シャボン玉の夢
ある日、ボクは気づいた。ボクと出会う人がみんな石になってしまうことに。
裏通りを歩いていたら、お兄ちゃんの姿を見かけた。いつもボクと遊んでくれる兄ちゃん。弱気なボクを励ましてくれる兄ちゃん。
その兄ちゃんに「こんちわ」って声をかけたら、チラッとボクを見ただけで、何の表情も見せないで、黙って行き過ぎてしまった。
まるでボクがありふれた動物か何かで、ゲエーとか、ギャーとかって鳴いたから、どんな動物か見たけど、つまらない奴なんで、興味がまるでわかないみたい。
ねえ、兄ちゃん、ボクだよ、ボク。
何か心配事があるのかな。ボクのことを構う余裕も無いのかな。
ボクは、一言でいいから声をかけて欲しくて、兄ちゃんのあとに付いていった。
気付いている。ボクがあとから追いかけていることが分かっている。
なのに、振り向きもしない。足を緩めようともしない。
歩いているうちに汗ばんできてしまった。息が弾む。苦しいほどになった。
でも、歩き続ける兄ちゃん。
ボクはとうとう我慢がならず、駆け出して、兄ちゃんの前に出てみた。
そうしたら、さすがに兄ちゃんだって、ボクのことに気付いてくれる。「おお、なんだ、お前かよ」って、気さくに応じてくれる…。
最後の元気と勇気を振り絞って、兄ちゃんの目の前に立ってみたんだよ。
だけど、兄ちゃんは、路肩のお地蔵さんでも眺めるみたいに、黙りこくったままだった。
それどころか、石ころでさえない。兄ちゃんの目はボクを透かして、あらぬほうを見ているだけ。
ボクが邪魔なら、邪魔って言ってくれたらいいのに、兄ちゃんは、障害物を避けるみたいに、ただボクを遣り過しただけだった。恐々、兄ちゃんの目を覗き込んだけど、ない! 何もない! ボクは空気以下なのだ。
何か汚れたものを、目にしてはいけないものがそこにあるかのように、不快そうな表情をボクは見逃さなかった。
で、見てはいけないものを目にしてしまって、兄ちゃんは、とうとう石になってしまった。ボクと通い合う何もかもが全て死んじゃった。
ボクのせいなの?
ボクは、一言も言葉を交わすことなく、兄ちゃんのそばを去った。息も絶え絶えになっていた。胸苦しい思いで胸は一杯だった。訳が分からなかった。
気のせいだ。兄ちゃん、きっと、ボクの分からないような心配事で頭の中が一杯なのに違いない…。
空はカンカンに晴れ上がっていた。真っ青な空。日の光を跳ね返して、道が白く眩しい。葉っぱだって、緑のはずが、キラキラ輝いている。
秋の風が吹き始めたって、誰かが言ってたっけ。
でも、夏の光が町中に溢れている。川面も光の帯みたいになっている。
気分は最高、のはずなのに。
歩いていたら、近所のユカリさんと娘のカナちゃんが一緒になっているのを見つけた。カナちゃんとは遊び仲間だ。大好きってわけじゃないけど、カナちゃんはボクのこと、まんざらじゃないみたい。
たいてい、カナちゃんが先にボクを見つけて、ねえ、これ見て、綺麗でしょ、なんて言って、ユカリ母さんに買ってもらったポーチとかハンカチとか、シューズなんかを見せびらかす。
ボクは、カナちゃんといるのが嬉しいんだけど、邪魔そうな顔をしてしまう。
間近に顔を寄せて、あれこれ話をするものだから、カナちゃんの今朝の食事の内容だって、息で分かるほどだ。
そのカナちゃん、なんだか不思議な顔だった。何か言い含められたような、渋い顔だった。ユカリ母さんも、いつものように、勢いよく、「こんにちは!」って声を掛けてくれない。
それどころか、すぐにも通り過ぎたくてならないみたい。何を喋ったらいいのか、まるで分からない。関わりを持ちたくないという雰囲気がムンムンしている。
カナちゃん! カナちゃんだけは、ボクを見捨てたりしないよね!
