてしまった。そうだ、ボクは逃げ足が速かったから、それに可愛いほうじゃなかったから、鬼ちゃんの餌食にはならなかった。
 でも、兄ちゃんに掴まってさんざんに可愛がられた女の子は何人もいる。女の子がいないときは、可愛ければ男の子だって餌食になる。兄ちゃんの玩具になる。真っ裸にされて、そして裸のお兄ちゃんの裸のどこかに潜り込まされる。
 オレは、そんな真似をさせられるのが嫌で嫌でたまらなくて逃げた…。そう思っていた。ずっと、そう思ってきた。いや、そう思いたかったのだ!
 でも、もう、今じゃ、さすがにオレは分かっている。そうだ、オレはあの時、兄ちゃんから逃げようとしたんじゃなかったんだ。オレは、お兄ちゃんのいるほうへ急いで行きたかったんだ。そして、お兄ちゃんのやることを、玩具となったやつらの哀れな格好を、えげつない仕草を眺めたかったんだ。オレはあいつらみんなが何故か憎かった。みんな可愛くて、無邪気で、親に大切にされていて…。
 だけど、そのときは、焦ってしまって、兄ちゃんの与えてくれる楽しみに間に合わなかった。鬼ちゃんが餌を呑み込むさまを、いや、呑み込まさせる光景を一緒になって、そう、自分も食っているような、食わさせているような気分になって楽しむ、その愉しみがフイになってしまうことが惜しくてならなかった。オレはそのことを悔しがっていた…。

 オレは、何処とも知れない道を歩いていた。そうだ、今度はオレが鬼ちゃんになるんだ。そのために、今、薄闇のいつか来た道を餌を求めて歩いているのだ…。


                          03/12/24 21:04

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