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2005/11/08

誰もいない森の音

 そのつもりはないのだが、仕事柄もあり、望まなくとも徹夜してしまう。夜を起き通すのが珍しくない生活を送っている。 連休で在宅していても、日中、疲れを取るために寝込むため、その余波で夜中になっても眠気がやって来ず、それどころ逆に目が冴えてしまったりする。
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← 11月初め、羽田空港からの帰り、某休憩所にて。小さく、でも目には眩く一番星が…。 

 仕事では、どこで夜を迎えるか、分からない。夕刻の淡い暮色がやがて宵闇となり、さらに深まって、真夜中を迎える場所が都会の喧騒を離れる場所だったりすると、耳にツーンと来るような静けさを経験したりする。
 が、仕事中は方々を移動するので、時間的な変化と場所の変化とが混じり合って、時の経過につれての夜の様相の変化の印象を掴み取るのは、さすがに少し難しい。
 それが、在宅だと、折々、居眠りなどで途切れることがあっても、一定の場所での光と闇との錯綜の度合いをじっくり味わったり観察したりすることができる。 夜をなんとか遣り過して、気が付くと、紺碧の空にやや透明感のある、何かを予感させるような青みが最初は微かに、やがては紛れもなく輝き始めてくる。
 理屈の上では、太陽が昇ってくるから、陽光が次第に地上の世界に満ちてくるからに過ぎないのだろうが、でも、天空をじっと眺めていると、夜の底にじんわりと朧な光が滲み出てくるような、底知れず深く巨大な湖の底に夜の間は眠り続けていた無数のダイヤモンドダストたちが目を覚まし踊り始めるような、得も知れない感覚が襲ってくる。

 朝の光が、この世界を照らし出す。
 言葉にすれば、それだけのことなのだろうけれど、そして日々繰り返される当たり前の光景に過ぎないのだろうけれど、でも、今日、この時、自分が眺めているその時にも、朝の光に恵まれるというのは、ああ、自分のことを天の光だけは忘れていなかったのだと、妙に感謝の念に溢れてみたり、当たり前のことが実は決して当たり前の現象なのではなく、有り難きことなのだと、つくづく実感させられる。
 もう、すでに短い人生とは呼べない年齢になった。しかし生き過ぎたほどに生きたわけでもない。体の衰えは、隠しようもない。が、まだ、動くことができる。歩くこともできる。じっくりと時の流れに向き合うこともできる。
 たとえ、誰一人、この瞬間に立ち会ってくれる人がいないとしても、とにもかくにも生きて大地の片隅に立っていることだけは、間違いようのない事実のはずだ。s-DSCF0380

→ 11月7日、千鳥が淵戦没者墓苑近くから皇居を望む。穏やかな湖面、そして豊かな森。

 コンクリートとアスファルトとガラスとステンレススチールとプラスチックと化学繊維と漂白された紙の束と化粧紙に覆われた壁とが、見渡した周囲にあるだけの自分の世界。
 そしてそれ以上に情の根の涸れたような、泉の源からは遠く離れてしまった自分の心。日々の営みに我を忘れている。明日への気苦労に、自分が本当は素晴らしく有り難き世界に生きているはずの奇跡を忘れ去ってしまっている。
 海の底の沸騰する熱床で最初の生命が生まれたという。命に満ち溢れた海。海への憧れと恐怖なのか畏怖なのか判別できない、捉えどころのない情念。
 命という、あるいは生まれるべくして生まれたのかもしれないけれど、でも、生まれるべくしてという環境があるということ自体が自分の乏しい想像力を刺激する。刺激する以上に、圧倒している。
 自分が生きてあることなど、無数の生命がこの世にあることを思えば、どれほどのことがあるはずもない。ただ、命があること自体の秘蹟を思うが故に、せめて自分だけは自分を慈しむべきなのだと思う。生まれた以上は、その命の輝きの火を自らの愚かしさで吹き消してはならないのだと思う。 そうでなくなって、遅かれ早かれ、その時はやってくるのだ。
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← 同じく千鳥が淵にて。春には桜の名所となり、人々は湖面を水鳥の泳ぐようにボートに乗って漕ぎ出していく…。

