電車の男
久しぶりの電車だった。なんだかはしゃぎたくなるような浮かれた胸の高鳴り。まるで遠足にでも行くみたいな。
その昔、電車やバスというと視線が気になって乗るのが怖かっただなんて、我ながら信じられない。
そうだ、あの頃は、自分が見つめられている、観察されている、いや、見張られているような気にさえなったものだった。
思えば、父や母の庇護のもとに自分がいた。常に守られていた。
けれど、眼差しが熱くて、鬱陶しいと思うばかりだった。
あまりに暑苦しいので、両親の目の届かないところに居てさえも、橙色の光線が背中に、肩に、お尻に、お腹に、仕舞いには足元にまで射竦めていた。
気分さえ良かったら、あの頃の自分は陽だまりとなった視線にぬくぬくすることができたこともあった。
そんな夢心地の時は、めったになくて、実際には二人の巨大な瞳の海を彷徨う、オールのないボートに揺られていた。たっぷりと水が溜まった瞳と言う名の天蓋が、あまりの重みに耐えかねてあの頃の<ボク>を押し潰さんとしていた。夜中、胸苦しさに目覚め起き上がって、ぜーぜーと激しく息を吐いたことが何度あったことか。
<ボク>は、鉄柵で囲われた児童公園の砂場に大人しく遊ぶ、そう飼い馴らされた小熊だった。
それでも、いつの頃からだったろうか。首輪が外されてしまった。<ボク>は戸惑った。足枷に行動の自由がさえぎられているのが当たり前だったのに、突然、糸の切れた凧になりなさい、風の吹くまま何処へでも飛んでいいなさいと突き放された。
そう、あの日、二人は別れてしまった。いや、三人はそれぞれが風船になって虚空へと舞い上がっていったのだ。
ボク、大丈夫よ、どんなことがあっても、母さんはお前のことを忘れないからね。
一人ぼっちだと思っちゃ、ダメだぞ。オレはいつもお前のことを見守っている。
暑苦しい視線に絶えず突き刺される感覚が懐かしくなったからか。失われて初めて庇護の温みの掛け替えのないことに気づいたからか。あれ以来、ボクは…オレは眼差しを追い求めるようになった。
細波さえ立たない湖面に浮かび漂っているボク。凪の海のまにまに浮かびつつ空を見ていたボク。天は潤む青き水晶だった。
雲の上では風の神が采配を揮い、ボクにエールを送ってくれていた。海よりも大きな池に棲むナマズの、頼もしいばかりに黒光りする体躯は、大地の鼓動をもおいしい餌だとばかりに呑み込んで、この世にボクを揺るがす何者もありえないと伝えてくれているようだった。
そう、ナマズは天が憑依した我が守護神だったのだ。
二人とは、月に一度、電車に乗って会いに行く。一人、取り残されたボクは、叔父の家に預けられていた。二人は言い争った挙句、どちらの手にもボクは渡されなかったのだ。ボクも、どちらをも選ぶことができなかった。
ボクは、どうせいつかは二人が別れて一人になるのなら、いっそのこと最初から一人がいいと思いつめていたのかもしれない。
むきになって、空と海の間で一人ぼっちを決め込んでいた。ボクのやけくそな意地だった、ような気もする。
オレは今、電車に乗っている。あの頃のボクをふと、思い出す。
車窓の彼方に二人が居る。離れ離れの二人は、その時だけ、顔を合わせる。プラットホームに並び立つ二つの影。
並んでいる…。二つの影が遠めには一つにも見える。けれど、電車がホームに近づくにつれ、ボクの目の分解能が二人を分離させる。
そうだ。その二人は永遠に交わることのない平行線だ。ひと時は漸近線を描いて、ともすると交わり重なるかとも見えたけれど、実際には双曲線だった。
そして今は、ねじれの位置にある二つの直線。角度をさえ工夫したら、直交しているようにも思えなくもない。会うときには、ボクも二人も敢えてそのようにして遊園地などへ遊びに行く。
レストランや公園や映画館などをグルグル回った後は、また、三人は遠くへ離れ去っていく。何処までも、限りなく遠くへと飛び去っていってしまう。
それこそがボクの物語なのだった。心を閉ざし目を塞いでも、三つの点は、それぞれの遠い宇宙からある特異点に収斂し、連星のように互いの周りを廻り合い、やがて摂理に従って離散するという物語。
元気だったの。
大きくなったな。
う、うん。
けれど、心の中では、それぞれの点は、刹那の時も近づきあったことなどないことを知っている。ああ、人生とは物語なのだ。物語を作り演じることなのだ。
父ちゃん、母ちゃんというボクの呼びかけは、闇の中に呑み込まれ、霧消していく。当て所のない声。
