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2005/11/27

電車の男

 久しぶりの電車だった。なんだかはしゃぎたくなるような浮かれた胸の高鳴り。まるで遠足にでも行くみたいな。
 その昔、電車やバスというと視線が気になって乗るのが怖かっただなんて、我ながら信じられない。
 そうだ、あの頃は、自分が見つめられている、観察されている、いや、見張られているような気にさえなったものだった。
 思えば、父や母の庇護のもとに自分がいた。常に守られていた。
 けれど、眼差しが熱くて、鬱陶しいと思うばかりだった。
 あまりに暑苦しいので、両親の目の届かないところに居てさえも、橙色の光線が背中に、肩に、お尻に、お腹に、仕舞いには足元にまで射竦めていた。
 気分さえ良かったら、あの頃の自分は陽だまりとなった視線にぬくぬくすることができたこともあった。
 そんな夢心地の時は、めったになくて、実際には二人の巨大な瞳の海を彷徨う、オールのないボートに揺られていた。たっぷりと水が溜まった瞳と言う名の天蓋が、あまりの重みに耐えかねてあの頃の<ボク>を押し潰さんとしていた。夜中、胸苦しさに目覚め起き上がって、ぜーぜーと激しく息を吐いたことが何度あったことか。
<ボク>は、鉄柵で囲われた児童公園の砂場に大人しく遊ぶ、そう飼い馴らされた小熊だった。

 それでも、いつの頃からだったろうか。首輪が外されてしまった。<ボク>は戸惑った。足枷に行動の自由がさえぎられているのが当たり前だったのに、突然、糸の切れた凧になりなさい、風の吹くまま何処へでも飛んでいいなさいと突き放された。
 そう、あの日、二人は別れてしまった。いや、三人はそれぞれが風船になって虚空へと舞い上がっていったのだ。

 ボク、大丈夫よ、どんなことがあっても、母さんはお前のことを忘れないからね。
 一人ぼっちだと思っちゃ、ダメだぞ。オレはいつもお前のことを見守っている。

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2005/11/21

投句に寄せて(1)

木枯らしに吹き寄せられし落ち葉かな
枯れ葉くるくる人生くるくる
山茶花の初の一輪賞でにけり

 以上は、憩いの田舎家管理人さんの投句です。

 返句するほどの立場ではないのですが、あくまで句作を楽しむ、句境を遊ぶ、交流を楽しむということで応じてみたいと思います。
 できれば一句の投句であって欲しいのですが、ま、遊びをせんとや生まれけん、の精神で細かなことにこだわらずにやったほうがいいのでしょうね。

 都合上、憩いの田舎家管理人さんを「管」とさせてもらいます。「か」でもいいのですが、近い将来、ハンドルネームの頭文字が「か」の仲間が加わわる可能性も期待して、敢えて「管」さんとさせてもらうわけです。
 よって小生自身については、「弥」と表示させてもらいます。


> 木枯らしに吹き寄せられし落ち葉かな    (管)

 落ち葉の行方を追う印象的な句ですね。ただ、小生には説明調に感じられます。つまり、風景を描いているにとどまるような気がするわけです。といって、小生に添削する権能もあるわけじゃなし、あくまで返句を寄せさせてもらいます。

  落ち葉追う孤影一つを月や見る   (弥)


> 枯れ葉くるくる人生くるくる    (管)

 遊び心タップリの句ですね。同時に運命に翻弄される己の姿を投影してもいるのでしょう。辛らつでもあり滑稽でもある、幾分の自嘲の感を込めた句境を狙っているのでしょうか。
 いい加減、己を翻弄するのも大概にしてくれとお願いしたいものですが、運命は、そうは容易く終焉の時を与えてはくれないようですね。


  舞わされて目を回しても終わり来ず    (弥)


> 山茶花の初の一輪賞でにけり    (管)

 庭先の山茶花なのでしょうか。それとも、近所を歩いていて、ふと見かけた山茶花の花? 日頃、目にしている山茶花の木だけに、咲かないかなと待っていて、おお、最初の花が咲いたぞ、気づいたぞといった気持ちが込められているようです。
 山茶花については、このサイトや季語随筆「山茶花の頃」などを参照願います:

 子供の頃から「たき火」の歌で「さざんか」という花があることは知っていました。けれど、これが山茶花だと分かって、しげしげと見たのは、ずっとあとになってから。
 それも、「椿」と「山茶花」の区別は、花や木を見ているだけでは、あまり区別が付かなかった。
 まして、山茶花が日本が原産地だったなんて、知る由もなく。
 さて、葉っぱなどではなく、花でその違いがはっきり分かる。その違いとは?