 宇宙において有限の存在であるというのは、一体、どういうことなのだろう。 昔、ある哲人が、この無限の空間の永遠の沈黙は私を恐怖させる、と語ったという。
 宇宙は沈黙しているのだろうか。神の存在がなければ、沈黙の宇宙に生きることに人は堪えられないというのだろうか。
 きっと、彼は誤解しているのだと思う。無限大の宇宙と極小の点粒子としての人間と対比して、己の存在の危うさと儚さを実感したのだろう。
 が、今となっては、点粒子の存在が極限の構成体ではないと理解されているように、宇宙を意識する人間の存在は、揺れて止まない心の恐れと慄きの故に、極小の存在ではありえない。心は宇宙をも意識するほどに果てしないのだということ、宇宙の巨大さに圧倒されるという事実そのものが、実は、心の奥深さを証左している。
 神も仏も要らない。あるのは、この際限のない孤独と背中合わせの宇宙があればいい。自分が愚かしくてちっぽけな存在なのだとしたら、そして実際にそうなのだろうけれど、その胸を締め付けられる孤独感と宇宙は理解不能だという断念と畏怖の念こそが、宇宙の無限を確信させてくれる。s-DSCF0388

→ 思いがけず目の前の船着場に白鳥が飛来してきた!

 森の奥の人跡未踏の地にも雨が降る。誰も見たことのない雨。流されなかった涙のような雨滴。誰の肩にも触れることのない雨の雫。雨滴の一粒一粒に宇宙が見える。

 誰も見ていなくても、透明な雫には宇宙が映っている。数千年の時を超えて生き延びてきた木々の森。その木の肌に、いつか耳を押し当ててみたい。
 きっと、遠い昔に忘れ去った、それとも、生れ落ちた瞬間に迷子になり、誰一人、道を導いてくれる人のいない世界に迷い続けていた自分の心に、遠い懐かしい無音の響きを直接に与えてくれるに違いないと思う。
 その響きはちっぽけな心を揺るがす。心が震える。生きるのが怖いほどに震えて止まない。大地が揺れる。世界が揺れる。不安に押し潰される。世界が洪水となって一切を押し流す。
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← その水鳥は、船着場の端っこで羽を休める。しばらくすると、もう一羽が飛来。二羽は番(つが)いなのか親子なのか…。 

 その後には、何が残るのだろうか。それとも、残るものなど、ない?

 何も残らなくても構わないのかもしれない。 きっと、森の中に音無き木霊が鳴り続けるように、自分が震えつづけて生きた、その名残が、何もないはずの世界に<何か>として揺れ響き震えつづけるに違いない。 それだけで、きっと、十分に有り難きことなのだ。 s-DSCF0396

→ 見えるだろうか、片割れの一羽が左の白いポールの根元付近に。

 水鳥は悲しからざり あるがままにて 命 息衝ければ

「誰もいない森の中で一本の木が倒れたとき、どんな音がするのか」

 この問い掛けに対し、そもそも木が倒れたかどうか、それ自体が不明ではないかという疑問が成り立ちうる。誰もいない森の中で木が倒れたとしても、誰も気が付くはずがない、というのである。尤もな話だ。
 それゆえ、森の中で木が倒れたという気がするなら、森の中へ分け入って、その時間帯に木が倒れた形跡があるかどうかを実際に確かめてみればいいのだ。
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← 喧騒を忘れて? 公園の直下には高速道路が走る。そう、喧騒など知らぬ顔の森の道なのだ。

 本当に倒れた木があったのなら、木が倒れる際に、まるで無音ということは考えられない。従って音がしたのだし、その音がどんな風だったかを確かめたいというのなら、同じような木を同じような条件のもとに倒してみればいい、するとほぼ完璧に似た音を聞くことができるはずだ…。
 なんという科学的な態度だろう。全く、二の句も告げない。現代においては、何事も、こうでなくちゃいけない。 誰もいなかったとしても、誰も聞いていないとしても、木が本当に倒れたのなら音がしたのだろう、それがどんな音だって、どうだっていいじゃないか。別に科学的だろうが、ただの理屈だろうが、話はそれで終わりってことでいいじゃないか…。
 が、それでは話がまるでつまらない。問いの持つ何処か意味深な雰囲気が掻き消されてしまう。身も蓋もない気がしてしまう。この問いに対して、単にもっともらしい理屈を持ち出して済ませられる人もいるのだろう。そしてそのほうが常識のある態度なのだろう。
 しかし、この問いの形式には、何か胸に響くものを感じてならない。 一体、この問いは、本来、何を問い掛けているのだろうか。

