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2005/09/04

公園にて

 或る日、タクシーの車中でこんなことを思っていた。

 その日は予報では午後から晴れるはずだったのに、午後の一時半過ぎから小糠雨が降り出し、それがついにはすっかり土砂降りの雨となってしまった。
 一時は空も明るくなってきた感じがあったのに。
 走り疲れた。いつもの公園の脇に車を止めよう。
 車中には読む暇などないと思いつつも、正岡子規の『仰臥漫録』(岩波文庫刊)を持ち込んでいる。猛烈な痛みに耐えつつ、窓外の四季の変化を過敏なほどに嗅ぎ取ろうとしている。
 己の終わりの時を意識すると世界の中のどんな風物も感覚を直撃する棘を立てているかのような鮮烈さを以って人の感性を駆り立てる。煽るようにして何事かを感じさせる。予感させる。枯れ葉でさえもが梢を離れる瞬間に悲鳴を上げているように思える。

 枯れ葉散る間際の声も雨に消ゆ

 ひらひらと風に舞いながら、束の間の浮遊感を味わい、でも実は、舞っているのではなく風に弄ばれているのであり、浮遊感なんてものじゃなく、己の意志など無き物にされていると感じているだけであり、やがては土の上に散り敷かれ、行き交う人に踏みつけにされ、吹き寄せられ、あるいは掃き寄せられ、死骸や朽ち葉の山の一欠けらにされてしまうまでの束の間の酩酊感に酔っていたいだけ…。

 自由とは誰とも絆断つことか

 寝床に縛り付けられて見馴れたはずの部屋の様を改めて末期の目で眺める。古びてかび臭い桟、壁の罅割れや襖の滲み、擦れた畳、手に馴染んだ湯飲み茶碗、狭い台所の黴や汚れ、その全てに生きた証が擦り込まれている。
 漱石も子規も小生には曽祖父より古い世代の文人たちだけど、明治の混乱期にあって、懸命に文学とは生きるとはを考え表現してきた。
 考えてみると、いつの時代も混乱期であり転換期であり先の見えないという点にあっては同じ事情なのだろう。努め、求め、試み、悩み、迷う限りにおいては、誰にも先のことなど分かりはしないのだ。

 あくがれて誰しも惑い道を行く


 また別の日には、タクシーを止めて、こんなことを思った。

 品川区のとある公園の脇に車を止めている。車に給油し、最後の一走りをする前の一服。といっても、タバコを燻らしているわけじゃない。持参のボトルのお茶を一口飲んで、あとはただちょっと冷たい風に吹かれ、ぼんやり夜空を見上げているだけのこと。
 年が明けたと思っていたら、気が付くと、もう、今年は一月も残っていない。
 もう、季節は冬なのだろうか。
 普通なら冬なのだろうけど、今ひとつ寒さが本格的とは言い難いし、といって秋が終わりという感じもしない。季節の分かれ目が曖昧なのだ。木々に目を遣ると、葉っぱは随分落ちて去ってしまって、健気に枝にしがみついている残り少ない葉っぱが寂しげ。

 残る葉の揺れる寂しさ日暮れ時

 この頃ともなると空気も乾いているし、日中、風があったせいか、空を眺めると、街灯が多く決して暗いとはいえない公園の脇で眺めているにも関わらず、瞬く星の数が多い。
 東京でもこんなに星を愛でることができるんだと、なんとなく驚いてみたり。
 何をするでもなくいつものように通り過ぎていくこの年なのだけど、それでも、乏しい脳と能を絞るようにして、あれこれと書き綴ってきた。少しは本も読んだ。何かに付けて感じることもなかったわけでもない。
 それに、今年の夏は、一つの転機を自分に与えてくれた。こんな(といっても自分でも分からないでいる部分が多いのだが)契機が自分に来るとは思いも寄らなかった。だからといってどうなるという予測もない。
 というより立てようがない。

 胸騒ぎただ湧き立つを如何せん

 今は、自分を何処へ導いていくのかしれない波に身を任せ、あるいは時に敢えて潮の流れに乗り、きっとより豊かな実りの世界へと、流れのままに生きていくだけだ。人との出会いというのは、実に有り難きものだと今更ながらに思う。
 願わくは、小生と出会った人たちにも、ほんの少しでもより豊かな世界へと導かれるのであって欲しい。出会いが互いに素晴らしいものであって欲しい。星々に骨身に凍みるほどに見つめられて、ただただそう願うだけである。

 あくがれや募るほど深き闇の底

 さて、読みかけていた正岡子規の『仰臥漫録』を月曜日未明に読了。これで何度目の読破となるか分からないが、読むたびに子規の鬼気迫る苦しげな息を感じる。どんな状況に追い込まれても、それを書き留めねばいられない文豪というより文業の凄まじさ。
 妹をさえ、えげつないほどに描いてしまう。

 命とも引き換えなのか鬼の書く

 そういえば、つい先日の9日は、夏目漱石の命日だったはず。その日、高浜虚子著の『子規・漱石』を読了した。漱石を同時代の人として見、付き合った虚子の文章を読むことで、少しでも漱石や子規を身近に感じたかったのだ。彼らの時代を精一杯生きた。でも、子規は勿論、漱石も小生より若くして亡くなっている。そのことを思うと、比べるのが生意気と思いつつも、我が身が淋しくなる。
 自分なりのやり方で頑張っていくしかないんだろうけど。

 我は我呟く口の空しかり

 きっと誰にもまだまだ分からない先が待っているのだと思う。なぜなら、人の目には冴えない自分であっても、何かを求める気持ちと恥ずかしくて人には言えないけれど何かへの焦がれる気持ち、憧れる思いが募っていることを感じるからだ。
 今年もあと少し。でも、人生の先があと少しかどうかなど、誰にも分からない。まして来年のことなど、何が分かろうか。迷い。その中でより可能性のあるほうへ歩いていけたらいい。今はそう、思うだけ。
 誰のためでもない自分の為に…。
 いや、ただ歩く。それが全てなのだ。
 さて、そろそろ仕事に戻ろうか。

 歩いてるただ歩いてく孤影かも

[ 本稿は、「年末に思う(我が日記より)」(03/12/16)を元に、俳文に仕立ててみたものです。 (05/09/04 アップ時付記) ]

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