でも、ボク等は、風のように通り過ぎただけだった。
カナちゃんが、もどかしそうな表情をしているってのも、ボクの勝手な思い込みだったかもしれない。ボクのことに最初から気付いていなかったのかもしれない。ボクは空気だ。透明なんだ。何もないんだ。
透明人間なんだから、誰にも気付かれないのも、当たり前の話だ。
ボクはやっと、朝の気まずい雰囲気の理由が分かったような気がした。そうだ。ボクは、今朝から透明人間になったんだ。ボクはここにいる。だけど、ここにいない。ボクがここにいることは、誰でもないボクが知っている。
だって、そうでなきゃ、ボクの揺れる気持ちの居場所がない。ボクは、とにかく、ここにいる。
ただ、それが他人には見えないだけなんだ。
父ちゃんも母ちゃんも、お姉ちゃんも今朝は、黙々食事していた。
ああ、ウソだ。黙々と、じゃない。三人でお喋りしていたんだし。
ボクの話し掛けには誰も応じてくれないだけだった。
ボクの茶碗には御飯もあれば、オカズもあった。味噌汁の具だって、ボクの好きなジャガイモとワカメだ。今朝なんて、キャベツも入っていて、御飯と味噌汁だけで十分なほどだ。
ボクの話し掛けには誰も応じてくれない…。ボクが「御飯、お代わり」って言ったら、ちゃんと母ちゃんはお代わりをよそってくれる。ボクはそれを受け取り、食べる。ボクがここにいることは分かっているはずなんだ。ボクがオカズを零すと、口に出して拭きなさいとは言わないけど、布巾を渡してくれる。
ボクはここにいる。誰も彼も、気付いている。分かっている。だけど、ボクの言葉には誰も応じてくれない。そもそも、ボクに話し掛けようともしない。
ボクに話し掛けても、無駄だって、みんな思い込んでいるんだろうか。どうして、一言でもいいから、ボクに声を掛けてくれないんだろう。いつから、ボクとみんなとは、違う世界に住むようになったんだろう。
今朝から…。
そうじゃない。悲しいけど、ずっと前からだった。最初はボクも気付かなかった。そんなものだと思っていたんだ。でも、違う。他のみんなは、言葉を交わしている。言葉のキャッチボールをしている。仕草と言葉が一緒になっている。
ボクとは、ただ、動作が反応しあうだけだ。
ボクが、(今日は寒いね)って言っても、その話題は素通りする。ボクの言葉は、透明な枯れ葉みたいに、フワフワ浮かんで空中に消えていく。シャボン玉だ。虹色に輝く表面も膜もない、空っぽのシャボン玉なのだ。
ボクは、言葉のない世界に慣れるのが怖かった。慣れたら、もう、きっと、一生、ボクと世界とは交わりがなくなってしまう。ボクはこの世界にいるのに、いないことになってしまう。
誰もがボクを腫れ物みたいに扱っている。触れない限りは、破裂しない。膿も流れない。シャボン玉みたいに弾けて、とばっちりを受けることもない。そう、決め込んでいるみたいだ。
ボクは疲れきってしまった。
今日という今日、ボクは、この現実を受け入れることにした。ボクは違う世界で生きることにした。そのほうが楽だし。沈黙の世界。誰も彼もがお喋りし、係わり合い、仕草の交換をしている。
ボクだけが、弾まないボールを手に、一人、壁に向かって投げつけて、ボクに向かって跳ね返ってくるのを見守っている。
ボクは透明なパイプの中を歩いている。外の声は聞こえて来る。だから、決して孤独なんかじゃない。ただ、ボクの声が外に漏れないだけだ。パイプの外の光景は、みんな夢なんだ。みんな、本当は人形なんだ。外見がとっても、人間に似ているだけなんだ。石になってしまうんじゃなくって、最初から、ただの木偶の坊の人形劇に過ぎないんだ。
だから、みんなボクに気付かない。無理はないのさ。人形に向かって、返事をしろって言うほうが無理なんだし。
そのようにして、ボクは納得することにした。
ボクの声は、うちに篭る。パイプの中をグルグル巡って、やがて空しく消えていく。
ああ、でも、ボクは何処に居るんだろう。何処かに居るはずなのに。自分でも分からない。
母ちゃんも父ちゃんも居る。姉ちゃんだって居る。なのに、ボクは仲間外れ。この世界で一人ぼっち。
夢。夢を見ているに違いない。ただ、目覚めることのない夢だというだけ。真ん丸で透明な球体の中に居る。今にも弾けそうなシャボン玉の中に。
もしも、本当に弾けてしまったら、一体、どうなるんだろう。
ボクは、それが怖いんだ。
そしたら、ボク自身が弾けて粉々になって、空中に消え去る。
ボクは、懸命にシャボン玉が割れてしまわないよう、息を潜めるしかなかった。ボクがここに居ても、まるでいないように装うしかなかった。ボクはいない。だから、いないものが弾けるはずもない、というわけだ。
終わりのない夢の中で、ボクは、息を殺して生きている。息をしない生き物となっている。ボクこそが、木偶の坊だ。人形だ。自作自演の人形劇の主人公だ。訳の分からない脚本の通りに動作しているだけなんだ。
でも、いつまでも、こんなじゃ、疲れきってしまう。
ああ、こんなボクを誰か、見つけて!
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コメント
不思議な 明るさ 透明さのなかの
悪夢って感じですね。
全く一人ぼっちで 暗くてオドロオドロしいところにいるよりも こんな風な状況のほうが
怖いかもしれない。
自分が なくなってしまいそうで・・。
投稿 なずな | 2005/09/13 16:00
この感じが小生の一番根源的な世界感覚なのかもしれない。少なくともそのひとつ。
世界はある。自分もいる…はず。
でも、不在。
世界はまぶしい。何もかもがある。にぎやかだし。ボクには退屈の文字はない。いつも空虚な緊張感に満ちているから。退屈など!
神経が磨り減るほどに、磨り減ってしまったほどに孤独。
だからこそ、オイラは言葉で世界を埋め尽くそうとしている。空白の穴ぼこだけの世界をね。
投稿 やいっち | 2005/09/14 10:19