 いずれにしても、山茶花の花は遠めにも、それとはっきり分かる大柄さと鮮やかさが特徴。
 そう、濃い緑の滴る野に萌える灯のようでもあります。


 山茶花や深き緑に焚き火かも    (弥)

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雅句駄句拾遺10-2

「雅句駄句拾遺」と自称しておりますが、段々あちこちで書き散らしている句を拾いきれなくなっています。
 一部、11月作のものも含まれています。
 ともあれ、落穂拾いは自分でやらなくっちゃね。落語なんて芸能があるけど、落句って芸能がここで生まれるかもね?!

 では、雅句駄句のオンパレードの始まりだ!

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渡り鳥かくのごとくに過ぎる時
来年も来るか来ないか渡り鳥
来たとても同じ鳥とは誰が知る
高空を渡り消え行く鳥の群れ
高空の遥かなごとく渡り鳥
     (October 14, 2005

山茶花の咲くを知らずに町の人
山茶花の赤い花さえ見ず過ぎし
山茶花の濁りし赤の恋なるか
落ち葉焚き山茶花さえも焚かれしか
せめてもと胸の中咲く山茶花か
     (October 15, 2005

我ホットに愛す珈琲を
珈琲を恋しいと読む我悲し
アイスでもホットな孤悲が叶うのよ
ホットなの私を愛す恋しいって
     (October 16, 2005

団栗の転がる先は池なのね
団栗や仲間が多くて埋もれちゃう
団栗や仲間に埋もれ安心す
団栗や棘ある仲間嫉妬する?
団栗を団塊と読む我悲し
団栗の弄ばれて喜んで
団栗や背比べするまた楽し
     (October 18, 2005

蚊さんは夜なべをするも朝は来ず
中身こそ命だとばかり石榴裂く

(サケじゃなくてマスの話。我が郷里の「マス寿司」のマスは、川魚のヤマメが海に出てマスに育った奴なんだって)ということで:
海川を遥かに超えて我が口へ

当てもない着信気にし秋暮れる
稲孫伸ぶ刈られし稲田見渡して
     (以上は、ちゃりさんのサイトにてのもの)

玉追える龍の争い今も尚
コスモスや風に委ねる袖の香か
葉牡丹の秘密潜めて冬来る
     (以上はオリオリさんのサイトにてのもの)

秋の日の待ち遠しいと窓にらむ
秋の夜や深く静かに愛でてみん
山頭火オイラが書けば三等か
分け入っても先の見えない日々続く
こおろぎの鳴くかと思えば屁だった
サンバ?そう!やいちは転げ目を回す
    (以上はホームページの掲示板その他で披露したもの)

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2005/11/08

誰もいない森の音

 そのつもりはないのだが、仕事柄もあり、望まなくとも徹夜してしまう。夜を起き通すのが珍しくない生活を送っている。 連休で在宅していても、日中、疲れを取るために寝込むため、その余波で夜中になっても眠気がやって来ず、それどころ逆に目が冴えてしまったりする。
s-DSCF0367
← 11月初め、羽田空港からの帰り、某休憩所にて。小さく、でも目には眩く一番星が…。 

 仕事では、どこで夜を迎えるか、分からない。夕刻の淡い暮色がやがて宵闇となり、さらに深まって、真夜中を迎える場所が都会の喧騒を離れる場所だったりすると、耳にツーンと来るような静けさを経験したりする。
 が、仕事中は方々を移動するので、時間的な変化と場所の変化とが混じり合って、時の経過につれての夜の様相の変化の印象を掴み取るのは、さすがに少し難しい。
 それが、在宅だと、折々、居眠りなどで途切れることがあっても、一定の場所での光と闇との錯綜の度合いをじっくり味わったり観察したりすることができる。 夜をなんとか遣り過して、気が付くと、紺碧の空にやや透明感のある、何かを予感させるような青みが最初は微かに、やがては紛れもなく輝き始めてくる。
 理屈の上では、太陽が昇ってくるから、陽光が次第に地上の世界に満ちてくるからに過ぎないのだろうが、でも、天空をじっと眺めていると、夜の底にじんわりと朧な光が滲み出てくるような、底知れず深く巨大な湖の底に夜の間は眠り続けていた無数のダイヤモンドダストたちが目を覚まし踊り始めるような、得も知れない感覚が襲ってくる。

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