湿気が充満する日の森ほど表情が美しい時はない。雨の降る森には静寂感が忍び寄っているし、霧が包む森には淡彩色の美が漂う。雪が降る日は森の神秘性が最も色濃く現れて、心が洗われるような思いになる。

 空中には無数の細菌やウイルスが犇いている。大腸では大腸菌などが無数に生息している。息をし、あるいは消化をする度に、無数の生き物を殺していることになるのだ。ジャイナ教の教祖様が生きていた頃は、顕微鏡などなかったから、目に見えない生き物をさえ、殺さなければそれで殺生は避けられることになったかもしれないけれど、現代では、息をするだけで無数の生き物を殺していることを誰もが知っている。
 物心付いて、この世界に目覚める。自分がとにかく、一個の広い世界にあることに気づく。木々と大地と山と空と川と空気と、そして人間だけではない多様な生き物の世界。雨の雫が葉裏を伝う、その雫を通してさえ、豊穣な世界を感じることができる。s-renge-mori-1

→ 鳥の声が、聞こえる山道。苔や羊歯の匂いが強くする山道。
   雨が上がり、霧が少し残る。

   落ち葉が積もった道は、足音も消してしまう。 

 しかし、中には、物心付いた時に、心が枯れていることに愕然とする奴もいる。
 風にも心が騒がないし、大地を裸足で走り回る悦びを感じない奴もいる。理由は親の虐待だったり、仲間からの虐めだったり、あるいは心を醸成する肉体的環境そのものが劣悪だったり、理由は様々なのだろう。
 植物の発する強烈な臭いは生命の根源に触れるような思いがする。毛深い犬や猫の体臭に獣を感じ、あるいは母の胸にこそ命の源泉を感じるかもしれない。花の芽吹きや開花に自然というものの神秘と生きる歓びを感じることだってあっていいはず……、なのに何も感じられない奴だっている。
 心が閉じている人間に、さて、どうやって世界の広さを告げたらいいのだろう。命の感覚、切れば血の吹き出る漲る生命感をどう伝えたらいいのだろう。命というのは、時にはかないものだから、だからこそ大切なのであり、それこそ再生可能で、あるいは傷付くことも腐ることもないプラスチックかステンレススチールのような肉体を人が、生き物が帯びているのなら、命の切なさという感覚など最初から無縁だったに決まっている。そうではないからこそ、傷付くのだろうけれど、でも、心が寂れ果てている人間に、はかなさともろさと他愛のなさこそが命なのだと、どう分かってもらったらいいのだろう。
 そう、本当に切羽詰った人間は、「なぜ猫を殺しはいけないのか」などと問い掛けたりはしない。そんな余裕などあるはずもない。溺れ行く人間が、藁をも掴みたくて必死で喘いでいるのに、そんな問いなど発するはずもない。生命の貴重さを、ありがたさを感じられない、どうでもいいのではと思っているなら(考えているのではない)、溺れるなら溺れるに任せるに違いない。人を殺すとか、そんな元気などあるはずもない。少なくとも小生はそうだった。
 だから、小生に限るなら、仮に問いを発するなら、恐らくはまったく違う声をあげるだろう。「助けてくれ!」と。訳もなく沈んでいくのをどうしたいいのか、このまま沈んでいいの?」と。
 でも、そんな声さえ出ることはない。悲鳴を上げるなど夢のような話だったりする。ただ、闇の中でより深い闇の中へと踏み迷っていく。闇夜の道の泥沼に沈んでいく。溺れたくはないのだろうし、助けても欲しいのだけれど、誰にそんな救いを求めていいのか分からない。
 ただ、闇の中にいる。闇の中で無言の喚き声が裏返る。頑固な檻に取り込まれて、掠れ声さえ外には洩れない。
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← 古木は倒れた時、悲鳴を上げたのだろうか。誰か聞いた? あの日、わけもなく心が震えたのは、そのせい?