じゃね、またね。元気で居てね。
オレたちはお前のことを大切に思っているからな。
うん、分かってる。
ボクは取り残される。毎月、一度、結婚と出産、離婚という儀式を繰り返しているようだ。二人に手を取られて引き千切られるボク。
いっそのこと、ホントに裂けてしまえばいいと何度、思ったことか。
そしたら、いつしか本当にボクは千切れ裂けてしまった。
ボクは自分を見つけられなくなった。片方のボクを見つけたときには、もう片方はとんでもないところで明後日の夢を空しく追っていた。
それじゃ、というので、今度は片割れを壁か床に釘付けしておいて、そうして相方をさんざん探し回って、そうしてやっと見つけ連れ戻してきたときには、片割れは干からび息絶えているのだった。
二人はもう居ない。
もう、ボクは、いや、もう、とっくにオレとなってしまった。オレは二人を追わない。オレはオレなのだ。オレは今、宇宙の両極に跨る一個の、股裂き状態の宇宙雲。存在の無。
もう、誰にも見つめられることなど必要のない存在に成長したのだ。
ただ、脱皮してみたら中身は透明なゼリーだった。ぶよぶよするばかりの流動体だった。堅固な殻に包まれていないと、あっという間に流れ出し溶け出してしまう、抽象的な哀しみだった。
点とは長さのない線のこと。点とは長さも厚みもない球体のこと。極限状態までに圧縮された宇宙。
オレとは誰にも焦点の合わないレンズ。
そこにあると分かっていても、見えない水晶体。
だから、今、安心して電車に乗っていられる。誰にも見咎められることがないって、なんて素晴らしいことだろう。まるで羽が生えたみたいに身軽だ。
今じゃオレは周囲を見渡したりなどする。辺りを睥睨してやる。
オレは世界だ。世界を足下に照覧する一個の不在の神だ。世界という無を見透かす空しさだ。誰にも振り返られることのない、電柱の張り紙だ。剥がし切れない町内会の掲示板のビラなのだ。
二十年ぶりだろうか、電車に乗って出かけるのは。
こんなにも愉快な気分に浸れるのなら、もっと早く電車に乗るんだったと後悔するほど、痛快な気分だった。
携帯でお喋りする小母さん。スポーツ新聞に読み耽る小父さん。化粧が濃くて、クシャミの一つでもしたら、ドウランの罅割れそうな女。スカートの奥が覗けそうなのも構わず眠りこける女子高生。その女の子を凝視する黒縁眼鏡の似合う男。ギターか何かの楽器が入っているのだろうか、黒いケースを膝に乗せている若者。
ああ、みんな仲間だ。みんな有り触れた日常を生きるオレの同類だ。
…などと物語を作ってみる。
その何処にもオレの出番が見つからない。
電車はあの日、最後に三つの影が一つの塊になりかけた町へ向かう。
あのプラットホームは、今も変わらない佇まいを保ったままだろうか。
オレをあの日のように立ち尽くさせてくれるだろうか。
駅に降り立つオレを優しい無関心の眼差しで迎え、町の彼方へ消え行くのを静かに見送ってくれるだろうか。
いよいよ電車が駅に近づいてくる。
電車の中をオレの眼差しが携帯の発する電磁波のように飛び交っていた。鉄の箱の中を乱反射していた。ボクだった頃のようには、眼差しという槍が無数に突き刺さることなどありえない以上は、もう、子供じゃないのだし、自分の力で視線という匕首の乱舞を演出するしかないのだ。
電車内は空虚で満ち溢れていた。
オレの眼差しも人の目線も一緒になって、これでもかというほどに縦横無尽に跳ね回っていた。
車内も車窓から見える景色もひずみ崩れ去ってしまう。
まるで溢れんばかりの涙に世界がゆがんでしまうように。
なのに、電車から食み出すのは寄せ集めの心の肉片を懸命に掻き抱く一個の骸だった。
改札口を出た。
風景はあの日のまま、に思えた。
一つの影が白昼の町に消えていくことを除けば。
[ 本稿は、11月13日頃、パソコントラブルでネット接続が叶わなかった時に、作ったもの。原題は「電車の中」だったのですが、改めて書き起こしているうちに中身が変わってしまったこともあり、題名も「電車の男」に変更しました。何も「電車男」に対抗しようと思って書いたわけではないのです。その証拠に、まるでドラマがないのです。ネット接続ができないという鬱憤が、この得たいの知れない掌編の底にとぐろを巻いてあるのかも?! (05/11/27 アップ時注記)]
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