何にもしないこんな自然が、私は大好き。
森は生きている、そんな実感が湧いた秋の森。

 とにかく生き延びることを先決に考える。とにかく今は命がある以上は、生きてあることを続ける。命に価値があるかどうかは先になって、生き延びていたなら考えればいい。今の闇の道をとにかく歩き通す。ただ、堪える。命の感覚を味わいたいと思う。いつかは他人と心を交わす日があるのかもしれないと微かな期待を抱いた振りをしてみたりする。自分で自分の鼻先にニンジンをぶら下げるようなものだ。愚かしい光景ではある。バカみたい。それでも、とにかく生き延びる。そのうち何かを感じる日があるかもしれない…、のだし。
 あるいはトコトン生きてみて、何も見つけられない、何も感じられない、誰とも何も分かち合うことがないままに齢を重ねていくのかもしれない。
 自分には、勿論、「なぜ猫を殺しはいけないのか」という問いに答えられるはずもない。それどころの騒ぎではない。猫を殺していいとなったら、つまりは自分をも殺していいことになってしまう。殺してはいけないとは、つまり、自分が呆気なく命を終わらせることを許さないためなのだ。
 その上で、命を感じたい、生きてあることの喜びを感じたい、誰かといつか何かを分かち合いたいのだ。それ以上の望みなど、あるものか! である。
 今の自分に答えられるのは、それくらいしかないのである。
 人間のエゴの許される範囲内でしか、命を愛でることはできないのだけれど、それだけのことができるだけでも、素晴らしいことなのだし、それ以上を人に求めるのは、ないものねだりになるのだろう。


[ 本稿は、石橋睦美「朝の森」を観てインスピレーションが湧き、書き下ろしたエッセイ『石橋睦美「朝の森」に寄せて』に、他のエッセイからの抜粋をミックスしたイメージ紀行文です。
 久しく、この一連のエッセイの世界を豊かにしてくれるような、できれば掲載可能な画像を求めておりましたが、やっとつい最近になって発見し使用の許可を得ました。蓮華草さん、ありがとう! 
 最後の鳥を飾っている二枚が蓮華草さんに戴いた画像です。
 ただ、サイトの容量の都合で、申し訳なくも画像は縮小しております。残念です。本来の画像は是非、リンク先に飛んでご堪能下さい。きっと、小生とは違う、暖かで豊かな森の世界に出会えることでしょう。誰からの画像と注記してないものは小生が撮ったものです。 (05/11/08 アップ時補記)]

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コメント

コン コン 入りまぁす。パタン。。。。

やいっちさん、素晴らしいですね。
>底知れず深く巨大な湖の底に夜の間は眠り続けていた無数のダイヤモンドダストたちが目を覚まし踊り始めるような、得も知れない感覚が襲ってくる。

あの一瞬のそれでいて永遠と思われるような時間、遠くに微かに光の粒子が踊るざわめきが聞こえそうです。

朝の森の写真を拝見しました。
あの写真を御覧になって書きたいと思われたその気持ちが、(私なりに)とてもよく解るような気持ちです。

深い深い山の奥で、木は倒れ、長い時間をかけて、そこには小さな命が生まれ、また木が倒れ、また命が生まれ・・・・・
生まれたことへの畏れや今自分が自分としてある不思議、これは、全くの偶然で存在するわけで(まだ生命の片鱗の瞬間から自分になるか、違う‘自分‘になるか何百万分の一以上の確率で生まれた自分と言う不思議・・等考えてしまいます。
どう考えても、私は答えを見つけられません。

倒れた古木、素敵な文ですね。
ぴったりだと思います。私はこれが言いたかったのかも知れない・・・。

画像をこんな素敵な文章に使っていただいてありがとうございます。
縮小などお気にしないで下さいね。

誰もいない森では今夜、星と落ち葉で乾杯しているかもしれませんね。
あんまりまとまりの無い文です
お許しくださいませ。

投稿: 蓮華草 | 2005/11/08 22:15

蓮華草さん、コメント、ありがとう。
そして画像の提供も、ありがたく思っております。
石橋睦美氏の「朝の森」の写真、素晴らしいでしょう! 触発されちゃいますね。ま、黙って嘆賞していればいいのですが、そこはそれ、それはそれとして、可能な限りの文章化を試みたくなる性分なのです。
でも、せっかくの写真を付すわけにもいかず。

こうやって文章にしてみても、結局は画像には敵わない。
ただ、敵わないというのなら、画像だって現実の風景に敵うはずもない。
だとしたら、画像にも文章にも、それら独自の世界、それら独特の表現領域があるはず、それを信じるしかないですね。

投稿: やいっち | 2005/11/09 02:20

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